1-⑦
*
神秘の森、と村人が呼ぶ場所は、ルプス村と隣接している。遥か北にある王都のちょうど反対側に広がっていた。
ルプス村は西の山々を辿る川の線上にあるが、神秘の森には泉があり、その水の恵みで育つ野菜の旨味がルプス村の誇りなのだという。
ディオが森の入り口付近に踏み込むと動物の姿も見えた。だが、五分ほど歩くと様子が一変した。
「足跡が無い」
村人もあまり足を踏み入れない、というし、特にここ最近は妖魔の件もある。だが、人が踏み込まなければ、必然的に動物の足跡が増える筈だ。それが、一切無い。
動物も警戒する存在がここにいる。
ディオは重なる落ち葉を見詰め、ポツリと呟いた。
「厄介な妖魔かもしれないな」
特徴は聞いている。残滓のレベルではないだろう。となれば、人間と妖精が妖魔を滅ぼした時代、つまり四百年以上前の生き残りだ。同時に、疑問でもある。なぜ、今頃になって活発化したのか。
なるべく足音を抑えて進んでいくと、風が吹く度に揺れる木々のざわめきとは別に、水が流れる音が聞こえてきた。
森の中心には真円といっていいほど円い泉があった。周囲を高さが違う木々に囲われている。泉の左奥では、数体の生き物の影が見えた。
――鶏小屋が荒らされた地面には、蹄の跡が残っていた。
――そして、目撃した村人が見た姿は、馬の形をしていたという。
「あれか」
水浴びをする獣は馬のようだ。しかし、頭のてっぺんで頂を向く、禍々しい紅色をした一本の角がある。また、獣の周辺では、それに倣う様に数体の妖魔の姿もある。
複数の妖魔は姿形がバラバラで、幻影のように揺らいでいる。彼らはほぼ力が無い、残滓の部類だ。一方で、角を持つ獣の妖魔は、真っ白な体に青い瞳と、実体を持っている。
(あの一角獣……妖魔の残滓を従えているのか? 数が……多いな。ここで見逃せば、村の被害は拡大する。なら……ここで、仕留めるべきか)
倒せずとも、牽制になれば。王都から騎士が派遣されるまで、直接村人に危害を加えられることは無いかもしれない。
注意深く観察し、そして。
「ふぅ」
茂みから飛び出す。一角獣がこちらに気付く。その時には、ディオは相手の懐に潜り込んでいた。
一角獣が身の危険を感じたのか、俊敏な動作で飛び跳ねた。飛沫が上がる。ディオは氷の剣を具現化すると、自分を中心に横に凪ぐ。
扇状に広がった衝撃波が、妖魔の残滓たちをまとめて吹き飛ばす。
「素早いな」
一方で、軽やかに翻った一角獣は、元の位置より十五センチ程左の陸地へ着地をする。すると、四本脚で地面を蹴り、ディオに突進してきた。その威圧感に全身が粟立つ。
ディオが素早く身をかわしたので、一角獣は、彼の後方に生えていた木々を、その体で薙ぎ倒した。根本から折れて倒れた木が粉塵をまき散らす。それから妖魔は、まるで、憤りを表すように全身を大きく震わせた。
ディオは、後ろへ数歩下がり、剣を体の前に構えて怪訝そうにした。
細く狭まった獣の瞳はギラギラと燃えて、ディオを振り向く。一角獣から迸る闘気からは、並々ならぬ興奮が伝わった。知性が無いのか、それとも、理性が無いのか。
(だが、当たりさえしなければ。勝機はある)
考えている間にも、妖魔は再び、突進の姿勢をとる。
「まずは動きを止める……!」
ディオは氷の剣を振り被ると、地面に突き刺した。そこを起点に、一角獣の足元に向かい、氷の道が生まれる。一角獣は、自身の元に氷結が辿り着くより早く跳躍し、後方へ飛んだ。粉塵で汚れた大きな体が着地をすると、地面を捲り上げるような勢いの衝撃が放たれて、氷の勢いを堰き止める。
ディオは短く息を吐いた。
凍った地面を挟み、彼と一角獣はにらみ合う。
再び、ディオが剣を地面から抜き、体の前で構え直すと、一角獣はさらに興奮したように高く嘶いた。
「……ッ!」
周囲の空気はわずかに揺れる。嘶きは、馬が発するものに老人のしゃがれた声が混じったような音で、ディオは不快感から眉を寄せた。
その直後、妖魔の残滓が現れた。先程、一角獣が水浴びをしていた付近である。
どれも形はほとんど保てていない。小鬼の体の者、鳥の形をした者、分かるのはそれくらいで、後は靄が掛かっている。
「どれだけ来ようと同じ……何?」
妖魔たちは、身構えた自分ではなく、ある一か所へ向けて駆け出す。するとディオの後ろで茂みが揺れる音がして、彼は息を呑んだ。
「どうしてそこにいる?!」
ディオが振り向く――そこに居た少女が丸い目を見開いた。
彼は後先も考えず地を蹴る。少女と妖魔の残滓の間に割り込み、剣を下から斜め上に向けて振り上げる。氷を纏う衝撃波でまとめて蹴散らすと、少女――ネモの腕を掴んだ。
「わっ……!」
一角獣が、自分から視線が外れた一瞬を逃すはずがない。
蹄の音を聴覚が拾った瞬間、ディオは、ネモを自分の後ろに突き飛ばした。一角獣は既にこちら目掛けて突進している。
ネモを助けた時と同じ衝撃波を起こそうとするが、まだ自分の呼吸が整っていなかった。弱い氷の津波では避けられてしまう。ならば、と彼は氷の剣を握り直す。
傾いた体勢で、ディオは自分を中心に、剣先で円を描くように地面を凍結させる。だが、それも妖魔の勢いを止める程の拘束力は無かった。
「くっ……!」
まるで槍のように鋭く尖った角が、彼の脇腹を抉っていく。
――けれど直撃は避けた。
一角獣は、追い打ちをかけをしようと、蹄でブレーキを掛けた。その体が左右に揺れる。突進で殺しきれないスピードと、足元の危うい氷の表面が、一角獣のバランスを崩していた。
ディオは剣を握り直す。自分で作りだした氷の床に脚を取られる程、愚かでは無かった。一角獣との距離を詰め、渾身の力を込めて、剣を左下から上に振り上げる。
切っ先は、一角獣の鋭い角を半分にそぎ落とした。
(獲った!)
角は遠くへ飛び、湖の中へ落ちていった。
ディオは更に畳みかけようと踏み込んだが、その瞬間、脇腹の傷口から痛みが走る。わずかな隙に、手負いの妖魔が、ディオの剣先が届く範囲から逃げ出す。
ディオが次にくる攻撃に備えると、あろうことか、一角獣が向かう先では、尻餅をついたネモが目を見開いて、迫りくる妖魔を見上げている。
「危ない!」
「……!」
ネモは恐怖で身を固くし、
――不意に、何かに突き動かされるように体が動いた。両腕で抱えていた剣の柄に手を掛け、鞘から引き抜く。
「わぁっ!」
零れる淡い光。ネモはギュッ、と目を瞑り、抜いた勢いのまま横に払った。切っ先は妖魔に掠りもせず――けれど目の前で、妖魔は何かに弾かれたように動きを止めた。
……何の衝撃も無い。ネモが恐る恐る目を開いて、状況を確認する。
「え?」
彼女が首を傾げると同時に、一角獣は跳び退き、距離を取った。直後、ディオが氷の剣で空を切る。
「ディオさん!」
「今のは……」
ホッ、と息を吐いたネモと、彼女の腕で輝く剣を見下ろして、ディオは困惑気味に眉を寄せる。
(ネモが剣を振った瞬間、妖魔の動きが止まった?)
ディオが再び一角獣に向き直ると、ふと、その様子に変化が表れている事に気が付いた。
半分に折られた角は、先ほどまで禍々しい紅色をしていたというのに、今は、体と同じ雪のような白さに変わっている。
訝し気に眉を寄せたディオの耳に声が届いた。
「――剣を下ろせ、人間」
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