第9話 好きになった?
城ケ崎さんがいることで部屋の雰囲気はずいぶんと変わった。だけど一歩外に出ればいつもの風景が広がっていて、昨日までと大きな変化がないように感じた。
当然のように一緒に外に出て僕はようやくあることに気が付いた。なんで僕が悩まないといけないのかわからないけどちゃんと考えなければいけない問題だ。
「鍵はどうしよう。城ケ崎さんの方が帰りは早かったりする?」
「勇気は昨日と同じくらいでしょ? 荷物も夜の指定にしてあるから買い物でもして時間を潰すわ」
「やっぱりうちに住み込むっていうのは無理があるんじゃないかと……」
「ぼやぼやしない。朝は人身事故が多いんだから、動いてる時にさっさと移動する」
「昨日、人身事故を起こしそうになった人の言葉とは思えないな」
ガチャリと鍵を閉めて、ドアノブを何度か引いて扉がちゃんと閉まっているか確認する。こんな部屋にわざわざ空き巣には入らないだろうけど見ず知らずの人が勝手に生活を始める可能性はゼロではない。
世の中何が起こるかわからないことはこの身を以て学習済みだ。
「…………」
「…………」
お互いに無言で階段を降りて歩みを進める。アパートの敷地を出てから曲がる方向まで一緒なんてまるで同じ場所に向かっているみたいじゃないか。近所付き合いはほとんどないけど、こんな姿を見られたらカップルだと疑われかねない。
「あの、もしかして道がわからないとかですか?」
「何を言ってるの。この辺りは朝走ってきてだいたい把握したわ」
「そういえばジョギングして買い物してちゃんとうちに戻ってきたんですよね」
「使う駅が同じなんだから同じ方向に歩いていくのは当然でしょう? 私と対等な男になるのはその辺の勘も鍛えなさい」
「勘を鍛えろって言われても……」
「経験を積むことね。入試だってそう。どんなに過去問を解いても本番は未知の問題が出てくる。全部勘で解くんじゃないの。勘で道筋を見つけて、そこから実力を発揮できるようにするってこと」
「あぁ。そういえば共通テストの数学で焦ったな~。見たこともない問題が出てきて」
「それはみんな同じよ。その中でもちゃんと自分の持つ力を発揮して、ミスのないように解答できる者だけが京東大の門をくぐれるのよ」
現役京東大生の言葉が朝から重くのしかかる。もし僕が大学入試未経験の高校生ならあまり実感が伴わなかった。だけど一度経験しているからこそ城ケ崎さんの言いたいことはよくわかる。入試まで半年以上あると少し楽観的だった心が引き締まった。
「一朝一夕で勘は鍛えられないわ。体も学力もだけど。そのために私が家庭教師になるんだから安心するといいわ」
「いや、そこで安心するのはちょっと難しいかなと」
「なんでよ。昼は予備校、夜は家庭教師。完璧な布陣じゃない」
「そう言われましても……」
不満そうに腕を組むと胸が強調されて目に良くない。赤の他人ならチラ見して一瞬の幸福感を得られるのに、なまじ知り合いになってバスタオル一枚だけの裸同然の姿も知っているだけに視界に入ると妄想が膨らんでしまう。
本当に城ケ崎さんのスペックは高い。それは素直に認める。だけど名選手が名コーチになれるかと言えばそうではないように、僕が城ケ崎さんの教育に付いていって身になるのかという問題がある。
「はぁ~、本当はこういうやり方はよくないんだけど」
大きなため息を吐いて、あからさまにしぶしぶといった雰囲気を出す。不機嫌なのに綺麗なのは本当にズルい。ふてくされた横顔でさえ他人を魅了できるのだから生きてるだけで大勝利だ。
「勉強を頑張ったご褒美をあげる。どう? 何がなんでも食らいついてやろうって思えた?」
「ご褒美? 具体的には何を」
「そ、それはまだ考え中よ。でも家庭教師のご褒美なんて……さっさと歩きなさい。電車に遅れるわよ」
突然顔を赤くしてカツカツといい音を響かせながら城ケ崎さんは歩く速度を上げた。持ち前の長い脚と日頃の鍛錬の成果なのかなかなかのスピードだ。キャッチやナンパなんかも簡単に振り切れてしまいそうな速さと無言の圧に気圧されながらも僕は必死に食らいついた。
「どうしたんですか急に。まだ平気ですって」
「勇気ってそういうタイプなのね。知らないふりをして女を騙す」
「は? 何の話ですか」
「勘を働かせる訓練よ。自分で考えなさい」
城ケ崎さんの地雷がどこにあるのかよくわからない。家庭教師のご褒美と言えばエッチなものが真っ先に思い浮かぶけどそんなのフィクションだ。城ケ崎さんがそんな提案をするはずがないし、自分で言って自分で恥ずかしがるというのもピンと来ない。
僕自身がご褒美に何が欲しいかを提案できないとダメだったんだろうか。急にそんなことを言われても今欲しいのは落ち着いた生活だ。受験のプレッシャーから解き放たれて京東大生になっている。
講義内容には全然付いていけてなくて、結局ヒイヒイ言いながらテスト対策に追われる日々……うん。合格して落ち着くことはなさそうだ。大学生活を乗り越えても就活があって労働生活が始まって……あれ? 希望なくね?
「…………わかった? 私が言いたいこと」
「生きるって大変だなってことがわかりました」
「なによそれ。当たり前でしょ」
城ケ崎さんは眉間にシワを寄せてスタスタと歩いていった。愛想を尽かされてこのまま二度と会わないんじゃないかと思うレベルで離れていく。それはそれである意味落ち着いた生活が戻ってくるんだけど、また自殺でもされたら目覚めが悪い。
どんな言葉をかければ機嫌を取れるのか皆目見当も付いていなかったけど、とりあえず名前を呼んでみた。
「城ケ崎さん」
「………………」
無言でスルーするのは勘弁してほしい。これじゃあ僕がキャッチかナンパみたいじゃないか。あんまりしつこいと誰かに通報されてしまうかもしれない。あるいは直接手を下されるか。美人を救ってそれをきっかけに関係を築くなんて展開もあり得そうだ。
誰かの噛ませ犬になるのは勘弁願いたい。噛ませ犬くらいならまだしも、無実の罪でも着せられたら大問題だ。
だから思い切った。これで二度目だ。裸同然の恰好だって見ているし、向こうだって僕の体をぺたぺたと触っている。今更文句を言われる筋合いはない。同じ屋根の下で暮らすんだろう?
この程度のことで文句を言うなら一緒に生活なんてできないし、いちいち過剰に反応するほどお互いに純情ではないはずだ。少なくとも恋愛経験豊富な城ケ崎さんにとっては他愛のない行為。
「ひゃっ!」
カバンを持っていない右手を勢いよく、だけどその繊細な指を傷付けないように優しく包み込んだ。その瞬間に漏れた可愛らしい声が不機嫌オーラとギャップがあって胸が高鳴る。
本当に美人はズルい。負の感情を抱いていてもそれを美貌で半ば強制的に和らげられてしまう。
「ごめん。勘が鈍いからわからない。家庭教師のご褒美ってなに」
「か……考え中って言ったじゃない」
「ずっと考え中ではぐらかされるかもしれない」
「…………やっぱり男子ってそういうことで頭がいっぱいなのね。昨日大人しくしてたのは油断させるためだったんでしょ」
「油断って、気が気がじゃないのはこっちですよ。女の人が一緒の部屋で寝てるなんて」
「私が体で支払うのを拒否しておいて?」
「……本当はヤリたかった。でも、城ケ崎さんの気持ちを考えたらそんなことできなかった」
朝の路上でする話じゃない。それはわかっていても、今ここでちゃんと話しておかなければこじれたまま予備校で時間を過ごすことになる。絶対に集中できなくて、周りと差が付いて入試が一日近付く。
自殺されても、親子喧嘩が続いていても、家庭教師として住み込まれても、城ケ崎さんがいる限り僕の心は乱れっぱなしだ。
親子問題を解決して自分の家に帰ってもらう。それを僕自身の目で見届ける。一度踏み込んでしまった沼からきちんと脱出しないと前に進むことはできない。
「私の気持ちを汲んでくれたことには感謝するわ。ただ、ヤリたいなんて直接的な表現は控えるべきね。時間と場所を考えると」
「仕方ないだろ。他に言葉思い浮かばなかったんだから」
「でもわかった。勇気はやっぱりそういうご褒美が欲しいのね。安心して。男子はそういう生き物だって理解してるから」
「いや、無理しなくていいから! 好きでもない男とそんなことしなくても」
「勇気は絶対に私を好きになる。そして、私も勇気を好きになる。対等にね。それで問題ないでしょう?」
僕が上から城ケ崎さんの手を包み込んでいたはずなのに、いつの間にかするりと解かれお互いの指が絡み合っていた。まるで恋人のように繋がれた手は僕の意志だけでは解くことができない。
「どう? 好きになった?」
「手を繋いでくらいで好きになるのは幼稚園までですよ」
「よかった。予備校で他の女の子と手が触れても浮気の心配はないわね」
「予備校でそんなことにはなりません。黙って勉強するだけですから」
虚勢と見栄を張っているのを見透かしているように城ケ崎さんは鼻で笑って繋いでいた手を離した。自殺から助けてたら罵声を浴びせて、挙句住み込みで家庭教師をしだす頭のおかしい女を好きになるはずがない。さすがにその美貌でもカバーできてないよ。
本人には絶対に言わないんだけどさ。
エッチなご褒美の可能性に心拍数が上がっている。
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