3-⑪
一方で、レグイスはヒエンの炎を払いのけながら、ほとんど理性を失いつつあった。
男の意識は、まだ半分だけ残っていた。胸の奥から湧いてくる激情に身を焼かれそうになる。火炎をもたらす妖魔と、人間。――忌々しい、人間。
四百年前から、レグイスは人間という種族が嫌いだった。戦う力は弱い癖に、細々と生きている種族。そんな人間と手を組むという話を聞いて、反対した。
『必要な事よ』
レグイスが協力関係に反対しても、今や妖精界で伝わる英雄、アデリナは頑としてそれを覆そうとしなかった。妖精たちは、人間と手を組んだところで“奪われるものなどない”と思っていたから、レグイス程強く反発する者は居なかった。
(その結果、人間は……アデリナを殺した)
人間などという、矮小な種族に奪われるものなんて、何も無いと思っていたのに。
世界を妖精だけのものにして、それ以外の種族を配下とする。人間を利用する。レグイスには、人間に肩入れする妖精の気持ちが分からない。
――それは同胞よりも大切なのか。
アデリナが人間に殺された時。ほら、見た事か。……人間を信じるからだ、と。
レグイスは思わずにはいられなかった。
「哀れよなぁ」
ヒエンがどこか冷ややかに言い紡いで腕を組む。レグイスが両手剣を振り払っても、ヒエンの目の前で霧散した。彼女の前に張られた透明な障壁に罅が入る。
「我々は――妖魔は、同胞であろうと他と交わらぬ。それは、己が力に誇りを持ち、個であることこそが強いと慢心していたからだ。一方で、汝ら、妖精や人間は……繋がり合うことで身を守る。戦う。そういう生き方が似ていたから、魔術師アデリナは『人間となら手を取り合える』と思ったのではないか?」
『そう、貴方は私の言葉に耳を傾けてくださるのですね』
かつて、ヒエンに言い放った妖精の魔術師が居た。傷を負わせ、けれど、トドメは差していなかった妖精だ。その後、ヒエンは傷を癒す為に狐里雲へ向かい、妖精の女は悲しそうにつぶやいた。
『みんなが、そうして争いを避けてくれればいいのに』
「妖魔が大人しくなった? 違うな、少なくとも余は汝らに託したのだ」
四百年前から生き延びた妖魔たちは、ほとんどが人間と妖精から離れ、ひっそりと生きることにした。個で生きる自分達と異なる生き物が創り出す世界を、見守るためだと言っても良い、機が訪れれば牙を立てるためだとも。
「汝らが紡ぐ世界で生きると決めたのだ。だというのに、それを汝ら自身が乱そうとする。まったく、哀れじゃよ」
レグイスの体を炎の柱が閉じ込める。何度も何度も彼は焼かれた。ヒエンは、己の“尾”を払い、ようやく膝を折った男を見下ろす。
「どれだけ偉大な戦士だろうと、足元を掬われる」
炎と砂嵐。熱と暴風。その中心に両膝をついたレグイスは、立ち上がろうとする。しかし出来なかった。既に腹のあたりまで、目を見張る速さで氷に覆われていた。
一言も発さず、静かに、ディオは氷で固めた地面の上に立っている。その氷の足場に何の不自由はなく、彼はレグイスの首へ切っ先を向ける。
レグイスは、怨嗟の声をあげた。
「人間……! 貴様が、貴様さえいなければ! この世界は! 我々は!」
レグイスは喚き散らしながら、ディオの澄んだ瞳を見詰めた。
その瞳は――曇りない。先を見据え、怒りに燃えるのでもなく、冷え冷えとしているわけでもない。何の揺らぎもなく、ただ、斬るべきものを見ていた。
ディオは剣を持つ腕を振る寸前、浅く白い息を吐いた。
*
ネモは、ディオに頼まれた通りに、子供達を街へ送り届け騎士に事情を話した。そして、彼らの足並みがそろうのを待たずに、また元の道を戻り始めた。
ディオやヒエンが心配だ。勿論、彼らが強い事は知っている。
(でも、ディオさんはすぐに無茶をするから!)
もしも怪我をしていたら。……大蛇との一件で火傷を負ったとき、ネモは心臓をギュッと掴まれたような心地になった。あのヒヤリとした感覚を振り払うように、懸命に足を動かす。戻ってみれば、既に戦闘は終わっていた。
ディオはどこも怪我をした様子が無く、彼女はホッと安堵の息を漏らす。
そうして、視線を……倒れ伏すレグイスへ向けた。その体は半分以上が地面に呑み込まれるようにして沈んでいた。どころか、肉体は砂のように、サラサラと崩れ始めている。
「ネモ、戻ってきたのか?」
ディオがネモに気が付き、驚いたように目を見開く。彼女は頷いて彼らに駆け寄る。レグイスはまだ息があった。
「急所は突いた。……もう元の姿に戻れないのなら、ここで仕留めるべきだ」
その方が苦しみは長引かない。
「この方も……妖精の呪いの被害者ですか?」
「……それは」
「どうだろうなぁ?」
言い淀んだディオを引き継ぐように、ヒエンが言う。不思議そうにするネモに、ディオは提案した。
「宝剣ならば、妖精の呪いを払えるかもしれない」
「え?」
「人間界の王がそう言った。俺もそうあって欲しいと思う」
ネモは、攫われた間も片時も離さなかった宝剣を取り出した。
レグイスが、濁った両目で忌々し気にネモを見上げている。……妖精と人間の区別も、もうついていないのだろうか? 或いは、ネモの肩越しにディオを睨みつけているのかもしれなかった。
宝剣の細身の刀身が光を帯びる。暗い辺りを照らす、鮮烈な光を纏って、ネモはレグイスに近付いた。両手で握りしめた宝剣を、頭の上に掲げて、ゆっくりと振り下ろす。
その先端がレグイスに触れる。
光は膨れ上がった。ネモは、瀕死の体から、空に昇るようにして暗い靄が溶けていく様子を見たが、不思議と、手ごたえは感じない。
「効いてない……?」
「危ない!」
ふいに、レグイスの体が跳ねた。喉の奥から声を振り絞り、半ば程まで折れている剣を突き出してくるが、圧倒的に距離が足りない。ディオに後ろから腕を引かれても、ネモは彼から迸る憎しみに気圧されて、目を離せなかった。
今のが彼の最後の力だったのだろう。再び、その体が砂に沈むと、もうピクリとも動かなくなった。
「……妖精の呪いは、たぶん、払えたと思うのです。なのに……」
「宝剣で妖精の呪いを払えるという、人間界の王の話に間違いが無いのなら、可能性はふたつ。一つ目は、宝剣では払えないところまで呪いに浸食され、もう奴が手遅れだったから。二つ目は……」
ディオは、目を細めて推測を続ける。
「呪いなど関係ない……あの男は自分の意思で、人間を憎み、呪い……怒りをぶつけてきたのか」
気落ちするなと、ディオはネモの肩を叩いた。
「救えたら良いなと思いました。妖精の呪いで、彼らが変わってしまったなら、それを除けば」
あんな、人間を、人間の世界を最後まで憎むようにして亡くなることはないだろうと。
だが結局、レグイスは宝剣では救えない存在だった。むしろ彼女は、レグイスに引導を渡してしまったようなものだ。
「やり方は違っても、ディオさんとこの方の、妖精を守りたい想いは一緒だったのに……」
「……そうだな」
妖精の呪いさえ払えば、ディオの苦しみを少しでも取り除けると思っていた。
ネモは、目の前の光景を忘れないようにと焼き付けながら、ため息をついた。
術士が死ぬと、魔術で歪んでいた地面は元の硬さを取り戻した。
(妖精兵は……騎士に任せよう)
ディオが憔悴しきった様子の妖精兵たちを見て思う。そのとき、慌ただしい複数の足音が近付いてきた。顔を伏せて物憂げな様子だったネモは、あ、と声をあげる。
「……きっと騎士の皆さんですね。こっちです!」
ネモは、見えてきた人影に叫んで、ディオの側を離れていく。入れ替わりにヒエンが彼に近寄った。
「今なら汝は教えてくれるかのぅ。――汝にとって、ネモとはなんだ?」
その問いは、王都へ着く直前に答えられなかったものだ。その意味が今なら分かる。
ディオにとって、妖精とは、人間とは何なのか。妖精界で過ごしていた頃、人間だからと、冷ややかな目を向けられる事は多かった。それは、彼らの境遇を考えれば仕方ないことかもしれないと、昔はそう考えていた。でも、だからこそ。
ルプス村でネモを見た時からとっくに気付いていたのだろう。彼女が、人間に愛されている姿を見た時から。
「俺の願いそのもの、だな。……妖精だろうと関係ない。種族で分けず、隔たりなく、困っていたら手を伸ばす。助けたいと思う。……そういう、世界になれば良いと思うよ」
王都の空では、パレードの終わりを告げるように、空に色とりどりな魔術の火花が散っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます