『しがらみ』は『こくはく』を導いて2-4
「お姉ちゃんは、すごいです。料理もできますし、机の組み立ても、工具も使いこなして、指示も的確でしたし、何よりも・・・やさしいです。ですから、お揃いなんて、わたしには、贅沢です」
この机は、自分の身の丈にあってない。この場所だってそうです。わたしにとっては、贅沢です。
「贅沢か、私も、そう思う」
お姉ちゃんは机を
「調べたらわかるけど、この机は安くない。勉強するだけなら、机がなくても出来るし、買うにしても、もっと安いのだってあるのに」
そう言って、机の上に置いてある黒革のブックカバーをした本を手に取りました。今朝、読んでいた物と、同じ物です。
「でもね、私が幼い時に、これがいいって、この机じゃなくちゃダメだって、駄々をこねた人がいたんだよ。まったく、私のなんだから、自分で選ばせればよかったのに」
ここにいない誰かに語るように、机に向かって話していました。
「だから、この机が私のもとに来た時に、頑張ろうと思った。頑張って、この机にふさわしくなろうって」
自身に向かって、話しているようでした。
「私も一緒だよ。今だって、ふさわしくないって思ってる。だから、認められたい。この机にも、買ってくれた人にも、ね」
最後に、わたしに向かい、話していました。
「お姉ちゃんは、十分ふさわしいと思います。何だって、できますし」
「何だっては、できないよ」
お姉ちゃんは、わたしの前に立って、それから、初めて会った時と同じようにしゃがんで、わたしの目線に合わせました。
「本当はね。お昼だって、もっと上手くやりたかったんだけど、失敗しちゃった。学校でね、一人で考え事してると、友達がああやってわたしの名前を呼んで、それに振り向くと、思いっきりチョップをしてくるの。こう、頭上にね」
わたしの頭めがけてゆっくりと腕を振り下ろして、途中で止めました。
「それは、痛そうです」
「そう、痛いんだ。でもね、教えてくれるの、また周りが見えてないぞって。だから、感謝してる。おかげで、高校では
お姉ちゃんは、恥ずかしそうに目線をそらしました。
「いざ、ノアちゃんの顔を間近で見たら、頭の中が真っ白になって、それで、何だか急に、恥ずかしくなっちゃって」
どうしたのでしょうか、先ほどまで、落ち着いて話していたお姉ちゃんは、今ではそわそわとして、落ち着いがなくて、目も泳いでいてこちらを向いてくれません。何だか、そんなお姉ちゃんを見ていると、わたしの中に、よこしまな考えが浮かんできて、自分の手を見て、それからよし、と決心すると、わたしはお姉ちゃんに声をかけました。
「お姉ちゃん」
ん・・・と少し、自信のなさそうな声が聞こえて、それからこちらに振り向いたお姉ちゃんの頭上に、わたしはチョップをしました。痛いのは嫌なので、ゆっくりと、優しくですが。でも、綺麗に決まって、お姉ちゃんはあっけに取られたのか、目を大きく見開いています。
わたしは、笑いました。綺麗に決まったのもありますが、驚いているお姉ちゃんの顔が、面白かったので。
「すみません、やってみたくなっちゃって。でも、お姉ちゃんのお友だちの気持ち、わかる気がします」
「え・・・?」
お姉ちゃんは、まだ何が起こったのか理解できていないようで、わたしがチョップした部分を手で抑えています。わたしは手を伸ばし、その手を
お姉ちゃんの手からは、温かくも、冷たくもない、心地の良い体温が伝わってきます。
いつも、家事をしているからなのでしょう、少しだけ荒れていて、小さな傷も見えました。いまさらですが、近くでみて、初めて気がつきました。
この人は、昔からずっと頑張ってきたのでしょう。なりたい自分に向かって、変わっていこうと。この人の手は、それを物語っていました。
「ノアちゃん・・・?」
「わたしも、変われますか?」
背筋に寒気が走り、手には自然と、力が入りました。この先を、言葉にしていいのかと、でも言葉を止めたくありませんでした。
「わたしも、頑張れば、変わっていけるのでしょうか・・・」
変われない、と心の中で誰かがささやきます。変われていたのなら、ここにはいないのだと、自分でも理解しているからです。
でも、恐れているわたしに、お姉ちゃんは思いがけない言葉をいいました。
「人は、他人を変えられない」
「え・・・?」
「私が幼い頃に、何度も言い聞かせられた言葉。その意味が知りたくて、ずっと勉強してきた」
お姉ちゃんは、冷たい視線で、本棚を見ていました。
「この言葉ってね、引用なの。カナダの精神科医のエリック・バーンっていう人の、過去と他人は変えられない。けれど、未来と自分自身は変えられるって言葉からの」
それから、優しい表情で、わたしの方を向きました。
「自分が変われるかどうかってね、他人とか、過去とかは関係ないの。変わりたいって思った時に、すでに変わってるんだよ。だからね、ノアちゃんはもう変わってる。あとは、一歩進むだけ。それだけで、いいんだよ」
急に目の前が
この人の過去は分かりません。でも変わろうと努力をしてきたのは、今握っている手や、ここ数日、わたしにしてくれた事から伝わってきます。
そんな人が、わたしはもうすでに変わり始めていると言ってくれたのです。
今まで周囲からかけられたような
その言葉だけで、わたしはうれしくて、ここにきてよかったと、この人に合えてよかったと心の底から感じました。
でも、それではいけないのです。
わたしも、変わりたいです。もう、二度とあんな事とにならないためにも、これから先を生きていくためにも、一歩を踏み出して、この人のように変わっていかなければいけません。
では、その一歩とは何かと考えたときに、答えはすでに決まっていました。
「立って、もらってもいいですか」
お姉ちゃんは何も言わず、静かに立ち上がり、わたしがつかんでいる手も、ゆっくりと上へと上がっていき、胸の前にあった手は、今ではわたしの顔のそばに来ました。
お姉ちゃんの手に、顔を近づけ、怖がる自分に、大丈夫だと言い聞かせました。
大丈夫だと。この人は、待ってくれている。だから、大丈夫。
わたしも立ち上がって、深く息を吸いました。
「お姉ちゃん」
服の
「一つ、聞いてもいいですか」
お姉ちゃんは少しだけ、迷ったように見えました。でも、すぐに「何?」と言ってくれて、わたしはすぐに、その言葉につづくのです。
「わたしは、どんな風に見えますか?」
ひどい質問です。相手を困らせることしかできない、自己満足な質問。でも、聞いておきたかったのです。だって、わたしはこれから変わるのですから。
「ノアちゃんは、そうだね、強い子かな」
「本当ですか、それ。初めて会った時、怖くて隠れたんですよ」
「本当だって、今だって、普通に話せているし、それに、年上の人の頭をたたく人が、弱いわけないじゃん」
それもそうだと思いました。わたしは、強い子なら、もう、恐れるものはありません。
「話したいことがあるんです。聞いてもらえますか?」
お姉ちゃんは、
けれど、わたしの心はなぜか穏やかでした。
話すのなら、今なのでしょう。
「わたしは、いままでずっと、母と二人で暮らしてきました。裕福ではありませんでしたが、それでもよかったんです。母はいつもやさしくて、家にいるときは寝るときもずっと、一緒にいてくれました。わたしも、そんな母が大好きでした。」
「でも、今年に入ってすぐ、とても寒い日があって、その日も、いっしょに寝てて、ふたりだから、あったかいねって、母はいってて、それなのに、次の日おきたら、母は起きてくれなくて、いつもなら母の方が早くおきるのに、とても冷たくて、それで、寒いなら、あたためてあげようとおもって、それで、だから、それで、」
「ノア!」
大声と一緒に、お姉ちゃんはわたしに抱き着きました。両腕をわたしの首に巻き、耳元でお姉ちゃんの呼吸をする音が聞こえてきます。
「ありがとう。話してくれて」
やさしい声が、耳元で聞こえます。
「でも、まだ、話さないといけない事がたくさんあります」
「また、今度にしようよ。私はここにいるから、そばにいるから」
わたしは崩れるように、
お姉ちゃんの背中に、手を回すと、動いているのがわかります。
お姉ちゃんの肩に、顔を埋めると、息と合わせて、動いているのがわかります。
この人は、生きています。生きて、わたしの側にいてくれています。
「お姉ちゃんは、あたたかいですね」
「ノアちゃんも、あたたかいよ」
夕日が沈みかけ、大地は赤く、空が深い青紫にそまる時間帯。わたしは、ようやく。母が亡くなった事を自分の口から話すことが出来たのです。
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