2-⑫

 

 元来た道を辿り、狐里雲へ向かう。戻ってきたディオとネモの姿を誰よりも最初に見つけたのは、湖に起きた異変を恐らく誰よりも心配していたカナタだった。

 狐里雲の人々は、今まさに、カナタの説得を受けて山を降りる直前だった。集まった人々に、二人は事の経緯を話す。

 大蛇が退治された事を喜ぶ一方で、元が人間だと知った今では、人々はどこか物憂げな表情を浮かべた。手放しで喜べない。そんな空気の中で、カナタがポツリと言った。

「もとは、俺のせいだ」

「それは、さっきも言ったように……」

 妖精が、と続けようとしたネモに、カナタは微苦笑を浮かべる。

「けど俺が大蛇を刺激したのも事実だろ。俺が狐里雲を危険に晒したんだ。だから、責任をとってここを出る。でも、決して狐里雲を見捨てない。……昔の話を聞いてから、考えていたんだ」

 広くはない狐里雲の敷地の、グルリと円を作るように立つ木造建築。彼は、その中央に集まった妙齢の人々の顔を見渡した。さんさんと降り注ぐ太陽の光を打ち消すように、少しひんやりした、心地よい風が吹いていく。

「俺も狐里雲が大事だ。商売をしながら、ここをどうにかして盛り上げる方法を探してみる」

 大蛇の問題は解決した。湖も時間が経てば戻るだろう。しかし、根本的な問題である、狐里雲の過疎化は止まらない。それが、狐里雲の人々が嘆いている状況であり、カナタがここを離れられない理由だった。

 狐里雲を捨てる。家族と縁を切る。そうして、何もかも忘れて、カナタは愛する女性と結婚し、平穏な生活を送る。そんな道を行くのも悪くないだろう。

 けれど、カナタはかつての狐里雲が辿った歴史を、コユメという少年を知ってしまった。狐里雲がどうやって生まれて、何に守られて来たのか。それを理解した今、故郷を手放すなんて考えられなかった。

「――物語、を」

 気が付くと、ネモは口を開いていた。人々の視線を一身に集めた彼女は、ハッ、と息を呑む。

「えっと、えぇっと、ですね……」

意を決して、ネモは頷く。

「英雄譚を作るのはどうでしょう。記録するだけでは、忘れてしまう。だから、一つの物語として、沢山の人に知って貰うんです」

 ネモは湖から狐里雲に戻るまでの間、ずっと考えていた。大蛇が封印から解かれて、ディオやヒエンのお陰で倒された。これら一連の出来事も、記録として残るだけならば、また寂れて埋もれてしまう。

 それでは駄目だ。狐里雲の為に必死になった人、守りたいと思った人……そこにあった感情や、沢山の願いが廃れてしまうのは、寂しすぎる。

「物語か……それを俺が、狐里雲の外の皆に伝えていけば良いんだな」

「それも大きな英雄譚です!」

「誰か、紙とペンをくれ!」

 カナタが声を張って、ネモの提案に早速取り掛かる。皆で口を挟みながら、ヒエンが語った内容から、壮大な物語へと話が作りあがっていく。

 その一部始終で、ディオは嫌そうにした。

「ネモ、隙あらば俺を過大評価するな」

「勇者ですよ! 嫌ですか?!」

「嫌だが」

 間髪入れず否定した彼に、長老が割って入る。

「しかしのぅ、ディオさん以外に勇者の立ち位置が似合う者は、他に居ないからのぅ」

「仕方ないよなぁ」

 そうそう、と誰もが同意する。個の意見は、群衆の意見に簡単に流されていった。

 ――まだ記憶が新しい内にと、熱を上げて生まれた物語が完成する。

『狐里雲にコユメという少年が居た。彼は、人々の身勝手で傲慢な願いを受けて呪われ、大蛇になってしまう。彼を救うため、どこからともなく現れた勇者は、彼が人に危害を与える前に倒した。人々は、少年と同じ悲劇が起きないよう、湖を、狐里雲を愛し、豊かにしていくことを誓う』

 大まかなあらすじだ。大切な事は、この話を各所で聞かせ、忘れないようにすること。

 狐里雲自体の発展には特産物があればなお良いが、湖の解毒が進まない限り、難しいだろう。

「伝える事が大切だ。もう二度と、起きないように……」

 カナタは呟く。彼はきっかけになったに過ぎない。今後、同じような事が起きる可能性はじゅうぶんにあった。人の負の感情が、復讐心が邪悪を寄せ付ける。

 ――それは、ヒエンも言っていた。

 いつだって、世界を歪めるのは悪意だと。

「カナタ」

 長老が、カナタの目を真っ直ぐ見詰めて言った。曲がった腰を伸ばして、青年の真意を探るようにする。それを、カナタも真正面から受け止めた。

「お前の言い分は分かっていた。でも、我々は狐里雲のため、まだ若いお前を手放すわけにはいかなかった」

 カナタはそれを理解していた。

「狐里雲を守りたいと言ってくれて嬉しかった。お前の好きなように生きなさい。ここを守るのは残った者の務めでもある。今回の一件から、なおさらだ。狐様に愛して頂いたこの場所を無くすわけにはいかんじゃろう」

「ありがとう、親父!」

 話は、少し前からまとまっていたらしい。狐里雲の人々も、カナタの門出を喜んでくれている。嬉しそうな笑顔を浮かべたカナタは、ディオとネモを振り返った。

「良かったな」

「やりましたね、カナタさん!」

 愛する者と離れ離れになる必要は無く、故郷を守るためにこれから戦うカナタの道行きは、明るい。それが、自分にとって過ぎた話であるとはいえ……ディオには羨ましかった。


 日が暮れる前に狐里雲を出る事にした。元から山越えの休息の為に立ち寄った集落だ。憂いが無くなった今、長居するつもりはなかった。

 それに、明日には王都から術士が派遣されてくる。またそこで、大蛇に関する話を聞かせて欲しいと足止めされるわけにはいかない。

 カナタ達は名残惜しそうにしながらも、無理に引き留めはしなかった。大蛇、湖の毒についての対応も任せて欲しいとのことだ。勿論、ディオ達の事は『通りすがりの旅人』ということにしてくれるらしい。

 狐里雲から王都へ向かう前に、あの祠へと再び足を踏み入れた。

 立ち込めていた霧は無く、数段の石畳みの階段の上には、寂れた鳥居が一つ。その後ろに鎮座する祠へと、ネモは近付く。

「あっ、狐さん!」

 祠の隣には、子狐が大人しく座っていた。しかし、ディオを見た瞬間、喉の奥で唸った後、唐突に甲高い声で鳴き始めた。

「うわわっ……ど、どうしたんです?!」

「これか……」

 思い当たる節があり、ディオは背負っていた荷物の袋から、四つ折りの紙を出した。まるで犬のように吠える狐に顰め面を浮かべて、彼はそれを、元の位置に戻す。

 小石の下へ。最初からそこにあったように。

「勝手に持っていって悪かった。中身は見ていない」

「何ですか、それ? お手紙……?」

 ネモは不思議そうにそれを見つめる。紙は白く、とてもこの辺りにあったとは思えない程綺麗だった。黒いインクが使われているらしく、薄らと透けて文字が書いてあるのが分かる。ディオには何となく、それが何か見当がついていた。ここはヒエンの祠。彼女が大切にしていたものなど、件の少年関係に違いない。

 それは、ディオが覗き見て良い物でもないだろう。

 そう思っていたら、紙の端に火がついた。

「あ、火が……」

 二人の目の前で、あっという間に赤く染まる。石の裏面を焦がし、燃えた先から炭化して、手紙は灰になってしまった。

「可愛がっていた童子が寄越した、特別でもないお礼の手紙よ。もう、遺物よなぁ」

 すると、ディオ達の後ろから声が掛かった。音もなく現れた彼女は、背中に流れる白髪を手の甲で払う。黒いドレスに被せた白い羽織に、先端だけが赤い毛先が散らばった。

「ヒエンさん! ……あ、えっと」

「狐里雲での会話は聞いていた」

 ネモは、ヒエンの姿にパッと顔を輝かせるが、すぐに言いづらそうに言葉を濁した。先んじて、ヒエンは囁く。それを聞くと、ネモは少しだけバツが悪そうに視線を地面に落とした。

「は、はい。勝手に物語にして、ごめんなさい。それをヒエンさんに謝らないと、って思っていました」

 カナタ達が語る物語に、直接ヒエンという妖魔が関わる事は無い。しかし、狐様として、登場させないわけにはいかなかった。本人の許可も取らず、なおかつ、これら一連の出来事を『物語』にした。祠に来たのも、此処ならヒエンに会えるかもしれない、という希望を抱いてだ。

 勝手にヒエンの大切な人を――コユメを、物語にしてしまった。それに罪悪感を覚えていた。

「良い。怒ってなどおらんよ、お嬢」

 ヒエンは、紅色の瞳を細めた。

「悪くはない出来だった。ふふっ、特に、勇者だったか? それがとんでもなく美化されておったな」

「それは私が渾身の力を振り絞って考えたからです!」

 えへん、とネモは胸を張る。ディオはため息をついた。

 ネモは、創り上げたばかりの物語に思いを馳せながら言う。

「物語として……カナタさんが、狐里雲の皆が紡いでいけば。その人は生き続けます」

 かつてあった出来事として、紙にまとめられるだけよりは、もっと身近に。まるで、その人物が生きているかのように。

 当然、会う事は出来ない。でも物語を通じて、コユメの息吹を感じられる。

「それは、悪くないのぅ」

 口元をほころばせて、ヒエンは穏やかに笑う。

 会えない人。もうどこにも居ない人。けれど、人々の記憶に残り続ける。

 ――ディオの妻が、彼の記憶の中に、今も鮮明に映るように。

(忘れない。……燃えてしまいそうな体温も)

 共に生きた日々。温もり。記憶に寄り添う五感のすべて。そういったものを、ディオが忘れない限り、彼女は今もここにいる。

 目には見えないけれど、確かに、ディオの心の中で生きているのだ。

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