第一章 旅の始まり

1-①

 ――世界歴千年前後。正確な年数は不明。世界は混沌の真っただ中にあった。

 飛竜が空を飛び、水魚が泉を穢す。巨大な虎は地を蹴り、あらゆる生物を惑わす狐が狩りをした。弱肉強食の世界において、人間は弱く、けれど強かでもあった。ほとんどの人間は魔力を操ることができず、粗末な武器で戦う事しかできない。けれど知恵を巡らし、たくみに言葉を操る事ができた。彼らは魔術に長けた妖精と手を組み――或いは、妖精が人間の知恵を得るために手を組み生き延びた。人間と妖精は一つの集団となり、瞬く間に世界の支配者へと昇りつめた。

 いつしか、飛竜も水魚も、白虎も白銀の狐も姿を消した。人間と妖精は彼らをひとまとめに『妖魔』と呼んだ。

 世界は人間と妖精、そして生き残りの妖魔の三種族で構成されていた。

 けれど、忘れてはならない。

 人間は、我々妖精を裏切った邪悪な種族だ。

              ――妖精界記録本 項目:人間について より一部抜粋


 *


 ルプス村は自然に恵まれた豊かな村だ。農作物は良く育ち、みずみずしく甘い果実が出来る。

 村唯一の大きな食堂、スコット食堂は、今日も忙しい昼時を迎えていた。

「注文良いですか?」

「はぁい、ただいま!」

 味が良い、料理もボリュームがある。スコット食堂を訪れる人々が絶えないのは、全ての料理を美味しく仕上げるオーナーと、彼女の娘であるウェイトレスの少女が居るからだった。

 少女はネモ・スコットという。身長は、畑仕事をする男たちの胸の辺りまでしかない。艶が掛かった桃色の髪を、ポニーテールで高く括り、元気に走り回っている。若さ溢れる彼女の姿に、村人は元気を貰っているくらいだった。

「ネモちゃん、今日も元気だねぇ」

 妙齢の男性に孫を見るような目で言われて、ネモは照れ笑いを浮かべた。

 食堂は北側に四席、南側に二席とテーブル席があったが、そのうち五つが埋まっている。お昼のピークの半ばに差し掛かり、空いている席を探す方が難しくなった。

 また木製の扉が開いて、呼び鈴がカランと鳴る。

「邪魔をする」

 村では見慣れない青年が立っていた。歳は二十歳前後だろうか。うねりを持つ短い黒髪が肩の上で揺れている。固めのブーツに、薄汚れた外套を纏っていた。

 青年が現れると、食堂内はかすかな緊張感に包まれた。同時に、客は顔を見合わす。

 村の規模は大して大きくはない。スコット食堂は、確かに村一番の食事処だが、他所の客は滅多に来ない。だから余計に青年は視線を集めていた。

「いらっしゃいませ! どうぞ、あっちのお席へ!」

 ネモは明るい声で入り口近くの窓際の席をすすめ、彼の元へ駆け寄る。

 青年の髪には、つむじから流れるような青のインナーカラーが走っていた。彼が座ると、年季の入った木製の椅子がギシリと音を立てる。

「……オススメは、鶏肉とほうれん草のソテーですよ!」

 机に置かれたネモ手製のメニュー表を開いて、少し考え込む青年へ言う。

「じゃあ、それで」

 ――笑わない人だなぁ。ネモは、青年の少しも上がらない口角を見て思う。けれどそれが、冷ややかかと言われればそうではない。村人の刺すような空気感を思えば、その反応は当たり前だろうか。

 簡潔なやり取りをしてネモがその場を離れると、一人の客に呼び止められた。

「あの人、お金は持ってるのかな」

「そうねぇ、この村に旅人さんが寄るなんて珍しいし」「服もちょっと汚れてるしなぁ」

 次々と、村人は青年に届かぬように囁く。ネモは眉尻を下げて、小さくため息をついた。

「もう、外の人のこと、そんなふうに言っちゃ駄目ですよ」

 注文をオーナーへ告げてしばらくして出来た料理を受け取ると、さっそく青年の元へ届ける。

(美味しい、って言ってくれたら嬉しいな。私も大好きな料理だもん)

 そんな風にネモが思っていると。

「……良い匂いだな」

 運ばれた料理を見て、青年は呟いた。ほんのわずかに唇の端を持ち上げて……

 ――優しい微笑みだった。

 その時、ネモは言いようのない感情の波に襲われた。この人の事が知りたい、話してみたい。衝動に突き動かされて声をあげていた。感情と言葉が上手く結びつかないまま飛び出した。

「おっ……お名前! お名前を教えてくれませんか!」

 は、と青年が、その青い海のような色の瞳を丸く見開いた。


 ディオ・ローゼンは困惑していた。食事のために立ち寄ったルプス村の食堂で、彼の前には、目を輝かせた愛らしい少女がいる。

(うん……? どこかで……)

 その姿に既視感を覚えた。桃色の髪。瞳は若草色で、間近で見詰めると、一度見たら忘れられないような輪がくっきりと浮かんでいる。そんな瞳を持つ少女に覚えはない。

(気のせい、か)

 一瞬の思考をかき消す。とにかく、よく分からないが少女に返事をしなければ。

「ディオ・ローゼンだ」

「ディオさん! 素敵な名前です! 私、ネモと言います!」

 身を乗り出して少女が名乗った。思わずディオは目を細めた。その明るさはまるで太陽のような眩しさがあったからだ。ディオがこの食堂に入ったときに感じた、胡乱気に思う視線とか、空気が、一瞬で掻き消える。

 知らずと、肩の力が抜ける。

「ディオさんは旅人なんですか? どこから来たんですか?」

「こら、ネモ?! 何をしているの」

 厨房の方から、オーナーであろう女性の声が飛んでくる。すると、ネモは大きく肩を揺らして、亀のように首を竦めた。

 ネモは厨房に向かいながら、バツが悪そうな表情を浮かべ、何度もディオの方を振り向いた。食堂内の視線と比べ物にならないくらい、その視線が強く突き刺さってくる。

 ディオは、彼女の心中を察して、小さく息を吐いた。

「味わって食べているから……」

「……! どうぞ、ごゆっくり!」

 意図は伝わったらしい。ネモは小躍りでもしそうな快適なステップで、厨房へと消えていった。ポニーテールがまるで動物の尻尾のように揺れるのは、どこか微笑ましい光景だった。


 出された料理は美味しかった。良く煮込まれた柔らかい鶏肉に、しっかりとした歯ごたえがある野菜。スープは濃くも薄くも無く、添えられていたミルクをパンに浸せば、また二重で楽しめた。

 ……もっとも、欠点はあった。キノコが入っている。……少し食べて、残りは申し訳ないが、とお皿の隅に寄せることにした。

「あれ、ディオさんはキノコ、お嫌いですか?」

 少女の声がして、彼は顔を上げた。

 元々、ディオが食堂に入った時間は昼過ぎだった。賑わいを見せ、ディオの入店にざわめいていた村の人々も、ほぼ散っている。よほど警戒しているのか、こちらを何度も見られた。

 そして時間ができたところで自分の昼食をとるらしく、ネモは、白銀の盆に少量の野菜スープとパンを乗せて、ディオの前の席に座った。

「好き嫌いすると大きくなれない、って、お母さんはよく言います」

「君は嫌いなものは無いのか」

「……勿論です!」

 間があった。コホン、とネモはわざとらしい咳ばらいをする。

「この後、今度は東の畑のおじさん達がいっぱい来るのですよ。だから、私は今のうちに腹ごしらえです。お昼休憩だから、ディオさんとこうしてお話をするのはセーフなんです!」

「凄い勢いで言い訳をするな、君」

 ネモは上唇を舐めて、いただきます、と手を合わせた。

 食べ終えたばかりだというのに、少し濃いめの色をしたスープから漂う香りは、ディオの食欲をそそった。誘惑を振り払う様に首を一つ横に振って彼女に問う。

「それで。俺に何か話したいことでも?」

 ネモは、口の中の物を飲み込んでから目を輝かせた。

「ディオさんはどこから来たんですか?」

「……遠い所から」

 少し間を置いて、言葉を選ぶ。

「王都へ行くんだ。その途中で立ち寄った」

 王都リッシェまでの道のりを、ディオはあまり把握していない。だが、雲を突くような山脈を超えた先だと聞いている。ネモは、目を丸くして、それから首を傾げた。

「その、どうして?」

 王都は華やかな場所だ。城下町ルビーナは、常に祭りが絶えないという話もあるほど、各地から人々が集まる。この世界で最も栄えている場所である。商人ならば商いの為と分かるが、彼は旅人のようだった。何か理由があって旅をしているのだろう。

 ディオは、目を伏せて呟いた。

「王命を、果たしに」

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