2-⑪
紅色の蝶が空を飛ぶ。
ヒエンはそれらを目で追い、蝶が妖魔に群がる様を静かに見詰めている。妖魔の巨大な体は、蝶が触れる度に削れていく。まるで蝶が大蛇を咀嚼しているようだった。
塊が最後のひとかけらになるまで、蝶は止まらない。
(コユメ、これでさよならじゃな)
今の心境は、腹を空かせて切ない時と似ていた。何となくポッカリと空洞が出来て、でもどこか、スッキリしている。
もう、ここにコユメは居ない。この世界のどこにも居ない。そんなこと、彼が妖魔になってから知っている筈だったのに、受け入れられていなかった。
(それを、皮肉にもコユメと同じ人間に――人の子に、突きつけられるなんて)
心の中で微苦笑を浮かべて、ヒエンはそっ、と振り向いた。
辺り一面、炎の余波で焦げたり、削れたりしている。針葉樹も薙ぎ倒され、美しく咲き誇っていた小さな花達も散り散りだ。
無事な木に背中を預けて、ディオはネモの治療を受けていた。
「ううう……凄い火傷です」
ネモは治癒の魔術を使いながら顔を顰めた。光が傷を癒していく。顔から首に掛けての火傷は治ったが、たぶん、見えない場所に治っていない傷がある。
「絶対治しますからね!」
意気込むネモに、ディオは小さく頷いた。
「助かっている。でも、ネモは病み上がりなんだから、無理はするな」
「大丈夫です!」
実際、ネモの魔術はありがたい。むしろ、この力が無ければ易々とヒエンの力も使えなかった。氷と火、相反する魔術の行使。それはリスクと背中合わせだ。出来れば二度と使いたくない。
結局、大蛇から何も聞き出せなかったな、とディオはため息をついた。
(封印を刺激したのは何者だ? ……推測でしか無いが、一角獣の件と同じ……)
「何か悩み事かのぅ?」
ヒエンの、人を食ったような声音に顔を上げる。彼女は、背後に蝶の群れを引き連れて二人に近寄った。その半透明な蝶たちは、妖魔の亡骸を貪っている。
「お前、知っているんだろう。何が原因で封印が解かれたのか」
「おや、まだその答えに辿りついておらんのか? 言ったであろう、呪い、と。人の子、汝は妖精の香りを纏わせておる。ならば、すぐに分かると思ったが」
香り、と言われて、服の上から、首から下げている指輪を握った。衝撃に強い加工がされているお陰で無事だな、と今更ながら安堵する。その香りとやらは良く分からないが、確かにディオは妖精と、決して切れない縁がある。
「それって、一角獣さんが話していたことですか? 妖精の呪い?」
――憎しみを強くする力。そのせいで、一角獣は正気を失っていた。同じことが大蛇にも起きていた……。
「妖精はまだこの近くにいるのか」
「少なくとも、この近辺には居ない。クォーレ山脈からこの辺りを偵察していたようじゃな。何の為かは知らんし、興味も無いが。妖精は居るだけで呪いを振りまく。山脈で妖魔が賑やかなのもそのせいだろうなぁ」
自分たちが、正規の道であるクォーレ山脈を越えられず、狐里雲に立ち寄ったきっかけ。納得するネモの隣で、ディオは考える。
(偵察……人間界を侵略する為の、下準備……か? だとすれば)
一角獣と対峙した森でも考えた事だ。妖精の動きは人間界の偵察。そして。
「やはり妖精は、人間界に残った妖魔の全貌を把握しようとしている……」
「なんじゃ、あやつら、人間界を手中に収めたいのか」
察しが良いヒエンが、ポツリと零したディオの一言を拾い上げて、ふぅん、と頷いた。思わず失言したと彼女を睨みつける青年に、ヒエンは声をあげて笑う。
「我々は――妖魔は人間と妖精に関わらぬ。手を出すつもりは無いから、心配せずとも良い。では、妖精をよく見かけるようになったのは、下準備じゃな。我々がどれ程潜んでいて、目的の邪魔にならないか……なんと、迷惑な奴らだ」
ヒエンは呆れたような口調で呟き、肩を竦める。ネモが恐る恐るディオの表情を伺った。
「それって……妖精が、人間を……」
「……喋りすぎた。もう治療は良いだろう、ネモ」
話を切り上げて、ディオは立ち上がる。まだ完全に治っていない、火傷の痛みがあるが自然に治るだろう。ここに長居は無用だ。カナタ達も、とっくにディオやネモが居ない事に気が付いている筈だ。
ネモは腑に落ちない表情で、それ以上の追及はやめた。ディオが話したがらないのならば、無理に聞き出すわけにはいかないだろう。
「えっと、はい……あ、ヒエンさんは……」
湖を一瞥したヒエンが、ネモに微笑む。
「余はまだここにおる。同胞の後始末をしなければならんからなぁ」
「湖はどうなりますか? 毒は消えるのでしょうか……」
ネモは不安そうに、エメラルド色から毒々しい赤紫色へと変化した水辺を見渡す。ヒエンは目を細め、遠くを見るようにしながら囁いた。
「変わらぬ物は無い。湖の在り方も、自然と毒が抜け、元の清らかな水へと戻る。そうすれば、朽ちた魚たちも息を吹き返す。花は再び咲き乱れる……心配せずとも良い、小さなお嬢。時間が解決してくれる」
そうして、やがて時間はこの出来事さえも風化させていくのだろう。コユメという少年の末路がどこにも記されなかったように。
ネモは何か言いたげに眉を寄せる。
「ネモ、行くぞ」
そんな彼女に声を掛けて、ディオは森へと足を踏み出す。ネモは慌てて彼の背を追った。最後に一度だけ、未練がましく湖を振り向く。
もうヒエンはこちらを見ていない。彼女は、紅色の蝶に群がられる大蛇が、少しずつ形を無くしていく姿を見詰めていた。
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