その34「レース当日と装鞍」




 話を終え、リリスはヒナタの部屋を出た。



 そして、同じ階に有る自室に帰還した。



 部屋に入ると、2つ有るベッドの片方に、ニャツキの姿が有った。



「あっ。お姉さま」



「…………」



「お戻りになられていたんですね」



 リリスはニャツキに微笑みかけた。



 だが、ニャツキの反応は鈍い。



「……まあ」



「……お姉さま?」



「何か?」



「……いえ」



(キタカゼ=ヒナタに言われたこと、


 まだ気にしているんですね)



 ニャツキの暗さの理由を、リリスはそう解釈した。



 そのとき、ニャツキがリリスに質問をしてきた。



「リリスさん。


 あなたはどこへ行っていたのですか?


 ……こんな時間に」



「ええと……」



(今はあの人の名前を


 出さない方が良いかもしれませんね)



 ニャツキが落ち込んでいるのは、きっとヒナタのせいだ。



 そう推測しているリリスは、ヒナタの名前を出さないことに決めた。



 それでこう答えた。



「ちょっと人に会いに行ってました」



「人に?」



「はい。人に」



「そうですか。人に……」



(暗い……)



 ニャツキはずっと、どんよりとしたオーラを放っていた。



 雰囲気を変えたいと思ったリリスは、次のように提案をした。



「そうだ!


 一緒にお風呂に入りませんか?


 お背中をお流ししますよ」



「えっ。それは……」



「いけませんか?」



「1人の方が落ち着くので」



「そうですか」



「ですがそろそろ、


 お風呂に入っても良い時間帯ですね」



 ニャツキは時計を見て、ベッドから立ち上がった。



「湯張りをすることにしましょう」



 ニャツキはバスルームに入り、給湯器のスイッチを押した。



 電子音声と共に、湯船にお湯が流れ込み始めた。



 ニャツキはそれを確認すると、ベッドの上に戻った。



 ダラダラと過ごしていると、給湯器が湯張りの完了を告げた。



 それを聞いて、ニャツキはリリスに声をかけた。



「湯張りが終わりましたね。


 よろしければ、お先にどうぞ」



 ニャホンにおいて、1番風呂を譲ることは、敬意の証になる。



 ニャツキはトレーニャーとして、ランニャーのリリスに1番を譲ることにした。



「いえいえ。


 お姉さまこそお先にどうぞ。


 私は2番目で良いです。


 2番目が良いです。


 絶対に」



「……そうですか?」



 リリスが遠慮を見せたので、ニャツキはお風呂へと向かった。



 このホテルのバスルームに、更衣室のような所は無い。



 ニャツキはバスルーム手前の洗面所で、衣服を脱ぐことにした。



 素裸になったニャツキは、バスルームに入っていった。



 そして、洗面器でお湯をかぶると、肩まで湯船につかり、息を吐いた。



「ふぅ……」



 ニャホン人にとって、風呂は癒やしの空間だ。



 そのはずなのだが……。



 お湯の熱は、ニャツキの思考を刺激した。



 ニャツキはアレコレと考えてしまうことになった。



(リリスさん……。


 誰と会っていたのかを、


 話してはくれませんでした。


 ヒナタさんと会っていたことを


 知られたく無かった?


 どうして……?)



 一瞬、裸で抱き合う2人の姿が、ニャツキの脳裏に浮かび上がった。



「っ……」



 ニャツキはすぐに、妄想を振り払った。



「まあ、べつに構いませんけどね。


 ……しょせんは他人なのですから」



 誰と誰が愛し合おうが、好きにすれば良い。



 自分には、止める理由も権利も無い。



 ニャツキはそう考えることにした。




 ……。




 翌日。



 ニャツキたちの、デビュー戦の日がやって来た。



 ニャツキたちはホテルを出て、駐車場へと向かった。



 駐車場に着くと、ニャツキはバイク用のスペースを見た。



 そこにヒナタのバイクは無かった。



「お姉さま?」



「いえ。何でも」



 ニャツキはミヤたちと一緒に、ミニバンに乗り込んだ。



 車が発進した。



 ミニバンは、やがて競ニャ場へとたどり着いた。



 車を下りた一行は、控え室が有る建物へと向かった。



 建物に入り、廊下を歩き、控え室に入った。



 広い控え室の中では、100人以上の人と猫が点在していた。



 1日に行われるレースは、1つだけでは無い。



 いくつものレースが、続けて行われる。



 それらに参加するランニャーやジョッキーが、集まってきている。



 後半のレースの参加者の中には、まだ来ていない人たちも居る。



 だがそれでも、かなりの人数が集まってきていた。



 人が多い空間を、望まない参加者も居る。



 そんな人たちは、個室を借りることも可能だった。



 ニャツキはべつに、人の多さを気にしない方だ。



 それで普通に、この大きな控え室を使うことにした。



 控え室には、既にヒナタの姿も有った。



 ヒナタは椅子に腰をかけていた。



 少し緊張しながら、ニャツキはヒナタに歩み寄った。



 そして、声をかけた。



「……おはようございます」



「ああ。おはよう」



 ヒナタは普通に挨拶を返してきた。



 明るい好青年といった感じの挨拶だった。



 昨日のような怒気は、感じられなかった。



(もう怒っていないのでしょうか……?)



 ニャツキは戸惑いながら、言葉を続けた。



「今日は早いのですね」



「まっすぐ来たからな」



「そうですか。


 まあ、よろしくお願いします」



「ああ。よろしくな」



「……はい」



 ヒナタの様子を妙に思いながら、ニャツキは彼から離れた。



 そしてリリスたちと一緒に、空いていた椅子に座った。



 腰を下ろして少しすると、リリスが口を開いた。



「うぅ……緊張します……」



「リリスさん。


 緊張することはありませんよ。


 どうせあなたは


 俺様に負けるのですから」



「実も蓋も無い!?」



 そんな2人の様子を、ヒナタが見ていた。



(相変わらずの


 倣岸不遜っぷりだな。


 ……年頃の女子の繊細さ?


 そんなもん、本当にあいつに有るのか?)



 そのとき、1人のネコマタが、ニャツキたちに声をかけた。



「来たな。ニャツキ。リリス」



 赤いポニーテールの小柄な少女、バクエンジ=サクラだった。



 彼女の後ろには、ムサシとコジロウの姿も見えた。



 今日のレースに、サクラは参加しない。



 主役は後ろの2人ということになる。



「はい。来ましたよ」



 ニャツキはのんびりと答えた。



 リリスは身構えた様子を見せた。



「……どうも」



「どれだけレベルを上げて来たかしらねーが、


 勝つのはウチのムサシとコジロウだ。


 覚悟しとくんだな」



「そうですか。


 まあ、勝つのは俺様ですけど」



「言ってくれるじゃねーか」



「本当のことですから」



「……フン。


 おまえら、負けるんじゃねーぞ」



 サクラの言葉に、ムサシとコジロウが、元気良く答えた。



「はいっス!」



「負けません!」



(気合は十分のようですね。


 まあ、気合だけではどうにもならない


 絶対的な走りの差というものを、


 思い知らせてあげることにしましょうか)



 勝利を確信しているニャツキは、内心でそんなことを考えた。



 だがさすがに、それを表には出さず、友好的な笑みを浮かべた。



「楽しみにしていますよ」



「おう! それじゃ、行くぞおまえら」



 サクラたちは、ニャツキの前から去っていった。



「あれが因縁の相手ってわけね。


 思ってたよりも


 可愛い子たちじゃない」



 事態を静観していたシャルロットが、口を開いた。



「ええ。かわいいものです」



「そ、そうですか……?」



 そこへ別の猫が近付いて来た。



「おはよう。ハヤテさん」



 挨拶をしてきたその猫に、ニャツキは覚えが会った。



「あなたは……オモリさん」



 黒い衣服に身を包んだ彼女は、クライシ=オモリ。



 先日、練習用コースの近くで、声をかけてきたランニャーだった。



「今日のレース、お互いにがんばりましょうね」



 オモリは笑顔でそう言った。



「はい。がんばりましょう」



「ふふっ。それじゃあ」



 オモリは去った。



 彼女の言葉は、終始友好的だった。



 だが……。



(やっぱり、あの人なんだか……)



 彼女を見ると、リリスはなぜか、不安をおぼえてしまうのだった。




 ……。




 ニャツキたちが控え室に来てから、30分ほどが経過した。



『第1レースの出場者は、


 装鞍所で更衣を済ませ、


 パドックに集合してください』



 控え室に、放送が流れた。



 第1レースとは、ニャツキたちが出場するレースだ。



 ニャツキは椅子から立ち上がった。



 放送に従い、第1レースの関係者たちは、控え室を出ていった。



 そして、装鞍所へと移動した。



 装鞍所とは、ランニャーが鞍を装着するための更衣施設だ。



 ジョッキー用の更衣室と、ランニャー用の装鞍室が併設されている。



 ヒナタたちジョッキーは、更衣室へと入っていった。



 猫とホテルニャンは、装鞍室へと向かった。



 ホテルヤニャギには、ホテルニャンは1人しか居ない。



 そのためシャルロットは、リリスの手伝いのため、装鞍室に入っていった。



 ジョッキーもランニャーも、レース着に着替えた。



 ランニャーはそれからさらに、ゼッケンと鞍を装着した。



「……できた」



 ミヤの手で、ニャツキに鞍が装着された。



「ありがとうございます」



 装鞍を終えたニャツキは、ミヤに礼を言った。



「うん。がんばってね。ナツキ」



「ナツキ?」



「……言い間違えた。けど……。


 あなたはやっぱり、


 ナツキに似てると思った。


 そんなあなたが、どうしてヒナタを拒むのか。


 私には、それがわからない」



「俺様は、


 ミカガミ=ナツキではありません。


 それが全てです」



「…………」



 2人は装鞍室を出た。



 ニャツキは更衣室の方を見た。



 既に着替えを済ませたらしく、ジョッキー姿のヒナタが、そこに立っていた。



 ニャツキは猫の姿で、ヒナタへと歩み寄って行った。



「済んだか?」



 ヒナタが尋ねた。



「ええ。行きましょうか」



 ニャツキが答えた。



「乗るぞ」



「はい」



 ヒナタはニャツキに跨った。



 そのとき。



「ヒナタ」



 ミヤがヒナタを呼び止めた。



「ミヤねえ?」



 疑問符を浮かべるヒナタに、ミヤが歩み寄った。



 ミヤはヒナタの肩に手をのせた。



 そして。



「ん……」



 ミヤの唇が、ヒナタの頬に触れた。



 周囲のいくつかの視線が、ヒナタたちに集まった。



 ヒナタから顔を離すと、ミヤは微笑んだ。



「勝利のおまじない」



「ありがとう」



 慣れているのだろうか。



 ヒナタは平然と、ミヤに微笑み返した。



「……パドックに行きますよ」



 ニャツキが歩き始めた。



 ニャツキたちが向かったのは、パドックと呼ばれる空間だった。



 パドックは、柵に囲まれた広場になっている。



 柵の内側にランニャーたちが立ち、ファンがその周りを囲む。



 レース前の待機所であり、ファンとのふれあいの場でもある。



 他の猫たちと同様に、ニャツキも柵の内側に立った。



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