1-③
――スコット食堂が客でごった返す時間帯がすぎて、ようやくお昼休みがとれたネモは外に出た。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、村の中を歩き出す。
ルプス村は、四方を森に囲まれている。村を横切り流れる川は、西の山々から続いている。村の一番高い所には役場があり、スコット食堂は、その役場に行く途中にあった。
どうも今日は、村全体が浮足立っているようだ。きっと、あの旅人だろう。村は、遥か北の王都からだいぶ離れている事もあって、滅多に人が訪れないからだ。
ネモより小さい子供たちが駆け回っている。ネモは、石畳の階段の途中で立ち止まり、子供たちを呼び止めた。
「こんにちは。何を持って……氷?」
「お兄さんがくれた!」「ひんやりして気持ちが良いの!」
二、三人の子供たちは、掌サイズの氷を、布越しに手の上で転がしている。
「お兄さん? 貴方たちの知らない人?」
「そう! あっちの釣り堀にいるよ!」
子供たちの知らない人、と聞いて、ネモの脳裏に青年の姿が浮かぶ。しかし、釣り堀、という言葉が彼と結びつかず、首を傾げた。
無邪気な子供たちは、役場に続く長い階段を登っていく。役場の手前には彼らの住宅地がある。その背中を見送り、ネモは疑問を浮かべたまま階段を下り始めた。
やがて、村で唯一の水車が見えてきた。あの水車の近くに釣り堀はある。
すると、三時間前に食堂を去った青年が、胡坐を掻いて、村の釣り堀で釣り糸を垂らしているのを見付けて、思わず声を掛けた。
「ディオさん、王都に行くのでは?」
ネモに気付いたディオが、淡々と言い切った。
「脱走した鶏を捕まえるところから始まり、断り切れないまま日が暮れてしまった」
事情を察した彼女は少し笑う。優しいが自由奔放な村人たちが、ディオに殺到する姿を思い浮かべた。
「あ、今日はどうするんですか? 夜の森は危険ですし、村に居た方が良いですよ」
ディオは少し悩み、
「考えていない」
と、素直に答えた。途端に、ネモが身を乗り出すような勢いで叫ぶ。
「で、でしたら! 私の家にぜひ!」
思わぬ申し出に、ディオは瞬きをした。彼女は身振り手振りで訴える。
「美味しいご飯も出せますし! 二階には、空いている部屋もあるので! ぜひ!!」
「わ、分かった。いや、ありがとう……助かる」
「はい!」
「何でそんなに嬉しそうなんだ」
ネモは笑顔を浮かべて、ディオの隣に立つ。
それにしても、随分と彼は村の皆から受け入れられたらしい。ネモは、あらためてディオの周りに視線を移した。
「どうして釣りをしているんですか?」
彼の左隣には、網籠にどっさりと入った果物や野菜があった。これはサクライさんの林檎で、これはウツツさんの人参で……と、ネモはますます首を捻る。
「ここに居た男に、代わりに釣り針を見ていてくれと頼まれた。その後に、凄い剣幕の怒鳴り声が聞こえてきたが」
「分かりました、エリンさんですね。また、奥さんを怒らせたんですよ。……釣れます?」
「うーん……」
ディオは口を閉じる。昼間、畑仕事に精を出していた村人も、日が落ちてくると帰宅する。そういった人がまばらに歩いているくらいで、場は静寂に包まれていた。聞こえてくるのは、優しい風に吹かれる木々の囁きと、規則性は無い動物たちの嘶きくらい。
ネモがディオの隣に腰を下ろしても、彼は何も言わなかった。
「平和、だな」
ポツリ、とディオは言った。
「それに、みんな笑顔だ。俺がこの村に来るまでに出会ってきた人間は、誰も笑ってはいなかった」
「そんな町や村があるんですか?」
信じられない、とネモは目を見開く。
それに対して、ディオは何も応えなかった。気まずくなってネモは話題を変える。
「あの、ところで……さっきの話の続きなんですけど……ええっと」
「……王都へ行く話か?」
「それです! 続きを聞いても良いです?」
ディオは、ピクリとも動かない水面を見詰めながら、話の続きを促す少女に息を吐いた。村は穏やかだが、その分、些か刺激は足りないだろう。例に漏れず、ネモは、他所から来た人物への関心は高いようで、目を輝かせている。
「妖精は分かるか」
「伝承の存在ですよね? 昔、人間と手を組んでいた……」
「四百年程前、この世界には妖魔と人間、そして妖精が居た。人間は妖精と力を合わせて妖魔を滅ぼして、平和な世界を作った」
それは、ネモも知っている。
「その後、妖精は人間に追い出された」
あれ? とネモは首を傾げた。だが、その違和感の正体に辿り着けない。そこで彼女は、妖精がどうして人間の前から姿を消したのか、知らない事に気が付いた。
「行き場の無い妖精は妖精界を作り出してそちらに移り住み、この世界は人間のものになった」
都合の良い歴史の改竄などよくある話だ。ディオの言葉には、不思議と納得するものがあった。隠したい記録は曖昧にされて伝承になり、細々と伝えられていく。妖精が人間界で伝承化したのもそのせいだろう。
ポチャリ、とようやく水面が揺れた。ディオはピクリと眦を上げる。
「俺が王都に行く目的は二つある。一つは、人間がどうして妖精を追い出したのかを知りたい。妖精を追い出さなければならない理由があったのかもしれない。もっとも、これは王都に行ったからといって、知る事が出来るかは分からないが……」
「王都は人が沢山集まりますし、確かに良い案です」
少なくともこんな山奥の村に居るよりは、得られる情報も多いだろう。
それにしても、ディオはまるで、妖精を見たことがあるような言い方をする。彼の話し方は、妖精側の視点だった。
「もう一つは王命だが、俺はある男と約束をした。詳しい事は話せないが……それを果たす為に、王都へ行く」
二つ目の理由は簡潔で、容易く口に出来ないのだろうとハッキリわかる。
「そうなんですね……」
ネモは、納得すると同時に、しょんぼり、と肩を落とす。ディオは旅人だ。当たり前だが永遠に村に居る訳ではない。
「……俺からも聞きたいんだが、王都について、君は詳しいか?」
王都リッシェ。ネモは、何度か訪れた事もある王都の姿を思い浮かべた。
「美味しい物が沢山あります! 出店がほぼ毎日並んでいて、ずぅっとお祭りみたいな感じなのです。誰でも自由に王都に出入りすることができるから、そんな風に賑わっているんだと思います。あ、でも、それは城下町ルビーナの事ですが……」
「王の謁見は旅人でも可能なのか?」
そう言われると、ネモは押し黙った。言いづらそうに、眉を寄せる。
「王様……いつも、お城の扉は閉じていて、私達は会えないのです。詳しい事は分からないけど」
「そう、か。……それは、直接出向いてみるしかないな」
だからといって、王が何もしない訳では無い。術士や騎士を各地に派遣し、人々の暮らしを守っているのは紛れもなく王都の人々だ。それを指揮している者は王である。そして、その執政に不満が出ないからこそ、謁見が出来ないことを不満に思わず、その理由に誰も思い当たらないのだろう。
ネモは王都リッシェについての記憶を手繰り寄せる。どうやらディオは、王様について知りたいらしい。何かないか、と考えた。
しかし浮かぶのは、出店の何が美味しかった、とか、珍しい宝石が陳列してある棚の事ばかりだ。諦めてネモはため息を吐いた。そんな彼女に、ディオは首を横に振る。
「教えてくれて助かった。自由に城下町に出入りできるなら、行く価値はある」
「は、はい! 他に何かありますか?」
「そうだな……」
ディオは、釣り竿から目を離さず、言うべき事を躊躇した。
「君は、……やはり、何でもない」
「え! 気になりますよぉ!」
結局、言葉が口を突いて出なかった。ディオは疑問を飲み下す。
――馬鹿馬鹿しい、と頭の片隅に浮かんだ思いつきを一蹴した。
ネモを見て、どこか懐かしい雰囲気を感じたなど。
その時、餌が沈んだ。グン、と水の中に引っ張られる。ディオは目を細めてリールを巻く。竿がミシリと軋んだ音を立てた。
「あっ」
二人分の声が重なった。気を抜いたつもりはなかったのに、魚が餌だけを食って逃げていく。軽くなった竿を引き上げてみれば、そこには何も無かった。
ディオは肩を竦める。
「難しいな、釣り」
無愛想に呟いた青年に、ネモは声をあげて笑った。
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