2-③


 肩には赤いショールを引っ掛けて、背中には、波打つような白銀の髪が垂れている。女性の太もも辺りまであるそれは、毛先だけが燃えるような紅色をしていた。

 細められた瞳も、狐の首根っこを掴んで持ち上げた指の爪も赤い。黒と白、そして赤のみで構成された女だった。

「――迷い子か?」

 女性がゆっくりと言葉を紡ぐ。ディオは、ネモを庇うように立った。それを見て、女性は笑う。

「警戒などしなくても良い。余が汝らを害すことは無い」

「お前は……」

「私たち、狐さんに案内されたんです! その子はお姉さんのお友達ですか?」

 ディオの後ろから、ネモが叫んだ。彼は一つため息をつくと、ほぼディオに引っ付くような距離にいた彼女の額を、手の甲で軽く叩いた。

「いたっ」

「おとなしくしてろ」

「ふふ、良い、良い。子は元気なのが一番よ。この狐は余の使い魔のようなもの。見慣れぬ者たちが来たからと、余の元まで案内してくれたのじゃな」

 女性が手を離す。すると、解放された狐はどこかへ駆け出した。あっという間にいなくなる。ネモが名残惜しそうに「ああ……」と小さく呟いた。

 女性の視線がネモに移ると、珍しい物を見たように少し目を見開いて、首を傾げた。

「ふむ、汝は……」

「な、なんですか? 何かついていますか?」

 ペタペタとネモが自分の頬を両手で触れば、女性は微笑む。

「いや、なに。面白い剣を持っておるな」

「え?」

 ネモは、思わず首を少し後ろへ向けた。背中の荷物には、確かに、白布で包んだ剣が入っている。彼女はそれを言っているのだろうか?

 困惑したまま、何か剣について知っているのかと聞こうとしたが、それよりも早く女性はディオに話を振ってしまった。

「ひとつ、警告をしよう」

 女性は自由になった両腕を緩く組んだ。赤いショールが風に揺れる。

「早々に山を降りよ、迷い子。ここには『良くない物』が居るからな」

 笑みを崩さずに、彼女は囁いた。

「妖魔のことか?」

「さて」

 女性はディオの問いを曖昧にはぐらかす。

 彼は険を含んだ眼で女性を睨みつけ、断る、と吐き捨てた。

「今更引き返した所で、王都への道が遠くなるだけだ。ネモ、行くぞ」

「えっ、あ、ええっと」

 ネモは女性について、聞きたいことが沢山あった。彼女自身が何者なのか、『良くない物』とは何か……しかし、もうすぐ日も完全に落ちてしまうだろう。ディオの言い分はともかく、急がねばならないのは事実だ。

 だから、ネモは申し訳なさそうな顔で女性に頭を下げて、さっさと歩き出したディオを追う。

「話を聞かぬ人の子じゃ。もう少し愛想良くしてくれないかのぅ。余の心は痛んで、胸が張り裂けそうじゃ……」

 なんだか後ろで、そんな切なそうな声がする。ネモはうずうずした。追いついたディオの裾を引っ張る。するとわざとらしく、女性が声を張った。

「せめて、集落の方向だけ教えてやろう! 汝ら! そっちは、逆だぞー!」

「ええっ?!」

「……それを早く言え」

 ネモがガバリと振り向くと同時に、ディオが忌々し気に呟いた。

 女性は満面の笑顔を浮かべて集落がある方向を指さす。

 彼女は目を細めてディオとネモを見詰めながら囁いた。その小さな声が、風にのって、やけにハッキリと二人の耳に届いた。

「この先、身の危険を感じたならば。そこの娘と二人で戦うといい。……警告はしたぞ?」

 それだけ言って、彼女も身を翻し、どこぞへと去って行く。

ディオとネモが、彼女が居た付近まで戻ると、もう影も形も見当たらなかった。

「いったい、何だったんだ……」

 二人は狐に包まれたような気分になった。

「不思議な方でしたね。でも、嘘は言っていないと思います!」

「根拠は?」

「女の、勘! です!」

 ディオは、女性の言っていた方角を見据えた。緩やかな道が続いている。よく目を凝らしてみれば、これまでディオ達が通ってきた道より、僅かにだが、よく整備されているように見えた。人が頻繁に行き来している証拠か。

「……本当かもな」

「でしょう? 女の勘は当たるんですよ」

「あの女性の言った事だ。女の勘の話じゃない」

「なんで!」

 ネモは不満げに抗議をした。


 女性と別れて歩き出した道は、再び上り坂になっていた。日が沈み、底冷えするような寒さに、ネモは少しだけ体を震わせた。

「下り坂と上り坂、どっちもつらいですね……」

 彼女はポツリと言って、慌てて自分の口を塞いだ。そして疲れていないアピールを始めようとする。ディオはそんな彼女を静かに制して足を止めた。

 二人は小さな崖の上に居た。そこから眼下、約二十メートル先。

 円を描くようにして、木製の小屋のような大きさの家が数軒建っている。中央に広場のようなものがあり、家々はそれを取り囲むように建っていた。

 薄闇の中でよく目を凝らせば、西側には深い針葉樹の森が広がっているのが分かる。

「あれが集落か……? ネモ、あそこまで行けそうか」

「はい!」

 ディオが尋ねれば、少女は笑顔で頷いた。

 集落の入り口付近に立っていた中年男性が、二人の姿に驚きながら近づいてきた。

「おや、珍しい! 狐里雲(こりうん)にようこそ。こんな所に何の用だ?」

「ルプス村から来たんだ。俺たちは王都に行く道の途中なんだが……」

 言いかけたディオは、ふと、周りの緊張感に気が付いた。

集落の灯が辺りを包んでいた。そして、十数人くらいの人々が外に出て、何事か囁きあっていた。しかし彼らは、ディオとネモに注意を向けているのではない。もっと内部、広場の方に視線が注がれていた。そのとき。

「うるせぇな! いい加減に認めてくれよ!」

「ならん! お前こそ、育ててやった恩を仇で返すのか?!」

 ネモは大きく目を見開いた。逆に、ディオは剣呑に目を細める。

「はぁ、カナタと長老、また言い争いになってる……」

 男性がため息をついた。広場の真ん中で、男性と老人、二人が怒鳴り合っていた。

 青年――カナタは、刈り上げた短い黒髪をガシガシと掻いて、目をつり上げた。

「そういうのじゃないんだって! 俺は、あいつと結婚したいから此処を出たい、ってだけで!」

「結婚は構わん。だが、これ以上集落の人数を減らすわけにもいかんだろう! お前を狐里雲から出せん!」

「この、分からず屋……ッ!」

 青年と長老の口争いがヒートアップする。とうとう、青年が拳を振り上げて、一歩前に踏み出した。

「ま、待ってください! 喧嘩は駄目です!」

その瞬間、ネモは広場に飛び出した。突然の乱入者に、彼らは同時に口を噤む。

「喧嘩は! 駄目です!」

 ネモは同じ言葉を繰り返した。カナタは、誰だこの子、と、目で長老に訴えた。長老は首を傾げた。

「はて。どこのお嬢ちゃんかね……?」

「私はネモです! お兄さん、ご老人を殴るのは良くないことです! ね? 落ち着きましょう!」

 自分より一回りくらい小さい少女に窘められて、青年は言葉を詰まらせた。やがて、しぶしぶと拳を下ろすと、頭も冷静になってくる。カナタは「くそっ」と吐き捨てて、森の方へ駆け出した。

「ええっ、危ないですよ!」

「……大丈夫じゃろう。あいつもこの集落で育った男だ。夜の森がどれほど危険か分かっている。ふぅ……儂も熱くなってしまった」

 長老が言うと、場の張り詰めたような空気が和らいだ。人々は、呆れや同情が混じった言葉を口にしながら家へ帰っていく。長老が丸まった背中を更に丸めてネモに頭を下げた。

「止めてくれて助かったよ、お嬢ちゃん」

「いえいえ! どんな理由でも手を出すのは良くないです! 暴力は何も解決しない、ってお母さんも言ってました!」

「ネモ、正義感が強いのが悪いとは言わないが、無鉄砲に飛び出すのはやめてくれ」

 長老と言い争っていた青年が、もしネモに何かしようとすれば飛び出すつもりだった。だが何とか場が収まって胸を撫でおろす。ディオのため息は、白い息となって空気に溶けていく。何かあったときの為にと、掌に浮かべた氷の結晶は音も無く砕けた。

「同行を許可したとはいえ、勝手な行動を何度もされると困る」

「うっ……で、ですよね。ごめんなさい」

「怒っているわけではなくて……」

「……心配してくれたんですよね!」

 ディオは仏頂面で頷いた。ネモは上機嫌だ。……本当に、彼女は分かってくれたのだろうか。少し不安に思いつつ、彼は長老を向いた。

 入り口で出会った男性と話をしていた長老は、やがて二人に言った。

「事情は聴いた。王都に向かう途中で立ち寄ったのじゃな。空き家がある、そこを使って休んでいくと良い」

「ありがとうございます、長老さん!」

 ネモが元気にお礼を叫ぶと、長老は目元の皺を濃くして、穏やかに微笑んだ。

 長老はネモを気に入ったようで、空き家に案内する前に、夕食はどうかと誘われた。断る理由は無く、ディオとネモは、長老と彼の妻の四人で食卓を囲んだ。

 あまり広く無い部屋の中央に、木製のテーブルが置かれている。森で採れるという、紫色の果実を絞って作ったジュースに、ネモは目を輝かせていた。

 その時、あの言い争っていた青年が、自分の息子であること、彼は、商売のために降りた村で出会った女性と結婚したいのだ、という話を聞いた。長老夫妻がだいぶ歳を取ってから授かった長男らしく、随分と甘やかしてしまったという。

「狐里雲は三百年前からある。当時はもっと人が多かったが、今はこんなに寂れた集落になってしまった……」

 長老は寂しそうに語る。

「儂はこれ以上、人が減るのが耐えきれないだけなんじゃよ」

 長老の、あるいは、集落全体の切実な願いだった。ディオとネモは、何も言えずに聞くことしか出来なかった。

 結局、長老の息子カナタは、食卓が片付いても帰ってくる事は無かった。

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