2-⑦

 空がようやく明るくなった。社があるとされる場所への道は下り坂が多かった。ゴロゴロと細かい石がブーツの裏を刺す。その歩き辛さの中を、この山中で育ったカナタは、身軽に進んでいく。そんな彼の背を追いながら、ディオはあることを思い出していた。

(この道、通ったな。ここで、あの女性と会った……)

 脳裏に、漆黒のドレスを着た女性の姿が浮かぶ。そういえば、名も聞いていない。

「親父が言ってたのはこの辺だよな」

 カナタが周囲を見渡しながら立ち止まる。広い場所に出ていた。ディオは、先日通った時に掛かっていた霧が消えている事に気が付く。視界は明瞭で、だからこそ、見えなかったものが鮮明に映し出された。

「鳥居?」

 それは、お世辞にも綺麗とは言えない社――祠だった。十段も無い石の階段の上には、ポツン、と鳥居が一つある。しかし柱は赤錆色に覆われ、放置された年月を伺わせた。

 ディオとカナタがそれを見詰めていると、視界の隅を小さな狐が走った。

「狐……」

 チラリ、と呟いたディオを一瞥して、狐は軽やかな足取りで去って行く。

「狐里雲の近くに、こんなものがあったなんて。ディオ、近付いてみようぜ」

 カナタが階段に足を掛ける。ボロボロの鳥居をくぐり、小さな祠の前に立つ。

 ヒノキの皮で出来た祠の小さな屋根は、鳥居同様に色あせていて、元の紅色がくすんだ赤茶色に変わっている。その上に葉っぱが積もり、蜘蛛の巣が掛かっていた。カナタは顔を顰めて、手の甲でそれを振り払う。

「ん? なんだぁ、これ……祠に何か……紙?」

 祠に小さな小石で押さえられた、四つ折りの紙がかくれていた。カナタが手を伸ばした、そのとき。

 カナタの指先に赤い蝶がとまった。だが蝶の形を取っているだけで、ディオはただの生き物ではないと察する。小さな体は半透明で、羽根越しに向こう側が見えていた。

「うわっ!」

 カナタは驚いて声をあげ、思わず振り落とそうとする。

 どこからともなく現れた蝶はすぐに指を離れて、フワリと舞い……祠の後ろに立つ、女性の前で翅を揺らめかせた。

 咄嗟にディオは、カナタの腕を引いて自分の後ろへ下がらせると、手のひらに氷の剣を生み出す。切っ先は地面を向けたまま、けれど鋭い目つきで、彼は女性を見詰めた。

 突然現れた女性に見覚えはあったが、まさか彼女が、と思いながら尋ねる。

「……狐様、か?」

「また会ったな、迷い子」

 山中の崖上に似合わない黒いドレスと、毛先だけは紅色の白髪。赤いショールを肩から背中に流して、女性は微笑んだ。

「しかし、その呼ばれ方は好かん。それは人間が勝手につけた名前よ。余のことは、ヒエンと呼ぶと良い」

 ヒエンは、赤い蝶に息を吹き掛けた。すると、それは形を崩して消えてしまった。

 狐様、守り神。昔の狐里雲の民が、彼女をそう称したのは、居もしない神様に例えてなのだろう。では、目の前にいる彼女は何者か?

 この世界には、人間、妖精、そして、妖魔しかいない。

「妖魔か。それも……かなり長い年月を生きた」

 ディオは剣呑な視線を向けたまま呟く。

「よ……妖魔でも、神様でも、何だっていい! 貴方が狐様なら、頼みたい事がある!」

 カナタが叫んだ。何であれ、ヒエンが狐様だと認めたならば、彼女は紛れもなく、数百年前に狐里雲を救った存在なのだ。

 コテリ、とヒエンは首を傾げた。

「ああ、大蛇か」

「俺達じゃ、どうしようもできない! あの化け物を退治してくれ! 昔みたいに、狐里雲を守ってください!」

 化け物、と聞いたヒエンは、少しだけ眉をひそめた。

 それから、彼女は祠に手を置く。

「汝ら、妖魔がどうやって生まれるか知っておるか?」

 問いかけに、カナタは困惑した表情で首を横に振る。

「先天的……自然に生まれた存在がいる一方で、後天的に、人間が変異した例もある。あの大蛇は、後者じゃよ」

 ヒエンは肩を竦めて目を細めると、記憶を手繰り寄せた。

「これは、ある一匹の狐の話だ……」


 *


 ――そもそも、妖魔という名称をつけたのは、誰だったか。妖精だったか、それとも、人間だったか。

 四百年前は多種多様な種族が居た。飛竜や白虎……時代と共に、それらは『妖魔』という言葉で一括りにされてしまった。

 ヒエンは、白銀の尾を持つ狐、妖狐の一種だ。同胞は殺され、単身で狐里雲周辺――当時は狐里雲という名前は無かった――に逃げ込んだ。自身も怪我を負い、それを癒す為に身を潜めていた。気が付いた時には、戦火は収まり人間が世界の主となっていた。

 元々『妖魔』は仲間意識が薄い。なにせ、人間と妖精が手を組んで妖魔を追い詰めた時でさえ、互いに足を引っ張り合い、連携一つしなかった。個が集団に飲み込まれる。それは必然と言えた。

 今から四百年前、傷を癒やす目的で逃げ込んだ山中で、彼女は気紛れに人間を助けた事がある。

 『妖魔』に襲われた人々は彼女に深く感謝した。同時に、村の名を『狐里雲』と名付け、ヒエンの為に社を立てた。

 彼らは白銀の尾を持つヒエンを、神様だと崇めていたのだろう。

 けれど、二百五十年あまりの時は人の心も錆びつかせて、少しずつ社は寂れていった。ヒエンが“気紛れ”を起こして人を助けたのは一度のみ。当時はまだ混乱の渦中で、今よりずっと妖魔の数も多かった。例え村人に危機が訪れても、ヒエンは手を出さなかった。その結果、人々の感謝の心は薄れていき、社に訪れる者など居なくなった。

 ある一人の子供が、今から150程前に訪れるまでは。


(――また、来ている)

「ふぅ、今日も綺麗にするぞ」

 石の階段を上り、赤い鳥居を潜りながら、少年が気合を入れるように呟いた。その様子を、ヒエンは木々の上から見詰めている。

 彼は、右手に持つ袋から布を取り出すと祠を丁寧に拭い始めた。磨き終わると小さなリンゴを一つ置く。そうして、手を合わせてお祈りを始めた。

 バンダナで短い髪を押し上げられた額には、汗の粒が浮かんでいる。年齢は十歳前後だろう。少年は頻繁に祠を訪れて祠の汚れを取り、最後に何かお祈りしていく。

 かつてはヒエンを神様だと崇める人間が居た。だが最近はそういう人間を見たことが無い。だから、ヒエンは少年が気になって、つい声を掛けたのだ。

「汝、何者だ?」

 ちょうど、その日のお祈りを終えた少年が目を開けて、祠を見据える。その祠の後ろに音もなく現れたヒエンは言った。白銀の尾は隠し、人間の女性の姿を模した。怖がらせたくなかったからだ。

 だが少年は、まさか人気が無いこの場所で、誰かに話し掛けられるとは思わなかったのだろう。

「わあぁあ!」

 彼は叫び声をあげて尻餅をついた。ヒエンも、少年の反応に目を丸くする。

 それが、ヒエンと少年――コユメの出会いだった。


 コユメが持ってきたリンゴを丸かじりしながら、ヒエンは彼と階段に座った。少年は、ヒエンの顔を――頭を見ながら、感心したように呟いた。

「貴方が狐様ですか?」

「ふむ、なぜそう思う?」

「だって、狐の耳が……」

 ヒエンは秒速で狐耳をしまった。コユメは声をあげずに笑う。彼女はそっぽを向き、何もなかった風を装いリンゴの芯まで食べると、コユメに向き直った。

「汝、ひとりか? 家族はどうした」

「両親には黙って来ています。なので、狐様も内緒にしてください」

 彼は少し躊躇いがちに口にした。

「僕は体が弱くて、すぐに息が切れちゃうし、急に咳が止まらなくなってしまう事もあるんです。ここに来るのも、バレたら叱られます。……お医者さんも、何の病気か分からないから、体質じゃないか、って。だから狐様にお願いして、体を治したいのです」

 それが、コユメが祠に通う理由らしい。

 話を聞いたヒエンは、コユメの瞳を覗き込んだ。少年の薄い灰色の双眸がヒエンを映している。その奥に面妖な模様を見た。

「厄介な魔術を掛けられているな。どれどれ、祓ってやろう。リンゴの礼だ」

 ヒエンは芯だけになったリンゴをそのまま飲み込んだ。指先に小さな灯が浮かび、赤い蝶を作る。半透明な蝶が、コユメの額に突撃した。

「いてっ!」

「ほら、取れたぞ……うむ」

 コツンと小さな音がして、蝶は跳ね返ってヒエンの元に戻る。渦巻く靄のようなものが小さな蝶の体を包んでいるが、ヒエンは蝶ごと手のひらに乗せて握りつぶした。

 どこかで妖魔の絶叫が聞こえた気がする。すると、彼女の頭の中に記憶が再生された。

 ――コユメによく似た女性が、森の中で、尻餅をついている。靄が、大きな腹を抱えた彼女を取り囲む。そのまま女性は気を失ってしまった。

 その僅かな情報だけで、ヒエンはかつて何が起こったかを悟った。

(どこぞの低能な妖魔か……見境なく人を襲いおって。母親に掛けた魔術が、子に転移したのだろう)

「狐様? 怖い顔をして、どうしましたか?」

 おずおずとコユメに尋ねられ、ヒエンはニコリと微笑んだ。

「なんでもない。それより、これで汝に掛かった魔術は解けた」

「ほ、本当ですか? ……母さんに、早速言います! ありがとうございます、狐様!」

 コユメは嬉しそうに叫び、すぐに立ち上がると、彼女に手を振りながら去って行く。願いが叶った彼は、もうこの場所に来ないだろう。

 そう思った翌日には、笑顔でコユメがやってきた。

「狐様! 本当に、体が良くなりました! 走って帰ったのに、体が羽根みたいに軽くて!」

「うんうん、良かったなぁ。で、何しに来た」

 ヒエンは、祠から少し離れた場所に自身の力で空間を歪めて、小さな“隙間”を作る。そしてその場所で過ごす事が多い。コユメの大きな声を聞いて、しぶしぶ外に出てきたヒエンに、コユメが身振り手振りで感情を表現する。

「きちんとお礼をしに。よーしっ、今日も綺麗に磨くぞー!」

 宣言しながら、少年はいつもの手提げ袋から布を取り出して、祠の前に屈む。その姿を、呆気に取られてヒエンは見詰めていた。

 ……不思議だった。コユメを助けたのはリンゴのお礼と称した気紛れだ。

何もやる事は無く、けれど死ぬ理由も無いから、のうのうと時間だけを貪っていたヒエンの前に現れた人間。

 気が付けば、ヒエンの唇は笑みを形作っていた。

「おかしい人の子だなぁ」

 そう零せば、コユメは振り向く。首を傾げてキョトンとしていた。

 その日以降、何かと理由をつけて、コユメは祠と狐里雲を往復した。ヒエンもいつしか、彼が訪れる時間を待ち望むようになって、確かに彼女はその時間を楽しんでいた。

 コユメが、ある話を持ち出すまで。

 日々は穏やかに過ぎていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る