2-⑩


「汝、まだ戦うのか?」


 戸惑いと驚きが入り混じったような声が、後ろから響いた。

 視界を赤い蝶が過ぎる。思わず、その澄んだ紅色を持つ蝶に視線を奪われた。ハッ、と我に返ったときには、大蛇が大きく口を開けてディオに迫っていた。

 だが、見えない何かに弾かれて、妖魔は後ろに大きくのけぞる。

「……お前」

 ディオは、自分の後ろに立つ存在へと体ごと向き直った。

 毒に当てられたしおれた花々を踏みつけて、呆れた表情で妖魔ヒエンは立っている。彼女は、手の甲で長い白銀の髪を払うと、小首を傾げた。

「考えなしに突っ込めば死ぬ。それも分からぬのか?」

「……死ぬつもりはない。何をしに来た?」

「手を貸してやったというのに、この人の子は、礼の一つも言えぬのか。やれやれ……」

 ヒエンはわざとらしく泣き真似をして――ディオが仏頂面を崩しもせずに返答を待っているので、彼女は仕方なく答えた。

「何やら、愚かにも余の忠告を無視して、大蛇に挑む者が居たのでなぁ。余は逃げろ、と言った筈だが? 汝の魔術は効かないのだ。もう諦めよ」

 甘い声でヒエンは囁く。……確かに、彼女の言う通りかもしれない、とディオは思った。

 大蛇の毒は氷を溶かす。相性が悪い。倒せるか分からない。ここで無理して大蛇討伐を続ける意味はないのだ。ディオは余所者で、本来の目的は別にあって、今も大蛇の元へ来たのは、自分の目的に連なる情報を知る事が出来るだろうと思ったからで――。

 いいや、それは全て、建前でしかない。

「手が、届く範囲なら守りたい。狐里雲の事情にここまで関わって、見過ごせない」

 ディオは、真っ直ぐにヒエンの瞳を見詰め返して言う。

 理由なんていくらでも付けられる。それら一つ一つを手繰っている間に、自身の中に眠る憤りに辿り着いた。目の前のヒエンに向けてだ。あの、祠で話を聞いてからずっと感じていた怒り。

「何か策は無いのか。お前は大蛇を封印したんだろう。なら、一度奴を抑えつけた筈だ。弱点は? 急所は?」

「汝は余の話を聞いているのか?」

 ヒエンは薄く微笑んで、頑なにディオに応えない。しかしその様子は、迷いがあるように見えた。ここに来たのも、まさかただ、ディオの戦いぶりを見に来ただけではあるまい。

「この妖魔は、ここで殺す」

 ディオが言えば、彼女は目を細めた。構わず、ディオは続ける。

「明日、王都から術士や騎士が到着する。だが大蛇は、明日になればもっと強力な力を取り戻すだろう。そうすれば、彼らも無傷で済まない。人を殺す。お前は大蛇――いいや、コユメという男を人殺しにしたいのか?」

 150年前は、ヒエンが封印したから人的被害は無かった。けれどここで彼女がもう一度覚悟を決めなければ、解き放たれた妖魔は人間を襲う。

 大蛇から目を逸らし続けるヒエンに向けて、ディオは怒りをぶつけた。

「コユメという人間を救いたいなら、腹を括れ! ここにまだ、救える手段があるのに諦めるな!」

 ――どうしてこんなに、ヒエンに強い感情を覚えるのか。冷静な部分で、ディオは納得していた。

 ディオも自分の大切な人を……フィラを救いたかった。けれどそれはもう無理な話だ。ディオは彼女ではなく、この時代に戻ってくることを選んだ。もう、フィラには会えない。

 ヒエンの大切な人はまだここに居る。そしてその人は、今も苦しんでいる。なのに、ヒエンは現実を見ずに逃げている。

「コユメ……」

 ヒエンは、彼の生前を――妖魔となる前の、人間の姿を思い浮かべた。優しい少年だった。心は美しく澄んでいて、ヒエンに安らぎを与えてくれた。その清らかさを突かれて、信仰深い少年は、人々の悪意を受けて妖魔に変貌してしまった。

 それが、悲しくて、やるせなくて、人間の愚かさに失望した。

「ヒエンさん」

 大岩の影に隠れていたネモが口を開いた。掠れ気味の彼女の声は小さく、ヒエンの元まで距離があるのに、やけにハッキリと聞こえた。

「コユメさんが愛した狐里雲を、潰させないでください」

 ヒエンはゆっくりと息を吸い、吐き出した。

「ずっと考えておった。封印してから、その行為は、正しかったのだろうかと。今なら分かるよ。……余は、あの少年を残しておきたかったんじゃな」

 殺したくない、というよりは。小さな星のような輝きを持っていた子供を失いたくなかった。どんな形であれ、此処にしまっておきたかった。

 でもそれは無理な話だ。少年は人間で、ヒエンは妖魔だから。少年は妖魔だが、ヒエンと違い理性を失ってしまったから。

「ここで終いにしよう。それでいいな、人の子よ」

 ディオを見て、ヒエンは笑みを浮かべた。吹っ切れたような清々しい笑みと対照的に、ディオは渋い表情を纏う。

「初めから封印なんてしなければ、こんな目に合わなかったんだがな」

 彼の悪態に返事をする代わりに、ヒエンは両手を自分の口元まで掲げた。それから、フッ、と短く息を吹く。小さな火花が生まれたかと思えば形を変え、無数の紅色の蝶へとなった。一頭、三頭……やがて数えきれない程の蝶が、翅を揺らして、大蛇の周辺を囲う。

「人の子、大蛇に氷は効かぬ。毒は燃やせ」

 彼女が言い切ると同時に、数頭の蝶が膨張し、破裂した。妖魔の鱗、頭、それぞれに張り付いた小さな体が炎を纏い、大蛇の肉体はあっという間に燃え盛る。大蛇は蝶を振り払おうと暴れ回った。

 ディオの目の前に、焔が収束した。魔力だ。ヒエンが黒いドレスを翻し、空を歩くように移動して、妖魔を見下ろす。

「さぁ、汝が求めるものを」

 指導するように、ヒエンはディオを促した。彼の前に浮かぶ赤い魔力から火の粉が弾け、頬を掠めていく。触れてもいないのに、熱風が、ディオの髪を揺らした。

 魔術は、空気中に漂う魔力を収束させ、放つもの。根本は用意された。後は、ディオが想像するだけだ。

(片手剣は――駄目だ)

 手慣れた剣を思い浮かべるが、短すぎる。妖魔は巨体だ。それに見合う大きさが必要だ。

 大きくて、重く。長くて、鋭いもの。それでいて、ディオにとって扱い慣れた物が良い。

 悩んだのは数秒。ディオは焔に手を伸ばす。

「……!」

 昔、ロレットから聞いた話を思い出した。魔力には相性がある。特に、相反する属性を使うなんて自殺行為だと。

指先が炎に触れただけで、全身の血が沸騰するようだった。

 それでも退けないのは、そこに籠る熱が痛みだけでは無いからだ。

 ヒエンという妖魔が、人間に抱えた感情。コユメの優しさに触れて、かつて救った狐里雲の人々に裏切られた。失望、後悔、言葉にできないもどかしい怒りの形。

 炎の魔力は一つの剣を模した。それは、普段ディオが使っている片手剣よりも長く、全長一メートルは超えている。片手剣というには大きいし、両手剣というには細すぎる。

 片手でも持てる重さだが、振り回すとなると、自然と両手が添えられた。柄も、剣身も元の魔力を表すように赤く染まり、派手な装飾品など一つも無い。

 純粋に綺麗な剣の切っ先を地面に向けた。

「そちらに行くぞ!」

 ヒエンが空から叫ぶ。妖魔は炙られる痛みから逃れようと身を捩り、狙いをつけるようにディオへと迫った。あの鋭い牙を覗かせながら、大口を開けて、妖魔は今にもディオを吞み込もうとする。

 一度目は、避けた。二度目は、ヒエンの障壁が防いだ。

「――真正面から、斬る」

 炎の剣を握る指先に力を込める。全身が悲鳴を上げた。剣から流れ込む、ディオが持つ本来の氷の体質と火の魔力が反発しあっている。

 彼は短く息を吐いた。いつもの白い息の代わりに、熱っぽい息が空気に溶けていく。

「コユメ」

 ヒエンが囁く。その名前に、ほんのわずかな、愛しさを込めて。

 ディオが持ち上げた剣先は、妖魔の頭を、下から上へと斬り裂いた。裂いた部分から炎が上がる。二対の黄金の瞳が炎の渦へ呑み込まれる。毒の粘液が飛び散るが、それさえも、空中で焼かれて蒸発した。

 のけぞった妖魔の肉体が、派手な水飛沫を上げて湖へと落下する。頭を潰された大蛇は、それきり動かなくなった。

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