1-④

 ――世界歴1410年、妖精城。辺り一面を森で囲まれた白亜の城。月が雲に隠れたその夜は、美しい城壁を闇の中に沈めている。乏しい光が妖精城を微かに照らす一方で、跳ね橋で隔てられた城下町には、ポツポツと光が灯り、夜を楽しむ妖精たちの息遣いを感じさせた。

 ロレットから王命を告げられたディオは、すぐに実行に移した。

 夜闇に乗じて、ディオとロレットは、誰にも見られないように注意を払い、裏庭に出た。芝生を静かに踏みしめて周囲を見渡す。自分たち以外、誰もいない事を確認して、城壁を飛び降りた。

「ここ最近、過激派の暴走が酷くなっている」

 ラルド・デ・ロレット第一皇子は呟いた。その声は、波打たない水面のような平静さを保ちながらも、隠しきれない激情が浮かんでいた。

「妖精の寿命は、三百から五百歳程だ。元居た世界を追い出された体験から、人間に恨みを持っている者が多い……過激派のほとんどがそれだ。彼らの憎しみは、人間界を支配するまで収まりはしないだろう」

 妖精界は、彼らが魔術で空間を生み出し、新たに作り上げた世界だ。そうせざるを得なかったのは、妖精が、今は人間界と呼ぶかつての故郷から追い出されたからだ。身を潜めるようにして妖精界に逃げ込んだが、恨みを引き摺る者たちは多い。

「妖精王は、過激派にそそのかされたのか」

「彼らは何度も父……妖精王に、人間界の侵略を提言していた。過激派の暴走は勿論あり得るし、詳しい話は、僕にも伝わっていない」

 ロレットは悔しそうに吐き出した。ディオは眉を寄せる。

「勝算はあるのか。一度、妖精は人間に負けたんだろう?」

 ――そもそも、どうやって人間は妖精に勝ったのだろう?

 幾ら、人間が束になって掛かったとしても、果たして妖精を打ち負かす事は出来るのだろうか。

(いいや、それが出来たから、こうして妖精界が生まれた)

「勝算か……過激派の考えている事は分からないよ。奴らの言葉には根拠がない。ただ、何かに突き動かされているような、狂った意思があるだけだ。でもそこに数と権力が集まれば、もう止められない」

 だから今のうちに、ロレットは出来る限りの事をしなければならない。

 彼は、ディオに道行きが書かれた羊皮紙を差し出した。妖精城の眼下には城下町が広がっている。それらを囲う様に深い森が続いているが、その、西の森部分に丸印がつけられていた。

「この位置に、人間界へ続く路を作った。だが、僕に用意できたのは片道分だけだ」

「帰りは自分で探せ、という事か」

「勿論、父を説得し、僕も出来る限りの事はする!」

「図々しいな」

 ディオは、言葉とは裏腹に淡い笑みを浮かべた。すまない、と、ロレットも柔らかく謝り、それから表情を険しくした。

「君が文を届け、人間側の王から協力を得られれば、過激派も少しは頭が冷える筈だ。僕は、妖精王が過激派の誘いに乗り、侵略を企てた事を公表するつもりだ」

 今回の妖精王の判断は度が過ぎていた。過激派に唆されたといえ、一国の主として、袂を分かち数百年も経つ相手を、過去の因縁から侵略するなど、乱心ととらえられてもおかしくはない。

 妖精界は長い間不安定だったという。かつて妖魔たちと戦った妖精も、決して無傷とはいえず、更にそれが癒えぬうちに人間とも争った。その末に妖精界を生み出した。

 妖精は随分と数が減っていた。ここ五十年で、暮らしも落ち着き、ようやくロレット皇子のような後継ぎが産まれたのだ。安定していなかった頃の妖精界では、水が空に浮かび、地面がゴムのように弾んでいたらしい。

 ようやく手に入れた、安定した世界。妖精のほとんどは、平穏を求めている。だからロレットは考える。王とは、民の平和を守るためにあるのではないか。

「――公表すれば、父も失脚は免れないだろうな」

 これを機に、ロレットは王の座にのし上がるつもりだ。そこには既に、肉親への情など見えなかった。もうとっくに、ロレットは覚悟を決めている。

 彼の野望が垣間見えて、ディオは知らずに拳を握る。ロレットのエメラルド色の瞳は、苛烈さと危うさが入り混じった鋭い光を宿しており、ディオは目を離せなかった。

 ロレットは強い感情を言葉に乗せて、ディオに告げる。

「戦争はすべきではない。ディオ、頼む」

「分かっている」

 これは王命だ。近い将来、王となる親友との約束だった。

自分が果たすべき役割を胸に刻み、ディオはロレットと別れた。


 だが、ロレットの地図通りに進んでいると、突如、五、六人の妖精の襲撃を受けた。当然、それが、人間を憎む者たち――過激派であることは一瞬で見抜いた。何とか応戦するも、ディオ一人で倒しきれる人数ではなかった。

 真夜中の森の中で、幾つもの光が浮かんでは爆発する。魔術で導かれた風が、騒がしく木々を揺らし、或いはクレーターのような穴を作っていく。

 その爆風に背を押されるようにして、ディオは駆けていた。

「チッ、油断した!」

 悪態をつきながら、ディオは傷ついた腹を押さえた。ドクドクと溢れる血が掌に張り付く。痛みに歯を食いしばると、立ち止まりそうになる足を叱咤して、目的の場所へ向かう。

「ここ、か?」

 ディオは、荒い息を吐きながら、チラリと地図を見た。ロレットが指し示した地点に差し掛かると、ブーツの底から頭のてっぺんに掛けて、軽い電撃のようなものが走った。

 脈打つような魔力を感知する。その場に満ちた空気は息苦しい程だ。

 羊皮紙がひとりでに宙を浮いて、黄金色の輝きを放つ。人が一人通れるくらいの、ぽっかりとした空間が生まれた。空間は、底知れない暗い穴のようになっている。

 一瞬、ディオは呆けたように見詰めていたが、足音や怒号に我に返る。

「まだ安定していないのに……!」

 術の安定には時間が掛かるのだろう。浮かび上がった紋章は、時が経つと色づいていく。完璧ではないそれを見ながら、迫ってくる炎の槍を、ディオは咄嗟に氷の障壁で受け流す。

 その障壁を破り、切っ先は彼の頬を切り裂いた。

「迷っている時間は無いな……くそっ!」

 不安定な術式に、ディオは身を投げ出す。後ろで過激派が喚き、その音は遠くなっていく。


 そして、ディオが次に目を覚ました時……そこは、確かに人間界ではあったが、全てが終わり、変わってしまった人間界だった。

 彼が居た時代より8年後。世界歴1418年。

 人間界は、妖精に支配されていた。

 そしてそれは、フィラと別れる1421年より、3年前の事であった。

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