1-⑧
「……喋った?」
老人のようにしゃがれた声だった。それがまさか、一角獣から発されているとは思わず、二人は唖然とする。
「礼を言う。貴殿のお陰で正気に戻れた」
「正気? どういうことだ」
少なくとも敵意は無くなったと判断し、ディオは氷の剣を下ろした。
「本来、四百年前から存在する、お前たちが妖魔と呼ぶ我々は、身を隠して細々と生きてきた」
四百年前に、人間と妖精は手を結び、当時、無数の妖魔で溢れていた世界を平定した。その際、多くの妖魔――当時はまだ、名も無い怪物――は殺されたが、生き残った者たちもいた。彼らは、平定された世を見据え身を隠すことにしたのだ。彼らは、世界を人間と妖精という勝者に譲ったのである。
当然、当時から生き延びている妖魔の力は強大だ。一角獣もその一体だった。
「だが、ある時、この湖に流れてきた呪いの気配が、我々の理性を封じた」
「呪いとはなんだ?」
ディオは、拳を握りしめて尋ねた。四百年も生きる妖魔から、理性を奪う力を持つのだ。一角獣は、掠れた声で告げる。
「妖精の呪いだ。……詳しくは知らぬ。だが、四百年前、妖精がこの世界を離れる時、まるで怨念のように禍々しい想念を纏って去って行ったのを見た。そして妖精共は、あの呪いを抱えて、またこの世界に戻ってきた。あの呪いには、憎しみを強くする力がある。我の中にも、居場所を奪われた憎しみが残っていたらしい」
「なんだそれは……妖精の呪いだと?」
(ロレットから一度も聞いたことが無い。……もしかして、妖精の呪いが、俺とフィラが過ごした未来を……世界を終わらせた原因か?)
考え込むディオの裾を、躊躇いがちにネモが引く。視線を落とすと、彼女の指先はわずかに震えていた。しかし勇気を奮い起こして、恐る恐る、ネモは一角獣に問い掛ける。
「じゃあ、じゃあ……もう、貴方は、村を襲いませんか? 畑を、皆に、酷い事をしませんか……?」
「当然だ。我らは、人間と妖精に干渉しないと決めた者。早々にこの場を去るとしよう」
ほ、とネモは安堵の息を吐く。彼女の指先の震えは止まった。ディオの服の裾は握りしめられたままだったが、彼はネモの好きなようにさせた。
「良かった……これで、皆、安心できますね……!」
幸い、人的被害は無かった。泉から妖魔が去れば、村人も安心するだろう。
村人は王都へこの一件を連絡するだろう。四百年も生きた妖魔が、まだ存在し、彼らは時に人に害を成す可能性もある。だとすれば、騎士や術士が派遣され大規模な妖魔狩りが始まるかもしれない。
「一つ教えてくれ。呪いを発した妖精はどこに行った?」
「分からぬ。たまたま人間界を偵察しに来たか、既に妖精界へ戻ったか」
一角獣は、険しい口調で続ける。
「これは警告だ。妖精には近付かぬ方が良い。奴らは、常に妖精の呪いを纏っている。あれは憎しみに干渉する呪いだ」
そう最後に残して、一角獣は森の奥へ姿を消した。
ディオは、周りから妖魔の気配が消えると、ようやく肩の力を抜き――ネモを見る。
「それで、どうしてここに来たんだ?」
「あぅっ」
ネモは、たらり、と汗を流した。目を泳がせながら、話を逸らす。
「え、えっと……ディオさん、強い妖魔だったら、帰ってくるって言ったじゃないですか!」
四百年も生きた強力な力を持つ妖魔だ。本来なら、一人の人間が敵う存在ではない。けれど、ディオには勝算があった。
「正気を失っていたお陰か、動きは単純だったし……取り巻きの妖魔も強い訳では無かった」
ここで倒さなければ村の被害が拡大する、という理由もあったが――少なくとも、ディオは、あの一角獣を倒せる確信があった。勿論、己の怪我も考慮の上で、だ。怪我をせず勝てる相手では無い。
ネモは、小柄な体を更に縮こまらせて項垂れると、自分の行動を素直に認めることにした。
「ごめんなさい」
「まぁ……心配して来てくれたんだろう? ……俺も強く言い過ぎたな。今度から、危険だと思ったら不用意に近付かないように。それと」
彼女の長所かもしれないが、勇気と行動力がありすぎる。ディオは、そんなネモが目の前で見せた剣の力を尋ねようとした。
「その剣……」
あれは何だったんだ、と。だが、身じろぎをした瞬間、脇腹の傷が引き攣るような痛みを訴えた。思わず言葉を切る。
ネモは息を呑んで、彼の傷口に手を伸ばした。
「おいっ!」
ディオは咄嗟に声をあげて、脇腹に触れる少女の手のひらを払いのけようとする。すると、そこから淡い光が浮かび上がった。
「魔術……?!」
「ジッ、としててください!」
ピシャリ、と彼女は強く言い放った。ディオは口を噤む。
しばらくして光が透けていくと傷口は塞がっていた。痛みも、痕さえも残らない。
「術士だったのか」
魔術には幾つか属性がある。火や水……ディオならば氷、といったように。
人間は妖精と違い、誰でも自在に魔術を使えるわけではない。ディオは、ロレットから教えを受けていたので今はこうして使いこなせる。元々、魔術の起源は妖精であり、四百年前の争乱時代には、人間も妖精から手ほどきを受けていたという。
人間の魔術は、才能や生まれつきで開花するものだが、一方で廃れつつある。そして、数を減らしていき、やがて持たざる者からは忌避される存在になるのだ。
「ええっと、そんなような、そうではないような……治癒しか使えないんですけど……」
ネモは困ったように笑った。
「君は魔術について詳しいか?」
「え? あ、あんまり分からないんです。……その、お母さんは、誰にも見せないようにって言ってた、けど」
「いつから使えるようになった?」
「少し前です。お母さんが、包丁で指を切っちゃって……痛そうで、治してあげたい、って思ったら」
話を聞いて、そうか、とディオは頷いた。
そうして、言いづらそうに口を開き、けれど一度閉じてしまう。やがて、息を吐いて彼女に告げた。
「オーナーの言う通り、むやみに使わない方が良い」
「うん……ごめんなさい……」
「怒ってはいない。……ああ、違うな」
ディオは、自分が他人より仏頂面である事を知っている。同時に、物言いが冷たく聞こえるとも。怒られたと肩を縮こませたネモに、彼は視線を合わせた。
「ネモ、ありがとう。助かった。だから謝らなくて良い」
「……はい!」
「だが、戻ったらオーナーに怒られるのは覚悟しておけ」
「……はい」
表情を固くし、身を震わせるネモに小さく笑う。
(彼女の剣の話も聞きたいが、まずは彼女をルプス村に帰すのが先か)
ディオは「帰ろう」とネモを促して、森の出口を目指した。
来た道を辿り、森を出ると、すぐに村の入り口だ。そこでは例の鶏飼いの男が、首を長くして待っていた。妖魔を退治した旨を告げれば、彼は飛び上がって喜んだ。やがて、ディオに気付いた他の村人も徐々に集まり始める。
一方で、ネモが一人でディオを追いかけた事を知ったオーナーは、顔を青くしたり赤くしたりしながら、彼女を叱った。ネモも顔色を悪くする。周囲の村人さえ、自分が怒られている訳ではないのに身震いをしていた。
「着いて行くなら、ちゃんとディオさんに言わないと駄目じゃない!」
「はい!」
「女は度胸で行かないと、振り向いて貰えないわよ!」
「はい!」
心配しているからこその憤りとはいえ、母の雷程恐ろしい物は無い。近くで聞いていたディオも、自分を育ててくれた“母親”を、ふと思い出し、感慨に浸る。
「……叱る所はそこで良いのか……?」
何か論点がずれている気がする。もっと怒るべき場所は別にあるんじゃないか。
そんな風にディオが思っていると、
「本当にごめんなさい、お母さん。この剣も、勝手に持ち出しちゃって……」
言葉を切って、オーナーは不安そうな表情でネモに言った。
「その剣……持って行ったのね……」
「オーナー。口を挟んですまない。その剣なんだが」
ディオは、剣を向けたとき、まるで気圧されたように一角獣が動きをとめたことを伝えた。剣も突然光を放ち、ディオもネモも、何が起こったのか分からなかった。
「宝剣を使ったの? ネモ、貴方はこの剣がどういうものなのか、本当に知らないの?」
「お母さん、私、嘘なんかつかないよ。ただ、剣に触れているだけで、勇気が湧いてくるの。こんな私でも、この剣があればディオさんのために何か出来るかもしれないって、思えたの」
真剣に訴えるネモを見詰めるオーナーの目に、諦めともつかぬ感情が浮かんだ。
「叱らないでやってくれないか。俺がネモを守りきれなかったから……」
ディオが申し訳なさそうに口にすれば、オーナーはすぐに首を横に振った。
「いいえ、ディオさんは悪くありません。ネモ、体におかしなところはない?」
「大丈夫! 私も剣が急に光りだしたのは驚いたけど……でも、嫌な感じはしなかったの。あ、ううん、何の自信も無いけど……」
ディオもネモと同意見だった。あの光に危機感を覚えるような恐ろしさは感じなかった。結果的にネモが助かったという点で見ても、剣はネモに害を与える存在ではないと思う。
「そう……この剣は貴方とは特別な結びつきがあるんでしょうね。とにかく、貴方が無事で良かった」
オーナーは安堵の息を零して、ネモを抱き締めた。ネモはその腕の中で、うん、と頷く。
剣について考えながら、ネモは母の背中に手をまわして、同じくらいの力で抱き返した。
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