君と11年分の約束を果たすまで

蒼葉

プロローグ

 昼夜問わず紅色の空と、そこに生まれた得体の知れない黒い大穴。1421年に現れた大穴は、日が経つにつれ少しずつ広がっていくようにみえた。

 暮らしてきた小さな集落からほど近い、丘の上から見える景色だ。周りには俺とフィラ以外誰もいない。

「ディオ、緊張してる?」

「それなりに、な」

 俺達の目の前には、『世界の滅び』をまるで一枚の絵にしたかのような凄惨な光景が広がっている。人間と妖精という異なる種族が争う声、飛び交う魔術と、風に乗って聞こえてくる誰かの悲鳴。


 世界歴1411年――この人間界で暮らす人間は、隣接する妖精界から妖精に侵略されて、彼らに世界を奪われた。妖精の力は人間を遥かに上回っていて、瞬く間に、この地で人間が四百年も紡いできた歴史は書き換えられた。

 妖精は、この地で生きていた人間を支配し、虐げ、奴隷のように扱った。

 やがて10年余りの月日が流れ、1421年のある日。何の前触れもなく、空は赤く染まり、王都の上空には得体の知れない大穴が生まれた。それだけならまだしも、突然、王都を中心に、多くの人間が何かに突き動かされるように武器を手に取り、妖精に抵抗を始めた。


 人間の反逆は、いくら妖精に虐げられていたからといって、同じ人間の俺から見ても突拍子も無いことだった。争いは止まらず、王都は戦禍に包まれた。

  ――どうしてこの世界は終わってしまうのだろう。

 見晴らしの良い丘の上から見える景色は地獄だった。森のあちこちで火の手が上がる。妖精が放つ魔術が遠くで爆発した。そういった光景を目に焼き付け、記憶する。

 人間の隷属化、土地の開拓等あれど……少なくとも、文明が進歩し、繁栄した世界だった。

 何か原因がある筈だ。赤い空、黒い穴。それとも別の……。

「フィラ、本当に俺は過去へ飛べるんだな」

「ええ。これから、貴方を今から11年前の、1410年に飛ばす」

 まだ妖精が人間界へ侵略していない時代だ。

 俺は過去の世界で――1410年にやり残してしまった使命がある。

 俺が果たし損ねた使命と、目の前の惨状が繋がるかは定かではない。それでも、一縷の希望があるならば、縋るほかない。

 フィラは血が出るほど唇を噛んだまま俯いた。

「私も一緒に行きたい。でも、……」

「分かってる」

 この数日、フィラは魔術で自分自身が時空を越えようとして果たせず、心身ともに疲れ果てていることを。

 この空になってから、妖精たちは見えない糸でこの世界に縫い付けられたように。時空を超えることができなくなってしまっている。

 だから、妖精のフィラではなく……人間の俺だけが過去へ向かう。

「その気持ちだけで充分だ。俺は独りでもやりとげてみせる」

 そう言ってフィラの肩を抱こうとすると、彼女は一歩後ずさり、涙を隠すように横を向いたまま空をまさぐった。

 すると、一本の抜身の剣が姿を現した。片手で握るように作られた柄には微細な銀の細工が施されているが、その細い刀身には赤錆がこびりついている。お世辞にも手入れが行き届いているとはいえないのに、見ているだけで力が湧いてくるような不思議な威厳を湛えた剣であった。

「これは?」

「あなたを過去に送るには、私ひとりの魔力では無理。だからこの宝剣の力を借りるの。この剣には何百人もの妖精の魔力に匹敵するほどの力が蓄えられているから」

「そんな凄いものが……」

 どうやって、と訊きかけた俺を遮って、フィラは涙の滲んだ翡翠色の瞳で俺を見つめた。

 彼女はなにか大切なことを隠している。

 しかし泣きながら懸命に微笑しようとするフィラに、これ以上きつい言葉をかけられるはずがない。俺は何も言えずに口を閉じた。

 そのとき、少し強い風が吹いて、フィラの首からさげている指輪が揺れた。

「ディオ、忘れないで。貴方はこれから一度は履行できなかった責務を果たしに行くの。その決断を間違いなんて思わないでね。……この世界を、私を愛してくれてありがとう」

「フィラ、俺は」

 君を置いて行きたくない。過去に戻るということは、目の前の彼女を失うことを意味する。何度も、他に選択肢や手段はないか、と考えた。彼女と共に、この世界の最期を共にすることも、だけど。

「貴方がずっと、後悔していたことは知ってる」

 彼女と添い遂げることと同じくらい、まだ、胸の内に燻っていた未練があった。

「だからね、私は貴方の願いを叶えたいの」

 自分を選ばないで、と彼女の真摯な瞳が告げていた。

「……君は、一度言ったら聞かないからな」

 俺は苦笑して、……悩むのはやめた。

ただ忘れないでいようと思う。これから先、何があろうと、目の前にいる彼女を愛したこと。自分が彼女ではなくて、世界を選んだこと。

 フィラは宝剣を大事に抱えながら囁いた。

「ねぇ、約束をしてくれる?」

「何をだ?」


「私達、絶対にもう一度会いましょう」

 

 俺は一瞬だけ戸惑った。けれど、彼女が目を逸らさず、真っ直ぐに自分を見上げる姿に、返す言葉はひとつしかなかった。

「……分かった。約束だ」

 噛み締めるように言葉を紡げば、フィラは、俺が大好きな笑顔を浮かべた。

 いつものように優しく、俺の背中を押してくれる。

「行ってらっしゃい」


 ディオ・ローゼンは過去へ飛ぶ。時空移動は二度目だった。

 俺の“本当”の時代へ。11年前の、1410年へ……その時代に成さねばならなかった使命を今度こそ果たすために。

道が開く。空間が捻じれ、自分の存在さえも捻じ曲げられるような感覚がする。

 世界の終わりが、遠くなり、その中に浮かんだ彼女の姿も霞んでいく。

 ……そうして、何も、無くなった。

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