『しがらみ』は『こくはく』を導いて2-2


「パンケーキ・・・初めてみました」


 目の前に置かれた料理に、わたしの目は釘付くぎづけになりました。この時までわたしはパンケーキを見たことがなかったのです。


 時々、クラスメイトが食べに行ってきたよ、と話しているのを聞いたことがあるのですが、外食ってあまりした事がなかったですし、興味も持った事もなかったので。


「そうなんだ。冷めないうちに食べてね」


 そう言われて、わたしはうなずいてフォークを手に取りました。せっかくナイフも出してもらったのですが、使った事がないのでそのままにしました。


 おそるおそる、目の前にあるパンケーキにフォークを入れます。


 茶色くて甘い香りがする生地は、とてもやわらくてフォークで分けるのは少し難しかったですが、裂けた部分から覗く薄い黄色をした生地や、そこへ流れていく上に乗っていた溶けたバターがわたしの食欲をさらに誘いました。


「いただきます・・・」


 そう言ってから、わたしはフォークに刺した生地を口に運びました。

 

 どうしてか緊張してしまって、目を閉じていたのですが、一噛みしてわたしは目を見開きました。


 とてもおいしかったのです。生地はふわふわとして柔らかいくて、しつこくない上品な甘さとバターの塩気が相まって、わたしは自然と次々に切れ端を口に運んで、気がつくとお皿の上は何もなくなっていました。


「あ、もう食べ終わっちゃった? それなら味は大丈夫そうだね」


 いつのまにかお姉ちゃんは再び台所に行っていて、その両手にパンケーキの乗ったお皿を持って戻って来ました。

 一つはわたしの前に置いて、お姉ちゃんは向かいの席に座って、自身の前にお皿を置きました。


「昨日、朝ごはん一人で食べさせちゃったから、何だったら一緒に食べられるかなって考えてたんだけど。ほら、これなら今の時間に食べてもおかしくないでしょ」


 そう言って、お姉ちゃんはナイフを使ってパンケーキを切り分けて、フォークで口に運んでいきます。

 わたしと違って食べ慣れているのか、食べ方ですら様になっていて、口に入れてもその朗らかな優しい表情を崩しませんでした。


「そんな事まで考えてくれていたんですか」

「そんな事じゃないって、誰かがいるのに一人で食べるのって寂しいから」


 この人は、本当にやさしい。

 昨日の朝だって、遅く起きたわたしに「おはよう」と言って、何も言わずにその場で朝ごはんを作ってくれました。そして、わたしが食べ終わるまで一緒にいてくれて、


「あの、おいしいです・・・」

「ん?」

「おいしいです、このパンケーキも、昨日作ってもらったご飯も・・・お姉ちゃんが作ったご飯は全部・・・全部、おいしかったっ・・・ので」

 

 感謝をつたえたかっただけなのに、最後の方は恥ずかしくなってしまって、何を言いたいのか自分でもわからなくなってしまいました。


 わたしがおかしな事を言ったせいか、お姉ちゃんは固まっていまいました。こちらを向いて目を見開き、少しだけ口を開けたままで微動だにしません。


「あ、その、変な事いってごめんなさい・・・」


 わたしは下を向きました。

 自分の気持ちを伝えるのって難しくて、困らせるくないなら何も言わない方が良かったのでしょうか。


 でも、そんなわたしに、この人は、

「顔をあげて」

 と、言ってくれるのです。


「ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって、あんまり美味しかったって直接言われた事ないから」


「嘘じゃないです! 出してもらった料理は全部、いままでわたしが食べたものの中で一番おいしかったです」


 わたしはムキになって言い返してしまいました。

 だって、お姉ちゃんはすごく悲しそうな顔をしてたので、そう感じられて。


 直接言われた事がないと言ったお姉ちゃんの言葉が、何故かお姉ちゃん自身を傷つけているように思えて。それが悲しくて。自分でもわからなくて、ムキになってしまったのです。


 わたしは何がしたいのでしょうか。そんなことはこの人ならそのような事は百も承知なのに、わたしはこの人の事を何も知らないのに。


 確かめるように、新しく置かれたパンケーキをフォークで砕いて口に運びます。


 やっぱりおいしくて、何故なぜこの人が悲しそうにしているのかわかりませんでした。


 ふふ、っとやさしい笑い声が聞こえて来て、わたしは顔を上げました。


「そうなんだ、ありがとうね。そっか、おいしかった、か」


 そう言ってお姉ちゃんは楽しそうにパンケーキを口にしました。

 食べている姿には、やはり少しだけ違和感を感じますが、それが何なのか、どこから来るのかはわかりませんでした。


「美味しかったなら、また寝坊した時も作ってあげるね」

「それは・・・甘やかし過ぎです・・・」


 こんなにおいしいものを出してくれるなら、わたしは毎日寝坊してしまいそうでした。



 何だか色々とあった遅い朝食を終えたあとに、わたしは自分に与えられた『役割』をはたすために脱衣所に向かいました。


 そう、わたしはこの家での役割ををもらえたのです。

 洗濯とお風呂掃除だけでしたが、今までのように何もないよりはいいです。

 

 洗濯はした事がなかったのですが、意外にも簡単で、教えてもらった通りにカゴに入った服を選別してから洗濯機に入れて、洗剤を入れ、スイッチを入れるだけでした。


 お風呂掃除は、以前からした事があったので悩むことはありませんでした。


 与えられた仕事はどれも簡単な事で、手をつけてしまえば直ぐに終わってしまいます。


 ガタガタと揺れる洗濯機を前に、大きくため息をつきました。


 せめて、わたしもあの人みたいに料理ができたらもう少し役に立てたのですが、家庭科の授業で班の食材をすべて炭に変えてしまったわたしには、何もできる事はないのでした。


「もしも、教えてって言ったら、教えてくれるのかな」


 あの人なら、やさしいので教えてくれそうでした。でも、それでは今よりも余計に、あの人の負担になってしまいます。それだけは絶対にダメです。


 わたしは、甘えてはいけないのです。

 甘えてしまったその先に、何が待っているのかはもう、身にみています。


 胸のおくが、ズキズキと痛みしました。


 手で痛いところをおさえたいのですが、ふれることは出来なくて、しだいに速く、大きくなっていく心臓の鼓動だけが、むなしく、手に伝わってきます。

 

「もし、あの人みたいにやさしくて、料理が上手だったら・・・あんな事に、ならなかったのかな・・・ッ」


 過去になってしまった出来事が、頭の中であふれていきます。いつの間にか目元が熱くなり、おさえられなくなって両手でぬぐいました。

 

 どうしてみんなは、やさしくしてくれるのでしょうか。わたしにやさしくする理由なんてなくて、返せるものなんて、何もないのに。

 

 それともわたしは、みんながやさしくなるほどに、に写るのでしょうか。みんながあわれむほどに、な子どもなのでしょうか。



  洗濯機の振動する音だけが響く、せまくて少しだけ暗い脱衣所の中に、わたしはしばらくひざかかえて座っていました。

 ここが、この家の中で、わたしが過ごしてきた環境に一番近くて、一番わたしに合っていると、そう、感じたのです。

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