2-⑨

 集落の西側に位置する『寂来の湖』。ディオが針葉樹が立ち並ぶ森に踏み入れるのも三度目だ。静まり返った森には、生ぬるい風が吹いている。視界も不自然に現れた薄靄が掛かるせいで見通しはあまり良くない。それに、奥から流れてくる血のような……不快な臭いには、やはり慣れなかった。

 辺りを警戒しながら進んでいたディオへ、彼女はポツリと言った。

「私もディオさんみたいに、戦えるようになりますか?」

「……急に何を言い出すんだ?」

 急がなければいけないと頭では分かっているのに、少女が突拍子もない事を言い出すので、思わずディオは足を止めてしまった。逆にネモは、立ち止まった彼に少し驚いている。

「私も治癒以外の魔術を使ってみたいです。ルプス村には他の術士が居なかったから、誰も教えてくれなくて」

 ネモは治癒の魔術を使える。だが原理をよく知らないし、そもそも魔術自体詳しく無い。ディオのように戦えるようになれば、自分も彼の役に立てる筈だ。

 といっても、今、付け焼き刃で得た技術など底が知れている。もっと早くから言い出すべきだったと、ネモは悔しく思う。

「ネモは……その、言いづらいが、戦いに向かない術士だと思う」

「どうしてですか! 根拠はあるんですか!」

 食い下がって聞いてくるネモに、ディオは眉を寄せ、諦めたように告げた。

「これは話していなかったが、治癒の魔術の使い手を他に見たことがある。彼女は、それ以外の魔術に向いていなかった」

「む、むむ……でも、その人と私は違いますし!」

 それはそうなのだが、と話を切り上げてディオは歩き出す。ネモは不満げに後を追った。

「それに、俺はネモの治癒の魔術に助けられた。もしかしたらこれからまた世話になるかもしれない。だから、役に立ちたいと思うなら、そこで助けてくれ」

「勿論です! ……待ってください、ディオさんが怪我をする前提の話ですか? あと、私が役に立ちたいって何で分かったんですか!?」

 顔色を心配から青くしたり、心情を見抜かれていた恥ずかしさから赤くしたりと、ネモが忙しなくしている一方。ディオは魔術を習っていた幼いころを思い出した。いつも、自分が魔術を使う際に浮かび上がってくる記憶だ。


 *


「ディオは魔術の才能があるね」

 ディオもロレットも、まだ十歳を過ぎた頃だ。妖精城の中庭の手入れされた芝生の上で、麗らかな日の光を浴びながら、ロレットが言った。父である妖精王と同じ金色の髪は、肩の上でそよ風に揺れている。ディオの手には、ついさっき具現化したばかりの氷の片手剣が、小さな結晶を撒き散らしていた。

 昔、人間は妖精から戦う力……魔術を教えられ、四百年前の戦争を生き延びたと伝えられている。正しくその状況と同じで、ディオは、ロレットから魔術の使い方を習った。妖精は息をするのと同じくらい簡単に魔術を扱う。だから、ロレットの教え方はお世辞にも丁寧とは言えなかった。

「何となくコツは掴めた」

 それでも、ロレットの熱意を受け止めて、ディオは魔術の特訓に取り組んだ。魔術を使えれば、自分の身を守る力になる。それにこの力がいずれ親友の為に使えるのであれば、と気合も入った。

 当時のディオは、当たり前に、将来妖精王を継ぐロレットの騎士になりたいと考えていたのだ。

「魔術とは、大地に、空気に張り巡らされた目に見えない魔力を収束して放つこと。そして各々の想像力が土台になる。剣を作りたい、炎の塊を作りたい……」

 繰り返しロレットは言いながら、掌に緑風を纏わせた。軽い素材で作られた白い訓練着の裾がはためく。

「風を生む、とか。ディオは氷、僕は風の適性に偏っているね」

「……それは、想像力に限界があるからか?」

「言葉で言うのは難しいけど、センスの問題かな。氷は剣になる。炎は弓になる。そうやって分けて考えられるなら、属性の使い分けも出来るだろう。ただ、あまりオススメ出来ない。その分注意力が分散して、逆に魔術として成り立たない事もあるから」

 だから、属性は一人につき一つのみ。それに、とロレットは眉を寄せる。

「属性にも相性がある。火は水に弱い、風は地に弱い。相反する属性を使おうとすれば、体がついていかないよ。ほら、ディオも体質が氷の魔力に引っ張られているでしょう」

 確かに、近頃魔術の訓練に取り組むようになってから、熱い物が苦手になった。それだけでなく、自分ではよく分からないが指先が異様に冷えるようになった。

「……よし、今日はここまで。そろそろ、あれらが鬱陶しいからね」

 ロレットの冷ややかな言葉に、何がと言わずともディオにも理解できた。

 ここは王城。数多の妖精が出入りし、中庭と言えど、あちこちから視線を感じる。   

 そこには、二人の若者を見守る優しいものだけでなく、悪意もあった。だがそれは、ロレットに向けられているのではない。

 ――ディオはロレットの友人として認められているが、一方で、城内に出入りする際は、ロレットの同行をほぼ強制されていた。その理由を、ディオがロレットと親しくする姿が他の妖精から見て疎ましいと思われているのか、と尋ねた事がある。しかしロレットは困った顔で言った。

 そうではない、と。悪意を向けてくる妖精は、人間という種族に敏感なのだ、と。

(では、何故、ロレットは……妖精王は、人間の俺を友人にしたんだ)

 子供はディオしかいない訳ではない。その理由を知りたいと思っても、ロレットは眉尻を下げて言葉を濁すだけなので、ディオは結局聞くことが出来なかった。


 *


 狐里雲から湖まで、そう距離は無い。ネモの口数も減って行き、向かう先から伝わってくる威圧感は徐々に強くなり肌を差す。やがて、森を抜けた。

「やっぱり、大きいですね」

 緊張した声で囁いたネモに、ディオは頷く。

 岸辺に咲く色とりどりの花と、エメラルド色の湖面が見えてくる筈だった。だが今は、湖は毒々しい赤紫色に染まり、美しい色彩が失われている。大蛇は、湖の向こう側、崩れた洞窟に隠せない巨体を埋めていた。

 それは身じろぎもせず、体を休めているようにも見えた。

「ディオさん、お話するんですか?」

「出来るなら。一角獣も、あの妖魔……ヒエンも言葉が通じたからな」

「コミュニケーションは、大事ですよね。……大事ですけど」

 まずは会話から、それをネモも一番に考える。ディオの横顔を伺うと、彼は眉を寄せて険しい表情を浮かべていた。大蛇に通用するとはあまり期待していない顔だ。

ネモは、同じように難しい表情を浮かべて呟いた。

「……ちょっと無理な気がします」

 まるでそれを合図にしたかのように、大蛇の体が突然動きだした。黄金色に輝く丸い両目が、獲物を――ディオを捉える。億劫そうに身を起こした大蛇から視線を逸らさず、ディオはネモに身を隠すようにと伝える。彼女は頷いて、近くの茂みに埋もれた大岩へ駆け出した。

「――ッ!」

 その瞬間、大蛇の体が跳ねた。地面が揺れ、水面も激しく波打つ。大蛇の姿勢が、ほぼ地面と並行になると、ディオの目の前に巨大な顎が迫った。

 鋭い牙が彼を捕まえるより早く、ディオはネモと反対側に避ける。

(危ない……ッ、ネモは……無事だな)

 洞窟から湖、そしてディオ達が立っていた地面まで。そこに線を引くように、水しぶきと砂埃を同時に巻き上げた妖魔が、喉の奥で唸った。煙る視界の向こうで小さな影が遠くなるのを見届ける。

「さて」

 ディオは、妖魔の瞳に理性が無い事を確認するとため息をついた。

「会話は無理か。或いは、一角獣の時と同じように暴走しているのか」

 再び妖魔が行動を起こす前に、ディオはその体に飛び乗った。

 鱗の表面は滑る。危うい体勢で彼はそこに手を突いた。

(動きを止めるためにも、凍らせる)

 意識を集中させ、手のひらから魔術が発動する直前、妖魔は身をくねらせた。振り落とされたディオの体は宙を舞うが、仕込みは終えていた。

 空中で体を捩りながら、短く吐いた彼の息が白く染まる。触れた大蛇の鱗を起点に、氷が浸食を始めた。

 妖魔が声にならない叫びをあげる。ディオはネモが隠れた大岩と反対側の、湖の縁に両足を着いて、様子を伺った。

 大蛇は、黄金の瞳を見開き、自身の体に粘液を吐き出した。高熱を伴う毒の粘液は、全身を覆う氷を溶かしてしまう。直後、大蛇自身が熱を放つかのように、ディオの魔術は呆気なく破られてしまった。

「厄介な相手だな」

 魔術が通じない。ならばと氷の剣を構える。あの毒の粘液を頭から被れば致命傷は避けられない。自分より何倍もある相手だ、どんな攻撃が来ても、ディオには重い一撃になるだろう。

 そう分析していると。

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