2-④

 空き家で一泊した翌朝の事。ディオは、まだ日も完全に昇りきっていない時間帯に、長老の家のドアを叩いた。彼の表情には清々しい朝に似合わない険しさが滲んでいた。ドアを開いた長老は訝し気に彼を見る。

「朝早くからすまない。ネモの具合が良くない。見て貰えないか?」

「なんだと? うむ、分かった、医者を呼ぼう」

 医者といっても、多少医学を齧った程度の男性だった。しかし、彼は横になったネモの手を取ると、すぐに察しがついた。

 彼女の額には汗が浮かび、顔は赤く染まっている。医者は、少女の手のひらをディオに見せながら言った。

「紫色になっているだろう。この症状を、少し前から何度か見ている。名前も分からない病気だが、症状は発熱のみ。風邪みたいなものだ。薬草さえあれば治療薬も作れるし、飲めば半日から一日程度で体調が戻る」

「どこで採れる?」

  ディオは手のひらが紫に染まる症状の病気など見たことが無かった。視線を少女に向ける。彼らに提供された空き家は、定期的に手入れをされていたようで、窓を閉めれば風も入らない。しかし、微かな隙間風さえも寒いというように、ネモは布団の中で震えていた。

 あの、太陽みたいな眩しさを持つ笑顔が隠れている。ディオは自分でも気が付かないうちに拳を握りしめていた。医者は言う。

「集落の西側に『寂来の湖』という場所がある。その付近に咲くカスミソウという花が必要だ」


 ディオは薬草を探しに狐里雲を出て、針葉樹の森に入った。湖があるという方向から冷たい風が吹いている。草木に足を取られそうになりながらも進んでいくと。

「これは……」

 ディオは思わず喉の奥で唸ると、足を止めた。広い場所に出ると、目の前に飛び込んできたのは透明な湖面だ。水面は美しいエメラルド色に染まっている。木々に囲まれ、日差しが注ぐからそう見えるのだろうが、湖は穢れの一つも知らないように透き通っていた。

 湖の岸辺に一隻のボードが置かれている。ディオは、その近くで地面に座る青年を見つけた。見覚えがある短い黒髪の後姿。足音を立ててディオが近付くと、彼も、振り返ると驚いたように目を見開いた。

「あんた……他所の人か?」

「確か、カナタ、といったか」

 昨日、ディオとネモが狐里雲に着いたとき、長老と言い争いをしていた青年だ。ディオが名を呟くと、彼は不思議そうな表情を浮かべた。そして、あ、と気付く。

「もしかして、あの女の子の連れか」

「昨日はネモが迷惑をかけた。俺はディオという」

「迷惑っつーか、こっちとしては助かったというか……ああ、俺はカナタだ、よろしく」

 カナタは苦笑しながら改めて名乗ると、その場に立ち上がった。それから、昨日の長老との――父親とのやり取りを思い出してか、憂鬱そうにため息をつく。

「その、大丈夫か?」

 重たげな雰囲気を纏うカナタを放っておけず、ついディオは尋ねた。するとカナタは、力なく笑い声を漏らし、湖を指さした。

「ここ、良いだろ。昔から俺の遊び場なんだ。狐里雲は……ほら、あんな集落だろ? 何にもないからさ、ここだけが俺の遊び場だった。……湖に来ると安心するんだよ」

 カナタはエメラルド色に輝く湖面を見詰めながら呟いた。集落は子供の数も少ない。カナタは集落の未来の“希望”でもあるのだろう。だから、長老も結婚には賛成した。

「狐里雲の状況も、親父たちの事も分かってるつもりだ」

「結婚をしたい、と言っていたな」

「そう、俺の好きな人は、麓の村長の一人娘でさ。村長はあいつとの結婚を受け入れてくれたんだけど、親父たちは駄目だな。やっぱり、俺の話なんてちっとも聞いてくれねぇ」

 彼は悔し気に、そして諦め混じりの言い方をした。

「狐里雲まで登って来るのは大変だろ。あいつだって、両親と離れるのは寂しい筈だ。だからといって、離れ離れで暮らすのは嫌だ。あんたもそう思わないか?」

「それは……」

 ディオは首から下げた指輪を無意識に掴んだ。

「そうだな」

 たとえ、大切なモノで繋がっていたとしても、愛しい人が側に居ない。その寂しさを、ディオは理解できた。同時に、だからこそ、カナタの想いが長老に伝われば良いと思った。

「嬉しいよ、分かってくれて」

「お前の願いを、長老は分かってくれるだろう。ちゃんと話してみた方が良い」

「そ、それがいつも上手くいかないんだって……」

 カナタは、真面目に言い放ったディオの言葉に苦笑する。そして、ふと思い出したようにディオに尋ねた。

「ところであんた、どうして此処に? 湖に何か用事か?」

「ああ、実は……」

 ネモの事を話すと、カナタは顔を青くして頭を抱えた。

「それ早く言えよ! 待てよ、薬草だな。ええっと、こっちだ、着いてきな!」

 もちろんネモの事を忘れていたわけではない。湖の更に西へ進む彼の背を追いながら、ディオは、もし自分がネモと逆の立場なら、と考えた。薬草を摘みに湖に来たら、カナタが力なく項垂れている……そんな状況に立ち会えば、彼女は元気よく、突進でもしそうな勢いで、彼の悩みを聞いただろう。

 ディオも大概お人良しな方だ。しかし、ネモと出会い、ますます拍車が掛かったように思う。カナタの話に耳を傾けた事。これを、少女はきっと笑って許すだろう。

(そもそも、俺も……お節介に関しては、フィラの影響を受けているからな)

 ディオの妻は、困っている人を放って置けないと、あちこち手を出し案件を抱えて、挙句の果てに許容範囲を超えて一人で倒れるような“良い妖精”だったから。

「あった、あった! カスミソウだ!」

 湖の周りには色とりどりの花が咲いている。その中で、白く小さな花を摘みながら、カナタがぼやいた。

「最近はさ、こういう植物もちょっと減ってきてるんだよなぁ……魚も釣れにくくなったし、動物も昔より見なくなったし……よし、これだけあればじゅうぶんだな」

 彼は、持っていた青いハンカチにカスミソウを包む。

「狐里雲に戻って、さっそく煎じて貰おう。高熱は命に関わるかもしれねぇからな!」

「ああ。助かった」

「良いって! 話を聞いてくれたお礼だ」

 カナタは集落の方向へ歩き出す。元来た道を辿り、森の中に入ると、すぐ近くでガサリ、と音がした。思わず身構えたディオだったが、茂みから飛び出てきた野兎に警戒を解く。

「……?」

 野兎は随分と弱っていた。ヨロリ、とその薄茶色の体をよろめかせた後、地面にひっくり返ってしまった。兎の体は小刻みに痙攣する。小さな口から泡が零れて、倒れて十秒ほど経つ頃には、ピクリとも動かなくなってしまった。

 そのあっという間の経緯を見守っていたディオとカナタは、唖然とする。

「な、なんだ? ……変なものでも食べたのか?」

 カナタが呟く声を背に、ディオは野兎の死体に近付いた。その場に屈む。口周りの髭や短い毛はしっとりと濡れていた。水を飲んだのだろうか、と観察していると、前足部分が紫に変色している事に気が付いた。

「……まさか」

 胴体を検分し、ディオは立ち上がると、湖の方へと駆け出した。カナタが慌てて彼を追う。戻ってきた湖を一瞥し、ディオは近付ける所まで迫った。湖の縁を伝うように歩いていく。視線は水面に固定され、カナタも不思議そうにその背に続いた。

 やがて、カスミソウを摘んだ辺りに着く。だが、更に彼は進んだ。

(俺の予想通りなら……)

 そして、ディオは足を止めた。美しい水。太陽に照らされ輝く湖面。そこに、数匹の魚が浮かんでいる。

 魚の体は紫色に染まり、野兎と同じように死んでいた。

「これは……やはり、毒か?」

「毒だって?!」

 カナタが目を見開く。ディオは、ネモの症状、野兎、魚と、それらの共通点を考えた。

「俺達は昨日、狐里雲で食事をした。そこでは、この湖の水が使われていただろう」

「そりゃ、ここの連中は、湖の水を頼りに生きてるから……けど! 何で嬢ちゃんだけなんだよ?」

「彼女は子供だし、初めてここの水を飲んだから、毒が強く作用したのかもしれない」

 ディオはネモのような熱の症状が無い。個人の毒の耐性にも寄るだろうし、狐里雲の人々は既にこの毒に対して抗体のようなものが出来ているのかもしれない。詳しいことは、ディオにも分からなかった。

「親父たちは知ってんのかな……」

「気付いていないだろうな。知っていたらもっと大騒ぎするはずだ。最近になって突然湖に毒が染み出したのか……?」

 考え込むディオの後ろで、カナタは、最近、と言葉を繰り返し、複雑そうな表情を浮かべて押し黙った。ディオは彼を見上げた。

「どうした?」

「あ、ああ! いや、何でもない……と、とりあえず、早く狐里雲に戻ろうぜ! ここに俺たちが居てもどうしようもねぇだろ? 親父たちに報告しねぇと!」

「そう、だな」

 早口で訴えるカナタを不審に思ったが、彼の言う通りだ。カナタは一刻も早くここから立ち去りたいのか、ディオが頷くより先に歩き出した。懸念を抱いたが頭を振って払い、続こうとしたディオは、

 ――ゾクリ、と体を震わせた。

 背中に視線を感じる。だが、振り向いたディオの背後には誰も居なかった。美しい湖に不釣り合いな死んだ魚が浮かび、高山の手前まで続く針葉樹が見える。

 その、ある一点。木々の間に大きな洞窟があった。

 薬草を探して湖の奥に来なければ見つからなかっただろう。それは、不自然なほど『当然』のように存在している。洞窟の入り口は大きく、湖を越えた先にあった。後から人工的に作られたような有様は、周囲の豊かな自然には馴染まず、汚しているようにすら見えた。木々が洞窟を避けるように生え茂っている。まるで、触れてはいけないもののように。

「……気のせいか?」

 いつの間にか視線は感じなくなっていた。奇妙な洞窟以外は何もおかしい所は無い。

「おーい! ディオ!? 早く来いって!」

 だいぶ遠くから、カナタの声が響いてきた。警戒は解かないまま彼の元へ急ぐ。

 カナタは、ディオの姿を見つけると安堵したように息を吐いた。

「あの嬢ちゃんが待ってるんだろ」

「ああ、分かっている。急ごう」

 湖から逃げるようにして、二人は森を抜けた。集落に戻ると、カナタはディオにカスミソウを渡し、彼自身は父親――長老に、今見てきたものを伝えに行くために別れた。

 ディオが空き家に戻ると、医者はすぐに薬を煎じ始めた。

「……カナタはどうなったかな」

 その間に、ディオはカナタの様子を見に行くことにした。

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