2-⑤
ディオが訪ねると、長老とカナタは難しい顔で、四人掛けのテーブルに向き合って座っていた。
「長老、どうするつもりだ?」
「まずは謝罪を、ディオ殿。知らなかったとはいえ、本当に申し訳なかった……」
長老は深々と頭を下げた。
「それは、ネモに直接言ってくれ」
「分かっておる。湖の件だが……ひとまず、王都に遣いを出そうと思う。湖全体を解毒しなければならないとなると、やはり、毒や水に詳しい術士、専門家を呼ぶべきだろう。何故、湖が毒されているのかも調べて貰わねばならん」
「とりあえず、集落の皆に湖の水は使わないように言って回ったよ。けど、狐里雲の水はほとんどが湖のものだ。正直、このままだと……」
話しながら、長老とカナタの顔は曇っていく。王都であれば、術士は勿論、魔術を研究している学者たちも居るだろう。彼らの知識を借りれば、あの湖の毒を払う事はじゅうぶん可能なはずだ。それでも、脳裏にこびりついたままの光景を思い浮かべて、ディオは長老に尋ねた。
「湖の奥に洞窟があった。あそこは?」
「随分と奥まで進んだのじゃな。あそこには、先祖代々、なるべく行かないように、と伝えられていてな。……何だったかな……そう」
長老は、一つ頷いた。彼はしゃがれた声で、どこかで聞いた言葉を告げる。
「――あそこには『良くない物』がおる」
*
煎じられた薬を飲んだネモは、すぐに回復し始めた。まだ熱はあるが、今朝のような苦し気な呼吸はしていない。時折彼女は目を覚まして、食事も取ったので、これなら明日の朝には動けるようになるだろう、というのが、医者の見解だった。
狐里雲全体で湖の毒の話が伝わり、王都へ遣いが出された。この遣いというのは、術士が開発した魔法具と呼ばれる連絡鳩である。使い切りの魔法具は人を王都へ向かわせるより断然早い。
湖は当然立ち入り禁止になった。長老やカナタ、それに集落の人々は、予備の水がどの程度確保できるか、クォーレ山脈付近の村から援助を受けるべきか、長い時間話し合っている。
一方で、ディオは。
ネモを置いていく訳にもいかないし、だからといって、狐里雲の状況を打破する力も無いため、彼女の側で身を休めていた。
「……足を止めさせて、すみません……」
夜が深くなった頃、ポツリ、とネモが言った。彼女は、熱のせいで寝て起きてを繰り返していた。ネモには一通りの状況を説明してある。しかし彼女は、この熱の原因よりもディオの足を引っ張ってしまった、という事実にひたすら後悔していた。
彼は、部屋の隅に置かれた小さなテーブルで地図を眺めていた。視線を上げる。
「起きたらすぐ動けるようになります! だからっ」
ディオは、必死に訴えるネモにため息をついた。地図を畳み、彼女の枕元に近付く。一日世話になっている布団から体を起こしたネモは、唇を噛み締めた。
「お、置いていかないでほしい、です……」
「ここで置いていく程、俺は薄情な男ではない。それに、約束は守る」
ネモと共に王都へ行く。彼女と交わした約束だ。ディオは、もう一度言葉にした。
「俺は約束を必ず守る。だから気にするな」
王都へ行き、ロレット皇子の書状を、人間の王へ届ける。これこそがディオの目的であり、親友との約束だ。同時に、今の彼には、世話になった食堂のオーナーとネモと交わした大事な約束もある。
どちらも重要で、優劣はつけられない。ディオは、約束をそう捉えていた。
「分かったら、少しでも寝て体調を戻せ」
細い肩を軽く叩く。横になったネモは、なぜかキョトン、とした表情を浮かべていた。
「……どうした?」
「つめたい」
ディオは告げられた単語に瞬きをする。まだ熱が引いていないネモだが、驚くほどの速さでディオの手を掴んだ。群青色と黒が交じり合った革手袋はテーブルに投げ出されている。露わになっている指先が、ネモの手に絡む。なんだ、とディオが言うより先に、彼女はそれを額に持っていった。
「つめたい、です……! ひんやりしてる……」
「ああ、そういう事か……」
「自分では、よくわからないんですか?」
「そうだな、あまり気にしたことは無い。……気持ち良いか?」
「はい!」
ネモは嬉しそうに目を細めた。そうか、と彼は小さく頷く。
「なら、お前が寝るまで、こうしていよう」
もうずいぶんと昔のように感じる……ある記憶を思い出した。ディオは、少女の熱い額に触れながら目を閉じる。
まるで溶けてしまいそうな熱さが、とても懐かしいと思いながら。
*
聴覚が拾った何かの物音で、ディオは目を覚ました。それから、小さく呻いて額に手を当てる。首と肩が痛い。
「……うたた寝していたか」
心地良い微睡みの名残を、首を振って払い落とす。すぐ近くで眠っているネモの顔色を覗き込めば、随分と良くなっていた。緩み切った顔が幸せそうで、安堵よりも先に呆れが来た。
室内は薄暗い。小窓から月の光がわずかに差し込んでいる。時間は意識がある時から、それほど経っていないのだろう。シン、とした部屋の中に、遠くから梟の声が聞こえた。
立ち上がると、床に胡坐を掻いていたせいで鈍い痛みが足腰に伝わった。ディオは、椅子の背もたれに掛けていた薄手の外套を手に、音を立てないように気をつけながら外に出た。
空は少しずつ白みだしていた。気温もだいぶ低く、薄着では肌寒さを感じる。
何か物音がして目が覚めた。……遠くで崩れた音だ。そう、視線が湖の方向へ向いたとき。
――下から何か突き上げるような音がした。同時に、地面が揺れる。
「……!」
木製の扉に手を当て、ディオは周囲を睨みつけた。揺れは長く続いている。それは、十数秒経ちようやく収まった。
「今のは……」
幸い、周囲の建物が崩壊するなどの被害は無いようだ。あちこちで明かりが灯り、何事かと、村長を初めとした人々が顔を出し、集落の中心の広場へと集まっていく。
ディオはすぐに身を翻して室内に戻った。ネモが体を起こして、驚いたように彼を見ていた。
「いっ、今! 揺れました!」
「ああ、怪我は……無さそうだな」
落ちてくるものも特になく、せいぜい、テーブルに置きっぱなしだったコップが床に転がっているくらいだ。それも木製の食器だったため、割れていない。
最初の衝撃こそ大きかったものの、その後は、地面が少し揺れている程度だった。そのお陰で、この家も、周辺の家も倒れなかったのだろう。
「まるで、遠くで何かが崩れて、その余波が来たみたいな……」
水に波紋が起き、緩やかに収まっていく様に似ていた。ディオが考えていると、
「大変だぁ!」
今度は、誰かの叫び声が轟いた。悲鳴と驚愕に染まった声に、ディオはもう一度、外へ出る。ネモも布団を跳ねのけて彼を追う。……そこで、ハッ、と慌てて桃色の、あちこちはねてボサボサの髪に手を当てた。しかし手櫛ではどうにもならなかったようで、諦めて首を横に振る。
家と家が広場を囲むように建ち、その中心部。広い空間には、集落のほとんどの人が集まっていた。長老に一人の男が身振り手振りで説明をしている。
「どうしたんだ、何があった。湖の方を見に行ったんじゃなかったのか」
「へ、蛇が……馬鹿でかい蛇がいたんだ! そ、そいつが、湖に……!」
その額には汗を掻き、顔色は真っ青だった。
「良いから来てくれよ! 見て貰った方が早いから!」
長老とカナタ、それから数人が、西の森の方へと歩き出す。ネモに服の裾を引っ張られて、ディオもそれに続いた。
明け方の森は不気味なほど静まり返っている。生き物の気配も、寝起きに聞こえた梟の鳴き声も当然しない。集落の人々の後ろに着いて歩いていたディオは、すぐに昨日は感じなかった異臭に気が付いて、顔を顰めた。
血の香り、腐敗した匂い、それらを掻き混ぜたような不快なもの。それから、薄らと霧のようなものが森を包んでいる。視界が覆われる事は無いが、遠くを見通せない。
先頭を歩いていた長老とカナタが足を止めた。森を抜けて、湖が煙る視界の向こうにぼんやりと浮かぶ。そこに。
巨大な頭のシルエットが浮かんでいた。
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