第12話 マナー教室
「ひとまず段ボールは片付いたわね」
「疲れた……」
大きな箱にびっしりと服が詰まっているのかと思ったらそんなこともなく、割れるわけでもないのに緩衝材とスカートが二着とか、緩衝材とブラウスが一着みたいなパターンもあった。箱の数に対して中から出てきた物は少ないのでそこまで部屋を圧迫しなかったものの、畳んだ段ボールと潰した緩衝材は引っ越し後の様相だ。
「さて、夕食の準備をしなきゃ」
「今日くらいはコンビニでいいんじゃないですか? それこそ引っ越しそばとか」
「ダメよ」
「アレルギーとかですか? だったらすみません」
「違うわよ。そばだけじゃバランスが悪いもの。長い受験を乗り切るには食事も大事なのよ」
城ケ崎さんはまるで自分のものみたいに冷蔵庫から食材を取り出して台所で調理を始めた。ここに来て二日目とは思えないくらい手際がよくて、もはや僕よりも台所の勝手をわかっている。
「勇気はそれまで今日の復習をしてなさい。日々学んだことをその日のうちに身に付ければ半年後には揺るぎない基礎が固まるわ」
「その日のうちに全部復習できれば苦労はしないんですが……」
「全部完璧になんて言わないわ。予備校のスケジュールはわからないけど、たぶん高校の夏休みまでに一通り全範囲をやって、夏休み期間にそれを復習して、二学期からは実践的な問題演習って感じじゃないかしら。私はそうだったわ」
「あ~、ガイダンスでそんな感じのことを言っていたと思います。夏に基礎を固められるって」
「その夏を前に基礎を固めておけば、周りのライバルよりも固くなるでしょ? 本当に基礎は大事なのよ。どんな応用問題が出てもあがけるわ」
「城ケ崎さんもあがいたんですか?」
「もちろん。入試本番で今までに見たこともない問題が出て、でも私がわからないんだから周りもわからないって信じてあがいたわ。結局完答はできなかったけど部分点はもらえたと思うし、現に合格してるしね」
トントントントンと軽やかな包丁を鳴らしながら城ケ崎さんは自らの受験体験を語る。こんなに自信に満ちている人でも最後まで解けない難問が出題されるのに僕で太刀打ちできるか不安になった。たぶんこういう発想がダメなんだとわかってる。城ケ崎さんでもできないんだから、自分もできなくて当然。そういう問題もあるんだと割り切るのが大事なのに、性格なんて簡単に変わらない。
「今夜は生姜焼きよ。男の子ってこういう方が好みでしょ? テーブルマナーを学ぶにはフレンチが良いんだけど、さすがに家庭料理では難しいわね」
「この部屋にフレンチは合わないですよ。手作りの生姜焼きだって贅沢なくらいだ」
「部屋の雰囲気と料理を合わせるのは大切よね。勇気もわかってきてるじゃない」
わかるもなにも至極当然のことだと思ったけどそれは口にしなかった。せっかく褒めてくれたのに台無しにしてしまう。
それよりも今は言われた通り今日の復習だ。高校時代に習ってテストも受けて、受験勉強をして予備校で学び直して……通算何度目の復習なんだと考えると自分の物覚えの悪さにうんざりする。
「…………落ち着かない」
自分の部屋に女性モノの服が大量に置かれている。下着類なんかは城ケ崎さんが自分でケースに仕分けていたけど、チラリと視界に入った小さな布と昨日見たバスタオル一枚の姿が脳内で合成されて非常に生々しい姿が出来上がる。
傍から見たらどう考えても同棲だ。実際一緒に暮らしている。
生姜の香りが胃袋を刺激して頭が勉強モードに切り替わらない。ペンではなくて箸を持ちたいと指も言っている。
予備校が今までと変わらない教室だとしたら、本来心と体を休めるはずの我が城はすっかり変わってしまった。
城というにはあまりにも古めかしいけど、古城と捉えれば趣深い。
「私と結婚するにはテーブルマナーもマスターしてもらうわ。知らないで損することはあっても、知っていて損することはないもの」
そんな古城で僕は家庭教師にマナーを教えていただけるらしい。
「その理屈はわかりますけど浪人生がやることですかね?」
「甘いわね。浪人生も入試に合格すれば一か月で大学生。しかも京東大生よ。裕福な家庭が多い京東大生の中で恥をかけば自己肯定感が下がってますます陰気になっていく。それを未然に防いで充実した大学生活を送ってもらわないと」
「ますます陰気ってまるで現在すでに陰気みたいじゃないですか」
「なるほど? 勇気はとても陽気で楽しい男なのね?」
「すみませんでした。陰気です」
テーブルマナーと言ってもそもそもテーブルがない。この屁理屈で今日を乗り越えたとしても数日後には二人で使える程度のテーブルがやって来るらしい。生姜焼きを食べるのに特別なマナーがあるのかと考えを巡らせていると当然勉強は身が入らなかった。
肉を食べる時は箸で折りたたむとか、お椀によそったご飯に肉を置いてはいけないとか実は細かなルールがあるのかもしれない。
そんなことを考えながら食べる生姜焼きは味気なさそうだ。
「さて、勇気が今日覚えるべきマナーはこれよ」
出来立ての生姜焼きは性欲と睡眠欲を差し置いて真っ先に食欲を刺激するくらい魅力的な香りを漂わせている。
城ケ崎さんが裸エプロンだったとしても、まずは胃袋を満たすのを優先するだろう。約二か月ほぼ使っていなかった台所で作られたとは思えないくらい美味しそう……いや、食べる前から美味しいと断言できる逸品だった。
そんなプロ級の生姜焼きを作った城ケ崎さんはそれが当然だと言わんばかりにさらりとこんなことを言った。
「美味しく食べる。家庭料理はこれが一番よ。作った私としても嬉しいもの」
「……え? そんなのでいいんですか? めちゃくちゃ簡単じゃないですか」
「その簡単なことができない人間も世の中にはいるのよ。料理を金額でしか評価できないつまらない人間が」
吐き捨てるように言って、冷めるから早く食べようと急かされた。
二人で一緒に使えるサイズのテーブルはまだないので、城ケ崎さんはイスもある勉強机で、僕は床に正座して小型テーブルを使ってそれぞれ食べ始める。
「うめぇ……」
マナーを気にするならもっと言い方というものがあるだろうと後から気付いた。だけどこれが素直な感想だ。思わず漏れた言葉にこそ本音が宿る。城ケ崎さんの寝言のように。
「当然よ。私が作ったんだもの。料理だって勉強して練習すれば上手になる。勇気も自分でできそうだって思うでしょ?」
「もしかして当番制になるんですか?」
「結婚したらね。お互い働くでしょうから」
「ヒモルートはないんですね」
「何か言った?」
「いえ、なんでも」
ポロっと漏れた本音は彼女の耳に届かなったようだ。仮に結婚できてもこのハイスペック女性と同程度の収入を自分が得られる自信がない。もしかしたらヒモになる可能性をほんの少し夢見たけど、対等な関係を望む城ケ崎さんに限ってそれはない。
テーブルマナーなんて全然わからないけど、城ケ崎さんの扱いは少しだけ心得た気がした。
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