2-⑧


「『狐』は思い違いをしていた」

 ディオとカナタに、ヒエンは語る。陽だまりの暖かさを思い出すような口調から一転、その言葉は冷ややかなものへと変わる。

「人間とは、個ではなく群れで動く。狐様の奇跡、などといって縋り、少年を通して狐の祝福を受けようとした。自分たちの暮らしを豊かにして欲しい……村の新たな特産物を作って欲しい……自分の願いを叶えて欲しい。傲慢な人間どもは、勝手に狐様を崇めながら、己の欲望の為に必死でなぁ」

 はぁ、とヒエンはため息をつく。

「けれど、少年は。コユメは、仲介役を拒絶した。狐を便利な道具のように見る人間が許せなかった。結果、生まれた悪意や不満は少年に向けられた」

 一人だけ願いを叶えて貰えた少年。そんな彼に向かうものは、嫉妬だ。ずるい、どうしてお前だけ。妬みや僻みが蓄積し、膨れ上がった悪意は形になる。

「そして、少年は妖魔になった」

 呪いの言葉は容易く純粋な心の在り方を歪めてしまう。コユメは元々、十年近く呪いを宿していた。たとえ、ヒエンが祓ったところで、小さな破片程度の残滓が残ってしまう。それが人々の悪意に触発されて、爆発する。

「いつだって、世界を歪めるのは悪意だ。他者を憎む。それがいつしか、わが身をも滅ぼす。そう思わないか、“迷い子”」

 ディオを真っ直ぐ見て、ヒエンが微笑む。怪訝そうに表情を顰めて、ディオは彼女を見返した。しかしヒエンは視線を逸らし、カナタを向く。

「汝のせいだけではない。狐は妖魔……大蛇を封じたが、封印の力も月日と共に多少弱まっていた」

 彼女の語る『狐』がヒエンを示すことなど、ディオはとっくに気が付いていた。なぜ封印したのだろうと疑問を抱き、同時に、納得もした。元が、コユメであるならば。彼女はそう簡単に情を切り捨てられる妖魔ではないのだろう。

「それに、ここ最近はきな臭い。蝿のように耳障りな者共が、ブンブンと過ぎっていた……あれが大きな原因だな。奴ら、自分たちの呪いを振りまいていく」

「呪い?」

 ディオは彼女に聞き返した。脳裏に、ルプス村での一件、一角獣との会話が過ぎる。

「それは妖精の呪いか?」

「……ふふ、昔話はここまでじゃ。これで分かったな? すべて、人間が身勝手に引き起こしたもの。余が汝らを救う理由はあるかのぅ?」

 わざとらしく話を逸らされる。ディオはため息をついた。

「ここまで時間を使っておいて、結論はそれか……」

「でも、じゃあ、どうすりゃいいんだ!」

 カナタが悲痛な声をあげる。そんな彼に、ヒエンは笑みを絶やさぬまま告げた。

「封印が解けたとはいえ、まだ一日くらいは猶予がある。ならば、汝らがすることは一つ。――逃げよ。いずれ力ある者が現れ、大蛇は誰かに討伐されるであろう」

「狐里雲を……捨てろ、ってことか……」

 因果応報、という言葉が頭をよぎる。悔しそうに歯噛みするカナタを横目に、ディオはなんとも言えない苛立ちを湧かせて、吐き捨てた。

「お前なら何とか出来るんじゃないのか」

 ヒエンは、燃えるような紅色の瞳を細めた。その色と対照的に、冷ややかで威圧的な視線がディオに注がれる。場に緊張感が漂うと、カナタが口を挟んだ。

「……良いんだ、ディオ。実際、封印が解けた原因は俺にある。あの封印は、昔、狐様が施してくれたんだろう? 俺達人間のせいなのに、この方は狐里雲を助けてくれたんだ。これ以上何かお願いするわけにもいかないだろ」

「カナタ、だが狐里雲は……」

「親父たちは反対するだろうな。でも、引っ張ってでも連れ出す。大蛇が一日は動けない、って知れただけでじゅうぶんだ」

 諦めの色が隠しきれていないまま、カナタが明るく諭した。それ以上、ディオは何も言えない。それは狐里雲の人々の話であり、旅の途中で立ち寄っただけのディオに口出しする権利は無い。

「話はまとまったようじゃな。ふわぁ……疲れた、余は寝る」

「待て、まだ、聞きたい事が……!」

 妖精の呪い。一角獣を蝕み、憎しみを肥大化させるという呪いについて。問いただそうとした時には、既にヒエンの姿は消えていた。代わりに、視界がくすみ始める。

(この霧……っ! 最初にここへ来た時も……)

 おもむろに、ディオは祠に手を伸ばした。指がコツリと小さな石にぶつかり、何かを掴み取る。

そして、霧に呑まれる前に、と石の階段を降りた二人が振り向いたときには。

 祠がある場所に立ち込めた深い霧が、すっかり周辺を覆い尽くしていた。


 太陽が真上に昇り、日差しが降り注ぐ。普段なら、うたた寝をしたくなる穏やかな天候だ。しかし今は、ピリピリとした警戒心と不安が狐里雲を包んでいた。

 戻ってきたディオとカナタの姿に、広場で何とか対策は無いかと考えていた長老たちは期待の色を浮かべた。しかし、ヒエンとの出会い、事の顛末を聞き終える頃には、彼らは皆、一様に顔を伏せてしまった。

「だから、みんな。急いで此処を離れる支度をしよう」

「……だがな、カナタ……狐里雲は」

「命よりここが大事なのかよ? そんなわけないだろ」

 長老の厳しい表情に、カナタも正面から向き合った。人々は、昔から伝わってきた書物に視線を落とす。あちこちの家からひっくり返して持ってきたであろう過去の記録たち。けれどそのどれにも、大蛇に対抗するヒントは無かった。

 ディオは、ヒエンの様子を思い浮かべ、仮説を立てた。

(おそらく、ヒエンは大蛇が現れてすぐに封印した。あの巨体だ、目立つからな……当時がどんな体制だったか分からないが、王都から騎士や術士が派遣されてもおかしくない。大蛇が他の奴らに退治されるのを恐れたんだろう)

 彼女は殺したくない、同時に、誰かに殺されたくない。結果的に選んだものが封印。

「……何なんだろうな、あの狐の妖魔は」

 結局事態を先送りにしただけ。何の解決にもならないのに。

「優しいんですよ!」

 ポツリと零したディオの言葉に、近寄ってきたネモがニコリと笑って答える。ディオが出発前に見た時はボサボサだった桃色の髪も、今はいつも通りポニーテールにして結われている。それが、彼女が元気になった証であるかのように、小走りに駆け寄る少女の頭の上で跳ねるように揺れていた。

 ディオは胡乱気な目を彼女に向けた。

「あの、人を食ったような話し方をする妖魔が?」

「初めて会ったときに私達に狐里雲までの道を教えてくれましたし。なんて言うか、そうです――」

 飄々としているが、その実、並々ならぬ情を抱えている。表に出すことはあまり無いが、態度や行動で、それを示してくれる。

 少しだけディオに似ている――と言おうとして、何となく、ネモは口を噤んだ。

「……? なんだ?」

「なんでもないです!」

 笑って誤魔化す少女に、彼は首を捻る。ネモは話題を変えるように、カナタや長老たちを見て、今度はその表情を曇らせた。

「本当に、狐里雲を出るしかない……んですよね」

 話は少しずつまとまりだしている。長老たちも、既にこの方法しかないと悟っているのだろう。ひとまず狐里雲を離れて山を降り、クォーレ山脈の麓、或いは、近辺の村に避難する……といった話が出始めていた。

 ヒエンの言う通り、大蛇に動きは無い様で、早朝の地震以降何か変わった様子はない。

 ネモは森の向こう側、湖の更に奥を見据えた。

 大蛇の話。コユメという少年。狐里雲の過去をディオ達から聞き、ネモはやるせなさを覚えて小さく息を吐く。

「コユメさんも、ヒエンさんも可哀想です。何とか出来ないんでしょうか……」

「王都の術士が到着するのはいつになる? 連絡は済んでいるだろう」

 大蛇の件、それから、水の毒について。毒に関しては、大蛇が漏らしたものだと推測できる。王都側の術士が、この状況を認識出来ているか分からないが、昨日に続き、二通目の魔法具が放たれてすぐ、術士から返答がきたらしい。

「はい、明日には到着するようです」

「明日か……」

 恐らく、クォーレ山脈の妖魔の件で人手不足なのだろう。急いでも明日。大蛇の目覚めに間に合うか、間に合わないかの瀬戸際だ。

「毒と、封印か。……辻褄が合わない所が気になるな。あの大蛇、話が通じるタイプだと良いが」

「辻褄? 何のことです?」

「大蛇の封印が解けたのは今朝。だが、水の毒はもっと前からだ。封印が少しずつ解けていたという可能性も無いわけではない。ヒエンの話では誰かが封印を刺激したらしい」

 ヒエンは何も教えてくれなかった。となれば、ディオが直接出向き、聞き出すしかない。

 誰が……何が封印を刺激したのだろうか。

 本来なら、王都を一直線に目指すべきだ。だがロレットの書簡を届けるだけがディオの目的ではない。

 四百年前、妖精は、人間に反逆されて追い出された。その時の話を、ロレットも当事者の妖精達も詳しく教えてくれなかった。

 妖精をこの世界から追い出さなければならない理由があったのか。

(1410年の今から1年後に、妖精は人間界を侵略する。そして、その10年後の1421年、この世界は滅びる……)

 ――もしかしてそれが、妖精に支配された人間界が滅んだ原因になったのでないか?

 その疑問を暴くヒントが、ここにある気がするのだ。

「何があったのか、確かめに行く。その痕跡が少しでも残っていれば良いが」

 何者かが大蛇の封印を刺激した。そして封印は弱まり、大蛇の目覚めと共に、湖には毒が染みていった。ヒエンの言葉から推測こそ出来るが、確信が欲しい。可能なら封印を刺激した人物の動向を追い、この目で確認したかった。

「湖に行くんですか!」

「危ないから着いてくるのは」

「行きます! それに、ヒエンさんも何かあったらディオさんに着いて行け、って言ってました!」

 言い掛けたディオを遮って、ネモが畳みかけた。

 ――この先、身の危険を感じたならば。そこの娘と二人で戦うといい。

確か、ヒエンは初めて会った時、そう言っていたか。

「湖は危険です。それは分かってます……でも、だからこそ、一緒に行きます。私の知らないところで、ディオさんが怪我するのは嫌だから」

 ディオは眉を寄せた。ネモは既に、二度も危険に晒されている。一度目は一角獣の攻撃を受けそうになった時。二度目は、この狐里雲での高熱。

「それは……俺も同じ思いだよ」

「同じなら、分かってくれますよね?」

 ネモが不安そうな、けれど期待混じりの双眸で見上げてくる。そう言われてしまえば、ディオは何も言い返せない。

「……分かった。ただ、護身用に例の剣は持ってきてくれ」

 釘を差すディオに、ネモは大きく頷く。カナタたちがまだ、長老たちを説得している横をすり抜けて、二人は森へと足を踏み出した。

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