その16「闇ホテルと移籍」




 リリスは、自分が所属するホテルの、応接室に居た。



 そこでソファに座り、ホテルの支配人と向き合っていた。



 支配人は、中肉中背の、黒髪の男だった。



 男はブラックなホテルの制服を身にまとっていた。



「そういうわけで、


 ホテルを抜けさせてください」



 リリスは支配人に、ホテルを抜ける意思を伝えた。



 すると、支配人はこう言った。



「えっ?


 そんなちょっと、困るよ」



「もう決めたことですので」



 リリスがきっぱりと言うと、男の声音が鋭くなった。



「決めたっていうか、


 契約ってものが有るわけでさぁ。


 それをいきなりハイ抜けますだなんて、


 ルール違反だよね。それ。


 違約金払えんの?」



「違約金……ですか?」



 ホテルを抜けるのに違約金がいるなどということは、初耳なのだろう。



 リリスの表情が曇った。



 金銭に余裕が有れば、もっとマシなホテルと契約している。



 違約金を払うことは難しい。



 そう思っている様子だった。



「あの、ちょっと良いですか?」



 リリスの隣に座っていたニャツキが、口を開いた。



「何? っていうか誰?」



 支配人の男は、不快そうにニャツキを見た。



 ニャツキは男の敵意を、受け流して言った。



「契約解除に


 違約金が発生するというのでしたら、


 その契約の内容を見せていただけますか?」



「はあ?


 契約書って言ったら、個人情報なの。


 部外者に見せられるワケが無いでしょ!」



 男は大声で言った。



 小娘ていど、こうすれば引っ込む。



 そう思っているのかもしれない。



 だが、今のニャツキはただの小娘では無かった。



 トレーニャー、ミカガミ=ナツキの顔をしていた。



 ニャツキは男の大声に、まったく臆することなく言った。



「俺様は彼女の


 トレーニャーになる予定の者です。


 部外者ではありません」



 毅然としたニャツキの声に、逆に気圧されたのか。



 男の声が小さくなった。



「……なんで契約書なんか


 見る必要が有るのよ」



 男は忌々しげにそう言った。



「普通、


 違約金が発生するような


 長期契約をするのであれば、


 それに見合ったメリットが


 提示されているはずです。


 彼女がこのホテルから、


 それほどの恩恵を受けているとは


 思えませんでしたので。


 あなた方が、


 何と引き換えに


 彼女を拘束しようというのか、


 確認させていただこうと思いまして」



「それは…………」



 男は苦い顔をして、言葉に詰まった様子を見せた。



 だが、少しすると、ケロリとした顔をして言った。



「ああ。


 ちょっと勘違いしてたみたいだ」



「はい?」



「長期契約をしてたのは、


 他の猫だった。


 顔が似てたから、


 勘違いしちゃったみたいだね」



 男は、有りもしない契約で、リリスを脅すつもりだったのだろう。



 存在しない契約をでっち上げるのは、犯罪行為だ。



 深く突っ込まれては困る。



 男は勘違いということで、話を片付けるつもりのようだった。



 汚いやり口だ。



 見ていて気分の良いものでは無い。



 だが、話を蒸し返しても、ニャツキに得られるものは無いだろう。



 リリスを縛る契約は無い。



 その言質が得られたのなら、それで十分だった。



 ニャツキは話を先に進めることにした。



「では、彼女がホテルを変更しても、


 何の問題も


 無いということですね?」



「問題なら有るよ」



「何でしょうか?」



「その場の思いつきで


 ホテルを変えたって、


 うまく行くとは思えない


 若い子が、


 その場の気分で


 間違ったことをしたら、


 それをたしなめるのが


 大人の義務ってやつじゃない?


 考え直すなら、


 今のうちだと思うけど?」



 契約をちらつかせて脅すことは、不可能になった。



 だから男は、損得でリリスに訴えかけることにしたらしい。



 男は上から目線で、リリスの選択は間違いだと説いていた。



 ニャツキはリリスを見て言った。



「この人はこう言っていますが、


 どうしますか? リリスさん」



「……大人の意見、


 ありがとうございます」



 リリスが口を開いた。



 契約の話で脅された時と比べ、彼女の表情は落ち着いていた。



 リリスはしっかりとした口調で言った。



「ですが、もう決めたことですので。


 今日中にはこのホテルを


 出て行こうかと思っています」



「……勝手にしろよ」



「はい。今までお世話になりました」



 リリスはソファから立ち上がった。



 そして、男に頭を下げた。



 リリスの礼が終わると、ニャツキも立ち上がった。



 2人は応接室を出て行こうとした。



「……おぼえとけよ」



 男が呟くように言った。



 その言葉は、ニャツキの耳にしっかりと届いていた。



「人を恨む労力を、


 猫の育成にでも向けた方が、


 お互いのためだと


 思いますけど」



 ニャツキはそう言うと、リリスと共に、応接室を出て行った。



「責任者があの態度。


 とんだ闇ホテルですね。


 契約解除して正解ですよ」



 廊下に出たニャツキは、リリスにそう言った。



「あはは」



 リリスは苦笑した。



「そうかもしれませんね。


 それじゃあ


 お部屋に行って


 荷物をまとめて来ますね」



「手伝いますよ」



「ありがとうございます」



 2人はリリスの部屋に向かった。



 そこは、ニャツキの部屋と比べると、小さくて粗末な部屋だった。



 2人は、荷物をまとめた。



 そして猫化したリリスが、荷物を背負うことになった。



「行きましょうか」



「はい」



 ニャツキは人の姿のまま、猫化したリリスの隣を歩いた。



 ホテルを出ると、ニャツキは車道を走った。



 リリスはニャツキの後に続いた。



 ホテルヤニャギの前まで来ると、ニャツキは立ち止まった。



「あの、ここは……?」



 リリスがホテルを見上げながら、そう尋ねてきた。



「私が契約している


 ホテルヤニャギですが」



「いわくつきの闇ホテルじゃないですか!?


 やだー! 騙されたー!


 おかあさまー!」



 ホテルヤニャギの悪評は、リリスの耳にも届いていたらしい。



 リリスは錯乱した様子を見せた。



「いまさら後悔しても


 もう遅いですよ。


 世間で言われているような


 ホテルではありませんから、


 おとなしく覚悟を決めてください」



「……まともなホテルなんですか?」



「ええ。


 オーナーは優しく、


 トレーニング器具も完備。


 ジョッキーは居ませんし、


 トレーニャーは俺様1人だけで、


 ホテルニャンも1人しか居ませんが、


 それは些細な問題でしょう」



「重大な問題な気がしますけど!?」



「気のせい気のせい。


 さあ、入って入って」



 ニャツキはリリスの背中に触り、ホテル内へと誘導した。



 2人はホテルのロビーへと入った。



 すると……。



「どこをほっつき歩いていやがった。


 もう10時だぞ」



 そこには不機嫌そうな様子で、キタカゼ=ヒナタが立っていた。



「あっ……」



(そういえば、


 一緒に練習をする予定が


 有りましたね)



 ヒナタの背には、リュックサックが見えた。



 その中にはきっと、練習用のレース着でも入っているのだろう。



「すいません。


 おまえのことなど


 すっかり忘れてました」



 ニャツキはぺこりと頭を下げ、猫耳をぺたんと倒してみせた。



「こいつ……」



 そのとき、ヒナタの近くに居たアキコが、ニャツキに声をかけてきた。



「お帰りなさい。ニャツキちゃん」



「はい。ただいま帰りました」



「その子が話してた猫ね?」



「ニャカメグロ=リリスです!


 今日からお世話になります!」



 リリスは気合の入った声で言った。



 それに対し、アキコはのほほんと答えた。



「はい。いらっしゃい。


 ウチはトレーニャーも居ないようなホテルだけど、


 本当に良いのね?」



「トレーニャーなら居ますよ。


 この俺様が」



「正直に言えば、


 不安は有ります。


 だけど、ニャツキさんの走りは、


 本物だと思いましたから」



「そう。そんなに凄いのね。


 ニャツキちゃんは」



「はい。とても」



「そう。がんばってね」



「はい! がんばります!」



(優しそうな人で良かった……)



 アキコの穏やかそうな物腰を見て、リリスは内心でそう考えた。



「お部屋はニャツキちゃんと


 同じ階で良いかしら?」



「はい。どこでも構いませんよ」



「ミヤちゃーん」



「はーい」



 アキコが呼ぶと、カウンターの方からミヤがやって来た。



「この子をお部屋に


 案内してあげて」



「わかった」




 ……。




 ミヤの案内を受けて、リリスは最上階に向かった。



 そして、最高級のスイートルームへと通された。



「ここがあなたのお部屋」



「えっ……!?」



 豪華なスイートルームを見て、リリスは驚きの声を上げた。



「こんな良いお部屋、


 部屋代を払えませんよ……!?


 やっぱり詐欺……?」



「安心して。


 どうせ使わない部屋だから、


 他の部屋と同じ、


 通常料金」



「使わない部屋?」



「このホテルには今、


 3人しかお客さんが居ないから」



「えっ……」




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