その25「リリスと新たなるトラブル」




「筋肉痛って最悪です……」



 リリスはうんざりとした様子で言った。



 彼女はぐったりと、ソファの背もたれに体重をあずけていた。



 そんな彼女を見て、ニャツキは微笑ましそうにしてみせた。



「ふふっ。そうですね。


 ですがその痛みは、


 ありがたいモノでもあるのですよ」



「ありがたい……ですか?」



「鍛える余地が残っているほど、


 筋肉痛は大きくなります。


 回数を重ねれば、


 筋肉痛の痛みは減りますが、


 トレーニングの効果も、


 ゆったりとしたモノになっていきます。


 あの筋肉痛が苦しかった頃が懐かしい。


 そんなふうに思ってしまったりもするのですよ」



 トレーニングには限界が有る。



 成長期を越えれば、どうしても、力の伸びは鈍くなってしまう。



 大きな筋肉痛は、自分が成長できるという証だ。



 それを感じられるリリスに、ニャツキは羨ましささえ感じるのだった。



「そういうものですか?」



「そういうものです。


 さて、リリスさん。


 今日、日常生活の方には、


 問題が無さそうですか?」



「それは……」



 つらいが、頑張ればなんとかなるかもしれない。



 リリスはそう考えて、口にしようとした。



 だが……。



「もしおつらいようなら、


 俺様がリリスさんの


 看護をさせていただこうと思うのですが」



「おつらいです!」



「そうですか?


 では、今日は1日、


 あなたのそばに居させてもらいますね」



「筋肉痛最高ッ!!!」



「えっ?」



 リリスは筋肉痛の喜びを、全身で表現した。



 まるで痛みなど感じていないかのようだった。



 だが、その揺り返しは、すぐにやってきた。



「いたたたたた……!」



 体のあちこちを襲う痛みに、リリスはひぃひぃと呻いた。



「もう。いきなり激しく動くからですよ」



 ニャツキは苦笑した。



 ……話の本題は終わったようだ。



 そう思ったヒナタが、ソファから立ち上がった。



「それじゃあ俺は、


 飯食ってスカウトに行くわ」



「はい。がんばってください」



「……ニャカメグロ。悪かったな」



 去り際に、ヒナタはそう言った。



「そうですね。


 ですが、今の私が機嫌が良いので、


 見逃してさしあげますよ」



「そうか。じゃあな」



 ヒナタは部屋から出て行った。



 食堂に向かったのだろう。



 騒動のおかげで、みんな朝食を食べられていない。



 そう気付いたニャツキが、こう提案した。



「俺様たちも朝ごはんにしましょうか」



「あの、お姉さま」



「はい」



「私、筋肉痛で


 お箸が持てないなぁって……」



 リリスは猫なで声を出してそう言った。



「わかりました。


 俺様が食べさせてあげます」



「っし!!!」



 リリスは右の手のひらを天井に向け、拳を強く握り締めた。



 割り箸くらいなら粉微塵にできそうな勢いだった。



「……実は元気なのでは?」




 ……。




 リリスは寝室のベッドで、ニャツキに面倒をみてもらうことになった。



「はいあーん」



 ニャツキは、箸で掴んだ玉子焼きを、リリスの口へともっていった。



「あーん」



 リリスは玉子焼きを、ぱくりと口に含んだ。



 それを咀嚼し飲み込むと、頬を緩めてみせた。



「…………ああ幸せ」



 そうして朝食を進めていると、寝室のドアがノックされた。



「む? 何ですか?


 至福のひとときを。


 敵ですか? 敵ですね?」



 リリスは、明らかに機嫌を損ねた様子で、ドアを睨んだ。



「リリスちゃん。


 入っても良いかしら?」



 ドアの外から聞こえてきたのは、オーナーであるアキコの声だった。



「どうやら敵では無いようですね」



 ニャツキはそう言うと、箸をお盆の上に戻した。



「……どうぞ」



 しぶしぶと、リリスはアキコの入室を許可した。



 扉が開き、アキコが姿を現した。



 そして、ベッドの上のリリスと目を合わせ、言った。



「フリーのジョッキーさんと


 話がついたんだけど、


 あさっての予定はだいじょうぶかしら?」



 ホテルを移籍したリリスは、新しくジョッキーを決める必要が有った。



 その打ち合わせの日程が決まったらしい。



「はい。だいじょうぶです」



 今のリリスには、ニャツキが組んだトレーニングメニュー以上の予定は無い。



 いつジョッキーが訪ねて来ようが、問題が無かった。



「それじゃあ、


 午前中に来てもらえるように言っておくわね」



「わかりました」



 話が済むと、すぐにアキコは去っていった。



 アキコの気配が去ると、ニャツキが口を開いた。



「明日のトレーニングは、


 控え目にしておいた方が良さそうですね。


 ベッドでジョッキーさんを


 出迎えるわけにもいきませんから」



「……そうですね」



 明日は、先日とは別部位を鍛える予定になっていた。



 トレーニング慣れしていない、まっさらな部位だ。



 先日と同様の鍛え方をすれば、どうなるかは分かりきっていた。




 ……。




 筋肉痛事件の2日後。



 正午まえ。



 リットーに有る第3ねこセンターの前。



 金髪の白人美女が、ヒナタに人差し指を向けていた。



「あなたがヒナタ=キタカゼね!」



 金髪美女は、生命力に溢れた声でそう言った。



「……そうだが?」



 ヒナタは生命力の低そうな声で答えた。



 美女は変わらぬテンションで言葉を続けた。



「ニャツキのジョッキーの座を、


 この私に謙譲しなさい!」



「…………。


 はぁ?」



 いきなりのことで困惑したヒナタは、美女から視線をずらした。



 彼女の斜め後ろの位置に、ニャツキとリリスの姿が見えた。



 どちらに話しかけるべきか、ヒナタは一瞬迷った。



 リリスには、裸を見られて以来、嫌われているような気がする。



 そう思ったヒナタは、ニャツキの方へと話しかけた。



「どういうことだ? ハヤテ」



「実はですね……」



 ニャツキはこれまでの出来事を話し始めた。




 ……。




 その日の朝。



 ホテルヤニャギのロビー。



 リリス、ニャツキ、アキコの3人が、ジョッキーの到着を待っていた。



「俺様要ります?」



 ニャツキがそう言うと、リリスが即座に口を開いた。



「要ります。絶対に要ります」



「まあ良いですけど」



 ニャツキもべつに、忙しいわけでは無い。



 ちょっとリリスに付き合わされるくらい、特に問題では無かった。



 ……退屈ではあったが。



 3人がじっと待っていると、やがてホテルの正面口が開いた。



 そこから金髪の女性が、颯爽と入ってきた。



 女性の服装は、彩度の低いクール系ファッションだった。



 キツめのボトムが、細い脚によく似合っている。



 ニャツキたちは、彼女が近寄ってくるのを待った。



 女性はニャツキの正面で立ち止まった。



「?」



 どうして自分の前で?



 困惑するニャツキの前で、その女性が口を開いた。



「あなたが私のパートニャーね。


 かなり速いわね。


 アキコが私に勧めるだけのことは有るわ。


 私はシャルロット=ニャヴァール。


 ランス人よ。


 ランスではA級のレースを勝った実績が有るわ。


 あなたをガッカリはさせないから。


 よろしくね」



 はっきりとした口調で、シャルロットは自己紹介を済ませた。



 ……どうやら彼女は誤解をしているらしい。



 そう気付いたニャツキは、誤解を正すことにした。



「あの、違いますけど」



「えっ?」



「俺様は、ただの付き添いです。


 彼女があなたのパートニャーです」



 ニャツキはそう言って、リリスの方を見た。



 シャルロットの視線が、リリスへと流れた。



「その子が……?」



「あの、ニャカメグロ=リリスです。


 よろしくお願いします」



 リリスは緊張した様子で、ぺこりと頭を下げた。



 シャルロットはそれに、冷ややかな視線を向けた。



「ふざけているのかしら?」



「えっ?」



 怒ったようなシャルロットを見て、リリスは戸惑った。



「その子、


 体の軸がブレてるじゃない。


 怪我でもしてるのかしら?


 自己管理もできないような子を、


 この私に押し付けようって言うの?


 バカにしてるのかしら?」



「えっ……えっ……」



 気圧された様子のリリスに代わり、ニャツキが弁解をした。



「あのですね。


 リリスさんが怪我をしているというのは、誤解です。


 彼女はただ、


 筋肉痛で調子を崩しているだけです」



「筋肉痛? 猫が?」



「猫だって、


 高い負荷でトレーニングをすれば、


 筋肉痛にもなりますよ」



「そう?


 誤解したことに関しては謝罪するわ。


 ごめんなさい。


 だけど……。


 それを抜きにしても、


 この子が優れたランニャーだとは思えないわね。


 一流のジョッキーは、


 少し見れば、猫の力が分かるわ。


 彼女からは、たいした力は感じられない」



「っ……」



 リリスはそれほど速い猫ではない。



 ニャツキもそれを否定しなかった。



「今はそうかもしれませんね。


 ですが、彼女はトレーニングを始めたばかりの猫です。


 彼女の才能は、まだ未知数。


 見切りをつけるには


 早過ぎると思うのですが?」



「……どうでも良いわよ。


 そんなギャンブルみたいなことに付き合うのは、


 ジョッキーの仕事じゃあ無い。


 ホテル側の仕事でしょう?


 私まで、そんな事につきあわせないでくれる?


 いいから走れる猫を寄越しなさいよ」



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