その1の3





 トーキョー競ニャ場の、レースコース。



 勝負を終えたマニャに、レンが歩み寄ってきた。



 マニャは冷めた視線を、レンへと投げつけた。



「負けてあげたわよ。お望みどおりに」



「悪いな」



 レンは、悪びれない様子で言った。



「……キタカゼ=マニャには、並外れた才能が有った。


 三流トレーニャーの腕でも、二冠ニャになれるくらいに。


 ……だが結局は、三流ホテルのサポートでは、二冠が限界だった。


 その後、一流ホテルの万全のサポートによって、


 三冠ニャへと登りつめた。


 ……そういう筋書きが、必要なのさ」



「くだらないわね」



「そうだな」



 レンはマニャに同意した。



「だが、そんなくだらないモノが、巨万の富を産んでくれる。


 ブランドイメージとはそういうものだ」



「どうでも良いわ」



 マニャはそう吐き捨てて、観客席の方を見た。



 観客たちは、まだ騒がしい。



 レースの熱が、残っているようだった。



「どうした?」



 衆愚を眺めることに、何か価値が有るのか。



 レンはそう思い、マニャに問いかけた。



「トレーニャーさんが、見ているかと思って」



「どうかな。


 ……お前を恨んでいるだろう。あの男は」



「そうね。……だから。


 負けろと思って、見ているかと思って」



「そんな陰湿な男じゃない」



「そうね」



 ナツキはお人好しだ。



 人を恨むことはあっても、呪うことは無い。



 レンにもマニャにも、そのことはよく分かっていた。



「良い人すぎたわ。あの人は。


 ……そんなあの人の評判も、地の底に堕ちた。


 もう、トレーニャーではいられないわね」



「惜しい男を亡くしたものだ」



 他人事のように、レンがそう言った。



「あなたが仕向けたくせに」



「手に入らないのなら、潰すまでだ」



「そうね。


 そのとおりだわ」




 ……。




 ねこ竜杯は、終わった。



 終わってしまった。



 今のナツキには、何の希望も無かった。



 彼はぶらぶらと、繁華街の通りを歩いていた。



 その右手には、ウィスキーの大瓶が見えた。



 すでに瓶の中身は、半分以下になっていた。



 ナツキはあまり、酒に強い方では無い。



 ナツキの顔は、耳まで赤くなっていた。



「ボクは……。


 いや……俺様は……。


 最強の……トレーニャーなんだぞ……。


 三冠ニャを……三冠ニャに……」



 ぶつぶつと呟きながら、ふらふらとナツキは歩いた。



 ……そのとき。



「うおおおおおおおぉぉぉっ!」



 叫び声と共に、突然に、肥満の男が襲い掛かってきた。



 ナツキが見たことの無い男だった。



 脂肪の重みが乗った体当たりが、ナツキを吹き飛ばした。



 酔っていたナツキは、受身も取れずに倒れた。



 がつんと。



 ナツキの後頭部が、硬い地面に打ちつけられた。



「……? ?? ?」



「うおっ! うおおおおぉんっ!」



 呆然とするナツキの上に、男が馬乗りになった。



 男はナツキの顔面に、拳を振り下ろしてきた。



 酔ったナツキには、それを防ぐすべは無かった。



 ナツキは無抵抗のまま、ただ顔を打たれた。



 重量級の、強烈な打撃だった。



 相手はただのデブでは無い。



 動けるデブのようだった。



「お前がっ! お前のせいでっ! マニャちゃんが……!


 三冠ニャにっ! なれなかったっ!


 ……ショックを与えたっ! お前がっ!


 だからっ! マニャちゃんがきちんと走れなかったっ!


 よくも! このっ! このっ!」



 男の拳を受け、がんがんと、ナツキの頭が揺さぶられた。



 激痛が走っている。



 そのはずだった。



 だが、ナツキの気持ちは、ひどく冷めていた。



(うるさいですね……。


 外野がぶつくさと……知ったようなことを……)



 ナツキの内面で、疲労感が痛みを上回っていた。



(もう……俺様は疲れました……。


 ゆっくり……眠り……)



「…………………………………………」



 心の欲求に従い、ナツキは目を閉じた。



 その目が開くことは、2度と無かった。



 この日ミカガミ=ナツキは、脳を破壊され、死んだ。



 そして……。



「元気な女の子ですよ」



 病院の一室で、ナツキの意識は覚醒した。



(ここは……)



 ナツキの体が、誰かの腕に抱かれた。



 ナツキは、その人を見た。



 美しい、銀髪のネコマタだった。



「ニャツキ。


 あなたの名前は、ハヤテ=ニャツキよ。


 私たちの、かわいい赤ちゃん。


 私があなたのママよ」



(赤ちゃん……? 俺様が……?


 これは……深夜アニメで流行の、転生というやつですか?


 とはいえ、異世界という感じでは、無いみたいですけどね)



 ナツキはすんなりと、現状を受け入れた。



 死ぬ前の場所に戻りたいとは、どうしても思えなかった。




 ……。




 ニャツキの誕生から、5年が経過した。



 ニャツキはすくすくと育ち、かわいらしい銀髪の少女となっていた。



 その頭頂部には、猫の耳が見えた。



 腰からは、2本の尻尾が生えていた。



 ナツキが転生したのは、ネコマタの少女だった。



 その日ニャツキは、自宅の居間でテレビを見ていた。



「ニャツキ」



 食い入るようにテレビを見ているニャツキに、母のミイナが声をかけた。



「ママ」



「また競ニャ中継?」



「はい。そうですね」



「よっぽど好きなのね。競ニャが」



「……どうでしょうか。


 ひょっとすると、嫌いなのかもしれません」



「嫌いなのに見てるの?」



「アンチとは、そういうものなのでしょう」



「難しい言葉を知ってるのね。アンチだなんて」



「べつに、難しくは無いと思いますが」



「それで、ニャツキは競ニャのアンチさんなの?」



「……いえ。


 あのランニャーの」



 ニャツキはじっと、レースの先頭を走るランニャーを見ていた。



「1着はっ! やはりキタカゼ=マニャ!


 前人未到! ねこ竜杯4連覇が決まったーっ!」



 マニャはナツキの死後も、ずっと現役だった。



 無敵の三冠ニャとして、ニャホン競ニャ界の頂点に君臨していた。



 ネコマタの寿命は長い。



 その栄光は、長く続くことだろう。



 よほどの才能が出てこないかぎりは。



「勝っちゃったわね。ニャツキが嫌いなランニャーさん」



「そうですね。


 ……あいつを倒してやりたい。


 そんな気分になります」



(もう1度、トレーニャーになって、マニャに勝てるランニャーを……)



(けど……)



(もしそのネコマタも、俺様を裏切ったら?)



 ニャツキの背筋を、寒気のようなものが襲った。



(あぁ……。


 もう俺様は、心から他人を信じることは、できないようです。


 ……そんな俺様に、トレーニャーなど務まるわけもありません……)



 トレーニャーに大切なのは、ランニャーとの信頼関係だ。



 だが、今のニャツキは、ランニャーを信頼できる気がしなかった。



 それはもう、ニャツキがトレーニャーとして、壊れてしまっているということだ。



 ニャツキは悲しそうな顔で、テレビに映るマニャを見た。



 こんなにハッキリと見えているのに、手は届かない。



 悔しかった。



「もう……。


 レースをそんな風に楽しむなんて、不健全だと思うわ」



「そうかもしれません。


 ですが、これ以外に楽しみ方を知りません」



「ニャツキ……。


 ……そうだ。


 今度いっしょに、コースに行きましょうよ」



「現地観戦ですか?」



「そうじゃなくて、走るの」



「誰が?」



「私たち3人でよ」




 ……。




 次の休日。



 地方の小さな練習用コース。



 ニャツキとミイナは、猫モードで、コースの上に立っていた。



 2人とも、おそろいの銀毛だ。



 成人であるミイナに対し、子猫のニャツキは小さくかわいらしい。



「だいじょうぶかな……」



 ミイナの鞍の上。



 ニャツキの父のケンイチが、不安そうに言った。



 銀髪の美女であるミイナに対し、ケンイチの容姿は平凡だった。



 だがミイナの方が、ケンイチにベタ惚れしている。



 ニャツキは不思議に思ったが、そうこともあるらしかった。



「猫に乗るのなんて、10年ぶりだよ」



「あら、そんなことは無いでしょう?


 昨日の夜だって……」



「こら! ニャツキが居るんだぞ!」



「ごめんなさい。


 けど、まだ5歳だもの。分からないわよ」



(バッチリ分かってます。聞きたくないです)



「難しい話は止めて、早く走りませんか?」



「そうね。行きましょうか」



 ニャツキとミイナは、揃って走り出した。



 ひたすらにコースを走った。



 やがてスタミナが尽きてきて、ニャツキは脚を止めた。




「はぁ……はぁ……」



 ニャツキは息を整えて、ミイナに声をかけた。



「速いですね。ママは」



 一緒に走っていて、ニャツキがミイナを追い抜くことは、一度も無かった。



 かなりの実力差が有る。



 ニャツキはそれを、思い知らされていた。



「ふふっ。それはね、ケンイチさんが背中に乗っているからよ」



「関係無いと思いますけど。


 ……パパはジョッキーとしての力を、使っていませんでしたよね?


 なら、重りが無い分、俺様の方が有利だったと思うのですが」



 ジョッキーは、魔力でランニャーを援護する。



 だが、今回のケンイチは、そういったことを一切していなかった。



 ただの重りにしかなっていなかった。



「そういうことじゃないのよ。


 ネコマタっていうのは、愛する人を背に乗せているときが、


 1番スピードが出る生き物なの。


 ……ケンイチさんと一緒なら、ねこ竜にだって負けないんだから」



「無理でしょう?」



「もう……。ニャツキってば、ドライ屋さんなんだから」



(何屋さんですかそれは)



「それにねニャツキ。あなたはまだ5歳なんだから。


 これからもっともっと、速くなるわ。


 私が5歳のころは、あなたみたいに速く走れなかったもの。


 ひょっとしたら、ランニャーの才能が、有るかもしれないわよ。


 ニャツキには」



「俺様に……ランニャーの?」



「俺もそう思うぞ」



「パパ?」



「こう見えて俺は、地方じゃ名の知れたジョッキーだったんだ」



「そんな俺が言うんだ。間違いない」



「そうなのですか?」



 初耳だった。



「そうなのだ」



「パパはまだ、お若いですよね?


 どうしてジョッキーを引退してしまわれたのですか?」



「それはだな……」



 少し言葉に詰まった後、ケンイチは言葉を続けた。



「ミイナが他の女の上に、乗って欲しく無いって」



「……ソウデスカ」



 とんだ惚気を聞かされて、ニャツキは真顔になった。



「とにかく、お前に才能が有ると思ってるのは、本当のことだ」



「…………」



(俺様は……他人を信用できません。


 だからもう、トレーニャーにはなれない。


 そう思っていました。


 だけど……。


 もし俺様が……。


 俺様自身のトレーニャーになるなら……?)



 かつてない走りを、生み出せるのではないか。



 ふつふつと、ニャツキの内面に湧き起こるものが有った。



「……………………」



 ニャツキの沈黙を、否定的な意味でとらえたのか。



「走るのは嫌いか?」



 ケンイチがそう聞いていた。



「……いえ。


 応援していただいても、よろしいでしょうか?」



「好きにやれ」



「はい!」




 ……。




 ニャツキの決心から、11年が経過した。



「パパ。ママ。ケンタ。行ってまいります」



 自宅の玄関前。



 ニャツキは猫の状態で、家族に対し、旅立ちの挨拶をした。



 ニャツキの背には、大きな旅の荷物がのせられていた。



「有名人のサイン、もらってきてくれよ」



 弟のケンタが言った。



 ケンタは黒髪の、人間の少年だ。



 年齢は、10歳になる。



 物怖じしない、元気な性格の子供だった。



「キタカゼ=マニャ以外なら」



「ねーちゃんのマニャ嫌いは、筋金入りだなぁ」



 マニャは未だに、業界のトップに君臨している。



 とはいえ、マニャ1強の時代が、あまりにも長すぎた。



 そろそろ引退し、次の世代に席を譲るのではないか。



 そんな風に噂されていた。



 その前に、マニャを仕留める。



 ニャツキは内心で、そう決意していた。



「まあ良いや。とにかくなんかくれ」



「努力しましょう」



「頑張れよ」



「悪い人についていっちゃダメよ?」



 父がニャツキを励まし、母は忠告をした。



 ミイナのお腹は、大きく膨らんでいた。



 もうすぐ弟か妹が産まれるらしい。



「はい。それでは」



 ニャツキは、家族に背を向けた。



 そして駆けた。



 ほんの一瞬で、ナツキの姿は家族の視界から、消え去ってしまった。



「16歳の走りか。アレが」



 風のように去ったニャツキに、ケンイチは感嘆の声を上げた。



「ひょっとすると、凄い大物になるかもしれないわね。ニャツキは」



「そうかもしれないな。


 ……何と言っても、ミイナの娘だからな」



 結婚から何年経っても、夫婦は惚気を止められないようだった。




 ……。




 ニャツキは、猫の姿で軽快に、車道を走っていった。



 猫が歩道を走ると、法令違反となる。



 車道を走るのが常識だった。



 ニャツキはすいすいと、自動車を追い抜いていった。



「俺様は、三冠ニャになる!


 誰にも頼らず、俺様1人の力で!」




 ……。




 とある高級マンション。


 背の高い銀髪の青年が、姉に声をかけられていた。



「ヒナタ」



「…………」



「本当に行くのね?」



「……ああ」



 青年の背には、大きなリュックが見えた。


 旅支度だった。



「病気のハンデが有っても、家のコネが有れば、就職には困らないわよ?」



「夢を諦められない。


 俺はどうしても、ジョッキーになりたいんだ」



「……そう。


 行ってらっしゃい。


 けど、辛くなったら、いつでも帰ってくるのよ?」



「……勝負する前から、負けることなんか考えたくねーよ」



「そう。


 ……だけど、あまり気負ってもダメよ。


 競ニャというのは、1人だけの力では勝てないわ」



「分かってる。


 ……見つけてみせるさ。俺だけの、理想のベストパートニャーを」



 その日、少女は旅立った。


 1人の力で勝つために。


 その日、青年は旅立った。


 共に力を合わせて勝つ、その相手を見つけるために。


 ベストパートニャーを求めて。



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