その43「妨害と便利な呪文」



 ニャツキたちは、控え室で、時が来るのを待った。



 第2レース以降のレースが、徐々に消化されていった。



 そして……。



『第5レースの出場者は、


 装鞍所で更衣を済ませ、


 パドックに集合してください』



 ついに時が来た。



 ニャツキたちのレースが、始まろうとしていた。



「出番ですね。行きましょう」



 ニャツキは和やかな口調で、ヒナタに話しかけた。



「ああ」



 ヒナタは椅子から立ち上がった。



 ニャツキはロッカーから自分の荷物を取った。



 そして、ヒナタ、ミヤと一緒に、控え室を出て行った。




 ……。




 放送を聞いて、サクラも椅子から立ち上がった。



 そして、自分のジョッキーであるオオイワ=ノバナへと近付いていった。



「ノバナさん。今日もよろしくお願いします」



 サクラは礼儀正しく頭を下げた。



「ええ。がんばりましょう。


 ……いつもどおりにね」



 目の細い痩せ型の女性が、冷めた顔でそう言った。




 ……。




 ニャツキたちが装鞍所へ移動してから、少しの時間が経過した。



 ヒナタはレース着に着替えて、更衣室を出た。



 そして、装鞍室の方を見た。



 そこに、人姿のニャツキの姿が見えた。



 妙に思い、ヒナタはニャツキに近付いていった。



「ハヤテ? まだ着替えないのか?」



 ニャツキのすぐ近くまで来ると、ヒナタは彼女に声をかけた。



「あの……それが……」



 ニャツキは口を開いたが、その声は小さかった。



 それでヒナタは、比較的元気そうなミヤに質問することにした。



「ミヤねえ。何が有った?」



「……来て」



 ミヤは、装鞍室の扉を開けた。



「良いのか?」



 装鞍室は、基本的に、男子禁制のはずだ。



 なので、ヒナタはそう尋ねた。



「良いから」



 ミヤはそう言って、装鞍室に入っていった。



 ここで立ち止まっていても仕方が無い。



 少しの抵抗感を抱きながら、ヒナタも部屋へと入っていった。



 ニャツキはとぼとぼとした足取りで、ヒナタの後に続いた。



 ヒナタは室内を見た。



「酷いなこりゃ」



 そこに有ったモノを見て、ヒナタは思わずそう呟いた。



 ベンチの上で、ニャツキのレース着が、ズタズタになっていた。



 切れ目が入っている……などというレベルでは無い。



 ひとつながりだった布は、バラバラに引き裂かれ、ただの布切れになっていた。



 服としての原型は、残されてはいなかった。



 とても着られるようなものでは無い。



「予備は無いのか?」



 ヒナタがそう尋ねると、ニャツキは震える声で言った。



「2着持って来ましたが、両方……」



「ゼッケンは有るんだろ。


 べつに服なんか無くても


 良いじゃねーか?」



「はあああぁぁぁっ!?


 良いワケ無いでしょう!?」



 無神経なヒナタの言葉に、ニャツキは怒声を張り上げた。



「そうなのか?


 毛皮が有るんだから、


 服着てるみたいなもんじゃねーのか?」



「バカ言わないでください!


 服を着なかったら、


 お尻の穴まで丸見えですよ!


 それを大勢に見られて、


 カメラにまで撮られるんですよ!?


 そんなことになったら


 もうお嫁に行けませんよ!」



「おまえでも


 嫁とか気にするんだな」



「慣用句です!


 実際にお嫁に行くかどうかは


 関係がありません!」



「そ。


 けどさミヤねえ。


 俺が子供の頃、


 服無しで森を走ったこと有ったよな?」



「まあ」



「えっ変態」



 ドン引きした様子のニャツキに、ミヤが無表情で弁解をした。



「……家族だから。


 お母さんとお風呂に入るようなもの」



「お風呂は


 外には無いですよねえ?」



「露天風呂?」



「…………。


 とにかく! 


 服が無いと走れませんよ!?


 どうしましょう!?」



 変態きょうだいの過去など、今はどうでも良い。



 レースが目前に迫っている。



 ニャツキは慌てた様子を見せた。



「競ニャ場の人に言ったら


 服を貸してもらえるんじゃねーか?」



「……無理だと思います」



「どうして?」



「そのへんの安物では……


 S級ランニャーの走りには


 耐えられません……。


 この服も、


 ママが手作りしてくれたものだったのに……。


 う……うぅ……ママ……」



 ニャツキの両目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。



 それを見て、ヒナタはガシガシと頭をかいた。



「あー。泣くなよ。


 なんとかしてやるから」



「……えっ?」



「縫樹」



 ヒナタは手のひらをボロボロのレース着に向け、呪文を唱えた。



 緑色の糸が、布切れたちに伸びた。



 魔術の糸が、布と布とをつなぎ合わせた。



 少しずつ、レース着が修復されていった。



「すごい……」



「80点のジョッキーだが、


 呪文のレパートリーだけは


 誰にも負けないんでな」



 3分もかからずに、ニャツキのレース着は、元通りになった。



「やった! 元通りです!」



 ニャツキは喜びの声を上げた。



「よかったな」



「はい!


 ありがとうございます!


 本当にありがとうございます!」



 ニャツキは涙声で、何度もヒナタに礼を言った。



「時間が無い。着替えよう」



 ミヤが平坦に言った。



「はい」



 ニャツキはミヤに返事をして、衣服を脱ごうとした。



「……って」



 ニャツキの視線が、ヒナタへと向かった。



「ん?」



 ヒナタは首をかしげた。



「何を当然のように見てるんですか!


 出て行ってください!」



 顔を真っ赤にして、ニャツキはヒナタを怒鳴りつけた。



「前はハダカでも


 気にしてなかっただろ!?」



 前のレースの時、ニャツキとヒナタは、全裸で同じ空間に立っていた。



 実体では無く精神体だが、その外見は、実際の裸と変わりはない。



 あのときは、ニャツキは平然と胸を突き出していた。



 今回になっていきなり怒ってくるというのは、ヒナタには理不尽に感じられた。



「えっ? 何それは。初耳」



 ミヤは2人の過去に、興味津々な様子を見せた。



「良いから出て行ってください!」



 ヒナタは装鞍室の外へと追い出された。



 部屋の前に居座ると、何を言われるか分からない。



 それで、自分が着替えに使った更衣室の前まで歩いた。



 そして腕を組み、少し待った。



 やがて装鞍室の扉が開き、猫姿のニャツキが出てきた。



 ニャツキはレース着、ゼッケン、鞍を、しっかりと身につけていた。



 彼女はミヤと一緒に、ヒナタの前まで歩いてきた。



「……お待たせしました」



「行くか」



「……はい」



 ヒナタはニャツキの隣に立った。



 そして、彼女の背に跨った。



「あっ……」



「どうした?」



「いえ。なんでもありません。


 行きましょう」



 ミヤを装鞍所に残し、2人はパドックへと向かった。



 パドックで待機の後、コースへと向かった。



 そしてスタート地点に立った。



 レースの開始まで、少し時間が有る。



 ニャツキはヒナタに話しかけた。



「あのですね。ヒナタさん」



「んー?」



「俺様のママはですね。


 実は妊娠中だったのです」



「ふーん」



「それでですね。


 昨日の夜、


 陣痛が始まったと


 電話がありました」



「大変じゃねえか」



「ママはじょうぶな方ですので、


 問題は無いと思います。


 今頃は、元気な赤ちゃんを


 その手に抱いていることでしょう。


 ですから。


 俺様はかわいい末っ子に


 優勝をプレゼントしたいと思います」



「そうか。がんばれ」



「はい!」



 レース開始のカウントダウンが始まった。



「風壁、活炎」



 ヒナタは呪文を唱え、スタートに備えた。



 カウントが0になった。



 魔導ゲートが消え、猫たちが走り出した。



 横並びになった猫たちの中から、抜きん出た者が居た。



 ニャツキだった。



 スタートダッシュに成功したニャツキは、猫たちの先頭を駆けた。



「やっぱり……!」



 ニャツキの表情に、確信の色が宿った。



「ん?」



「昨日ヒナタさんと走ったので、


 スタートダッシュもバッチリですね。


 やはり、俺様の考えは


 間違ってはいませんでした」



「逃がすか……!」



 楽しそうに駆けるニャツキを、サクラが追ってきた。



 ニャツキはわざと、サクラと速度を揃え、2ニャ身ほどの距離を保った。



 スタートしてすぐの位置に、右70度のコーナーが有った。



 それを曲がり終えると、左60度のコーナーが有った。



 コーナーを抜けると、ゆったりとした、右曲がりのカーブに出た。



 ニャツキはサクラに言った。



「残念ですが、


 スタートダッシュに成功した以上、


 もう俺様には、


 誰も追いつけませんよ」



「そう言われて


 諦める猫が居るか……!」



「それでは、


 ご自由にがんばってみてください」



 会話を終えれば、Eランクごときの猫に合わせる理由は無い。



 ニャツキは速度を上げた。



 ニャツキと他の猫たちでは、実力の差は明らかだった。



 競ニャにおいては、格下の猫が、意外に格上に食らいつくことが有る。



 ランニャーにはファイティングねこスピリットが有るからだ。



 前を走るねこに、闘争心を燃やすことで、時にランニャーは、実力以上の力を発揮する。



 だが、ニャツキとEランクの猫では、実力に差が有りすぎた。



 ファイティングねこスピリットで埋められるような差では無かった。



 ニャツキとサクラの距離が、離れていった。



 このまま走っていても、サクラが追いつける道理は無い。



「っ……!


 見せてやるぜ……!


 私のカースを……!」



 サクラは勝負をしかけることに決めた。



「開庭! 『爆炎地獄』ッ!!!」



 カース名の叫びと共に、サクラの体が赤く輝いた。



 するとサクラを中心として、周囲の景色が塗り替えられていった。



 競ニャ場の土の地面は、ゴツゴツとした岩肌に変じた。



 空は赤く染まり、炎をまとった大岩が落ちてきた。



 辺りは熱気で満ち、暑さが猫たちを苦しめた。



 かげろうが、周囲の景色を揺らした。



「どうだ! 見たか!


 これが私のカースだ!」



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