2-⑥

 ソレは、湖の奥の洞窟を破壊して、窮屈な穴倉から這い出ていた。霧の隙間から分かる青緑色の体には、びっしりと鱗がついている。ズル、ズルと重そうにしながら、緩やかにとぐろを巻く――大蛇。全長を目視で判断する事は難しいが、大人一人、簡単に丸呑み出来てしまいそうな太く長い体から発せられる威圧感に、人々は恐怖を覚えた。

 一体、あの体がどうやって洞窟の中に納まりきっていたのか。ディオ達が見ている間にも、億劫そうに、体を揺らしている。こちらに気付いている様子はない。

「長老、戻るぞ。気付かれたら面倒だ」

 ディオはすぐに決断した。まだ、長老たちは大蛇の恐怖に駆られたままで、声も出せずにいる。顔色を悪くしたカナタが、その中で言葉を絞り出した。

「ディオは、あんなの見て、平気なのか……」

「あまり冷静ではない。あそこまで大きい妖魔は初めて見る」

 早口に答えながら、ディオはカナタに急ぐよう促す。それから、ディオは、自分の背中に引っ付くようにしているネモを振り向いた。

「ネモ、そんなに掴まれると歩きにくい」

「はっ。つい……び、びっくりしてしまって……」

 この場で戦える術士はディオだけ。ならば、毅然としているべきだ。一方で、ディオを信頼しきっているネモには、少しばかり余裕があった。恐怖は湧くが、彼女は大蛇をしっかりと見据えていた。そして思った事をポツリと呟く。

「なんだか……寝起き? みたいな感じですね?」

「地震は洞窟が崩れたせいだな。あそこに封印でもされていたんじゃないか」

 封印、と仮説を聞いてネモは首を傾げる。

「どうしてでしょう?」

「長老なら知っているかもしれない。……俺達も行くぞ」

 それ以上、ネモは何も言わずに頷いた。


 二人が集落に戻ると、中央広場に集まった人々が顔を見合わせ話し合っていた。長老が、少し黄ばんだ書物を広場に広げた。

「150年ほど前に洞窟に封印された『良くない物』……直接的な表現は避けられているが、十中八九、あの大蛇の妖魔じゃろうな」

「うちも祖父から聞いた事があるな。当時大きな妖魔が居て、狐里雲にもう少しで被害が出るところだった、って」

「そういえば、誰が封印したんだ?」「王都の術士だろう」

 ディオの予想は当たっていたらしい。ならば、と彼は声をあげた。

「どうして封印が解けた?」

 術の劣化か、それ以外の原因があるのか。書物に何か、封印が解ける条件が書かれていないかと、集落の人々が目を落とした時――。

「俺の、せいだ」

 カナタが呟いた。騒めきは収まり、その中で、彼は立ち尽くして拳を握りしめている。引き結ばれた唇を見て、長老が怪訝そうに尋ねた。

「どういう事だ?」

「……この前。親父にあれこれ言われて、ムシャクシャして……」

 カナタはゴクリと生唾を飲み込んだ。

「湖で、俺、言っちゃったんだ。――狐里雲なんて無くなっちゃえばいいのに、って」

 誰もが息を呑んだ。カナタは、でも! と語気を強めた。

「すげぇ後悔した! 本当に、ちょっとだけ、あの時ちょっとだけ思ったんだ! けど、もしそれだったら……俺が、馬鹿な事を願っちまったせいで……」

 集落の人々の、非難を含んだ戸惑いの視線を受けて、カナタは顔を伏せていく。するとネモがカナタの前に飛び出て強く叫んだ。

「それが理由とは限らないです! カナタさんのせいでは……」

「……だが、強大な妖魔は言葉が分かる。可能性も零じゃない」

「もう! もう! 何でそんな風に言うんですかぁ、ディオさん!」

 ネモは激しく抗議した。事実だ、とディオは涼しい表情で言ってのける。

「それに起きてしまった事は変えられない。これからどうするかを決めなければならない」

 少しずつ明るくなっていく空と対照的に、森を漂っていた霧のようなものが、ジワジワと狐里雲に滲み出て、周辺の視界がうす暗くなっている。

 まだ封印を解かれたばかりだからか? 大蛇が狐里雲を襲う気配は無い。しかし、この静寂もどれほどもつのか。

「――狐様を、頼ろう」

 長老が厳かに言った。一冊のひときわ古い書物に描かれた、狐の絵をなぞる。

「かつて、狐里雲を救ってくれた狐様というお方がいる。大蛇が現れるよりもずっと前……狐里雲が村として栄えていた頃じゃ。当時は、妖魔がまだ沢山おった。狐様は、その間、村を守ってくれたとある……」

 だがそれも、数百年前の話だった。姿も分からない、書物にだけ残る『狐様』という存在。書物には、狐様を祀っていたとされる社の場所も書かれているが、長老をはじめ、誰一人として、そのような存在に出会った事は無かった。

「俺が行く! どこで会えるんだ、親父!」

 カナタが誰よりも早く声をあげた。次いで、ネモが手を挙げる。

「はい! 私も行きます!」

「待て。お前は病み上がりだろう」

 ディオは彼女を止めた。ネモは不満そうに頬を膨らませる。普段の元気を取り戻した姿を見ていれば、もう体調が戻ったという事は分かるのだが。

 ディオは、こちらを見上げてくる丸い緑葉色の瞳を見詰め返して、次の言葉を継いだ。

「俺が行く。ネモは、大蛇に大きな動きがあったら、集落の人たちを率先して避難させてくれ。出来るな?」

 大蛇を前にしても、集落の人々はこの地を離れるつもりはないようだった。見上げた土地愛だが、それは命に代えられない。ディオは、ネモの人を惹き付ける明るさや、強引ではあるがその行動力を買っている。土地か、命か、選択を迫られたとき、ネモなら迷う集落の人たちの背中を押して、きっと彼らを守ってくれるだろう。

「ッ……出来ます。やります! ディオさん、お気をつけて!」

 ネモは、ディオの信頼に応えるように大きく頷いた。ディオも頷き返して、それからカナタを向く。

 カナタが嬉しそうな表情を浮かべてから、申し訳なさそうに言った。

「悪い。あんたらを巻き込んじまって……」

「今更だ。長老、教えてくれ。狐様とやらの居場所を」

 事は一刻を争う。長老は、重々しく頷いて、社の位置を指し示した。

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