3-⑩

「いつまでたっても荷物が来ないと思い、来てみれば。何を手間取っている」

 撫でるなんて、生易しいものではない。対象を捉えきれなかった風の刃は、地面を深くえぐっていた。

 妖精界に通じる路から、背中に両手剣を括りつけた大柄な男が現れた。無精ひげが目立つ彫が深い顔。両目は濁った紺色をしている。男は鈍色の鎧を着ていた。それには幾つもの傷が残っており、歴戦を潜り抜けた象徴のようだ。

「レグイス様……」

 歓喜を滲ませ、妖精兵が男の名を呼ぶ。

(四百年前、両手剣一つで妖魔の大軍を切り伏せ、妖精を救った男……)

 ディオは警戒を緩めず、レグイスを睨みつけた。面識はある。妖精界に居た頃、この男は、ロレットの父――一世代前の妖精王の重鎮だった。

(だが、レグイスは人間を嫌う、過激派側の男だった)

 現に今も、その鋭い双眸は、人間のディオを見下すようにしていた。

「見覚えがあるな。……そうか、思い出したぞ。貴様は以前、妖精城に出入りしていた人間だろう。ハハッ、まさか――生き延びていたとは」

「それは俺が人間界に向かった、あの夜の事を言っているのか?」

「そうだ。悪運が強い奴だ。ここで再会したのも含めてな」

 レグイスはまだ、両手剣に手を掛けようとしない。魔術には、ディオのように氷を剣の形にするものから、単に鋼や鉄の物質へ付与するものまである。レグイスは後者だ。

「……この件は、ロレットの指示だと聞いた」

 ディオは会話を引き延ばす。男の後ろには、荷台に積まれたネモや子供たちが居た。ヒエンも注意深く警戒し彼らを移動させようと試みている。戦闘に巻き込む訳にはいかない。

「いったい、妖精界で何が起きて」

「何故それを貴様に言わねばならん、裏切り者よ」

 ディオは目を見開いた。レグイスが両手剣を抜く。それと同時に、

 ――荷台の上空に、巨大な岩石が生まれていた。

 駆けつける余裕も、声をあげる暇もなく。その岩石が、荷台に向かって落下する。

「待て‼」

 ディオがようやく叫んだときには、荷台の上に岩石が降り注いでいた。その一部始終を呆然と見つめる。

「ディオ・ローゼン。貴様はロレット様の……王の唯一の人間の友であった。にも関わらず、こうして王の命を邪魔立てするばかりか、忌々しき妖魔も連れている。……ハハッ」

「……ッ、何が、おかしい?!」

 ディオは唇を噛み締めて、目の前の男を睨みつけた。沸々と煮えたぎる怒りのままに叫ぶと、レグイスは愉快そうに肩を揺らしている。

「人間などと友情を育むから……いつか、こうなると思っていたのだ。何故、ロレット王が変わられてしまったのか? 愚問だな、変わられたのではない、正気になったのだ。我々妖精の本能を思い出したのだ」

 熱を帯びながら口走るレグイスの屈強な肉体が、何か内側から押されているかのように、ボコリと膨らんだ。両手足が膨らみ、その体が作り変えられていく。

「人間と親しくなる必要は無い。人間を妖精界へ連れていくのも、それを同胞に広く知らしめるためだ……やつらへの怒りを吐き出さなければ、我らは生きていけぬ!」

「とんでもない八つ当たりだな! ……くそっ、なんだこれは!」

 悪態をつきながら状況を分析する。肉体の変貌。何らかの魔術か? だが、それにしては、レグイスの焦点が合わない両目が気になった。そこに理性は殆どない。うわ言のように人間への憎しみを連ねる。

 レグイスの体は、今や、元の長身から一回りも大きくなっていた。流石に、大蛇の巨大さには敵わないが、二本足で立つ男の全長は、三メートル近くあるのではないか。

「れ、レグイス、様……?! 一体これは……うわぁ!」

「魔術で、地面が!」

 固唾を飲んでやり取りを見ていた妖精兵たちの口から、次々と悲鳴が上がった。ディオによって凍らされた半身。その部分ごと、彼らは地面へ引き摺りこまれていく。

 いつの間にか、周辺の地面が柔くなり、ズズズ、と音を立て沈み始めていた。

「チッ……!」

 ディオはレグイスを挟んで向こう側に居る妖精兵へ手を伸ばした。自身が彼等に掛けた魔術を通じ、氷の規模を広くする。氷柱が幾つも生まれて、それに縋るようにして、妖精兵たちは辛くも脱出した。

(まだ、ネモや子供たちが……!)

 岩石の下に埋もれている、だが、目を凝らしてもどこにも彼女たちの姿はない。

 ――何故?

 その疑問に答えた声は、空中から降ってきた。

「騒々しくて敵わんなぁ」

 普段より低く響いた、呟き。ディオが見上げれば、目の前を美しい――半透明な赤い蝶が遮った。その無数の蝶たちは、妖精兵を引っ張り上げ、空に吊るしている。

 見れば、近くに子供の姿があった。

 ディオは彼らの無事を認めて息を呑む。その、直後。

「――確かに下ろして欲しい、って言いましたけど落とさないでください! うわぁっ!」

「なっ……」

 絶叫と共に、上から少女が降ってくる。ディオは握りしめていた氷の片手剣を捨て、彼女の体を抱き留めた。

 ぬかるんだような足元でバランスを崩し、倒れそうになるのを何とか踏みとどまる。腕の中の少女と、目が合う。

「……ネモ」

「ディオさん! 見ました、今の?! ヒエンさんってば、私を」

 空から落として、と続けようとした彼女は、口を噤んだ。ディオが、安堵やら怒りやらで、何とも言えない表情を浮かべていたからだ。

「言いたいことは沢山あるが……無事でよかった」

 ひとりで勝手に宿を飛び出した。そして、彼に心配を掛けた。ネモは、つい先ほどあの荷台で目覚めたばかりだから経緯がまったく分からない。それでも、ディオが噛み締めるような口調で、良かった、と繰り返すのを見ると、何だか泣きたくなった。

「だが、どうやってあの状況で……」

 荷台は岩石に埋もれていた。ネモは、ヒエンさんが、と口にする。

「空間の裂け目? のようなところに押し込まれたんです」

 狐里雲で行動していたとき、ディオ達は何度か、神出鬼没なヒエンの姿を見ていた。彼女はディオには認識出来ない空間の狭間を通り、ああいった芸当をこなしていた。今回もヒエンが機転を利かせてくれなければ、ネモも子供も助からなかっただろう。

「呑気に歓談をしている場合か、人の子よ」

 蝶が群がり、ヒエンの足場を固める事で浮遊したまま。彼女の方へ目を向ける。

「なんだあの妖精は」

 レグイスの姿は、ディオにとっても見慣れないものになっていた。この地面も彼が得意とする地属性の魔術によるものだろうが、仲間の妖精を巻き込んでいた。

「まるで暴走しているかのような……」

「もしかして、妖精の呪いですか」

 表情を強張らせたネモが呟く。すると。

 ヒエンが、違う、と首を横に振った。

「ああ、違うよ汝ら。余が問うておるのは、そこではない。あやつは言うなれば、理性無き怪物になりつつある妖精じゃ。限界まで呪いに蝕まれた者は、理性を失い正気では無くなる……そんなもの、よくある話じゃよ」

 ディオとネモは互いに怪訝そうな、不思議そうな顔をした。

 ――ヒエンの肩に掛かるストールが風で翻る。

「あの妖精は、余の“お気に入り”を埋めようとした。まったく、許せんのぅ。たかだが四百年程度しか生きておらん若造が」

「……ヒエンって一体どれだけ」

 シッ、とネモが慌ててディオに向かって、首を横に振った。成程、確かに。ディオは頷いて、話題を変える。

「まさか、それでさっきから怒っているのか……」

「これって、私は喜んで良いのでしょうか?」

「良いんじゃないか」

 ディオは、レグイスを睨みつけながら少しずつ後退する。

 魔術の影響を受けていない地面まで遠のいて、ネモを下ろす。そこには、ヒエンによって救われた子供達もいた。

「俺はあの男を何とかする。ネモは子供達と街に戻って、何人か騎士を呼んできて欲しい」

 指示を出したディオが一歩踏み出そうとしたとき、ネモがその腕を掴んで引き留めた。

「待ってください! ディオさん、あの人は……妖精ですよ……」

 ネモの言葉にディオは目を見張った。昨日までの彼女なら、決して口にしなかったであろう言葉だ。ディオは数時間前、彼女がどんな心的体験をしたかを知らない。

 しかし、今の彼女は身も心も妖精であることはしっかりと感じ取った。

「確かに、君にとっては同胞だが……」

「ディオさんは違うんですか?」

 思わぬ言葉に意表を突かれる。ネモは畳みかけるように続けた。

「私は妖精です。でも、ルプス村のみんな……お母さん……人間が、大切だって思います。ディオさんにとって、妖精は切り捨てて良いものなんですか? だって、ディオさんは妖精界を守るために。妖精のみんなを、守りたいからここまで旅をしてきたんですよね」

 ――裏切り者。

 レグイスの冷ややかな声が蘇る。妖精界での妖精王の立場は絶対だ。今、ロレットがその玉座に居るというならば、彼の友として、彼の騎士として、支えなければならない。それが、ディオがロレットへ返す信頼の証だ。

 ロレットが指示し、許した行為を否定する。確かに裏切り者と言われても仕方がない。

「どうして、戦うんですか……?」

 この局面において。いつ、レグイスが斬りかかってくるかも分からない状況下でなお、ネモは傷ついて欲しくない、と思う。レグイスも、ディオも。妖精も人間も。

 ここで、ディオがレグイスと戦う理由はあるのだろうか。ヒエンのように一時の怒りに身を委ねられるのならば良い。

「戦う、理由は」

 少し待てば、異変を察して城から騎士や術士が派遣されることだろう。大蛇や一角獣の一件と異なり、王都から目と鼻の先なのだ。

 ディオが、守りたいと思う妖精たちに牙を剥いてまで、これ以上傷つく必要は無い。

「……戦う理由はある」

 でも、ディオはこの役目を譲れない。

「俺はロレットの親友だ。あいつの間違いを正すのは……友として、果たさねばならないことだ」

 噛みしめるように言葉を紡ぐ。ネモが瞬きもせずに彼を見上げ、耳を傾けている。

「平和を求めていたロレットの夢を叶えたい。戦争が起きないように。人間と妖精が争う事が無いように」

 たとえ、それが、遠い理想だとしても。

「そのために、俺は俺の出来る事をする」

 自分が果たすべき王命。ディオにとって大切な妖精と人間、ふたつの種族が、争いなく平和に生きること。

 言い切ってから、ネモが満足のいく答えになっただろうか、と不安になった。少女の柔らかい手を振り払おうと思えば容易くできた。だがそうしたところで何の意味があるのだろう。

「そっか。ディオさんの旅は、まだ終わりじゃないんですね」

 ネモの呟きに、ディオは腑に落ちた表情で頷いた。

「引き留めてすみません! 私は子供達を連れてルビーナへ戻りますね。騎士の皆さんに事情を説明してきます」

「ああ、頼む」

 子供達は、ヒエンの蝶に囲われて不安そうな表情を浮かべていた。泣き出す子も居たが、ネモは優しく声を掛ける。彼女を信用して、ディオは氷の剣を握り直した。

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