第11話 段ボール
授業を終えて足早に駅に向かういつもより一本早い電車に乗ることができた。特快電車が通過するのを待たないといけないので一本と言ってもかなり時間に余裕が生まれる。
城ケ崎さんは買い物をしてくれると言っていたけど、もし早めに戻っていたら玄関の前で待ちぼうけになる。平日の夕方にお隣さんがどんな生活をしているのか僕は知らない。サラリーマンの方はたぶんまだ会社だけど、おばあさんはどうだろうか。
僕の彼女だと勘違いして変なお節介を発動しないとも限らない。結婚するというのがどこまで本気かわからないけど少しでも外堀を埋められるのを避けるため帰宅を急いだ。
しかし現実は残酷だ。すでに城ケ崎さんは玄関の前に立っていて、さらに段ボールもいくつか積み上げられていた。
「おかえり。早かったのね」
「それはこっちのセリフですよ。まさかもう帰ってるなんて」
「午後の講義が一つ休講になったのよ。だから買い物も済ませてここで待ってたってわけ。おかげで荷物も早めに受け取れたわ」
「えっと……お隣さんに会ったりとかは?」
「してないわね。平日だし、仕事とか行ってるんじゃないかしら」
城ケ崎さんの言葉にホッと胸を撫で下ろす。彼女を待たせたことはどうでもいい。一方的にうちに転がり込んでる居候の身ではあるんだから、僕がそこまで配慮する必要はない。
この段ボールの山と玄関の前に立つ美女との関係をお隣さんに勘繰られる前に帰宅できたことが何よりも嬉しかった。近所付き合いが薄いからこそトラブルが発生すれば大きな火になりかねない。
親のすねをかじって浪人している身分で女性関係のトラブルとご近所トラブルなんて起こしたら勘当されてもおかしくない。せめて僕の学力がぐんぐん伸びていれば印象も良くなるだろけど、今のところその兆候もみられない。勉強も私生活もボロボロなんて本当に最悪だ。
自分から望んでこの浪人生活をしているわけではないけど、お金を出してくれている両親には申し訳ない気持ちになって胸がギュッと締め付けられた。
「でもそうね、お隣への挨拶をしないのは失礼よね。今度の日曜日に伺わないと」
「いや、大丈夫。引っ越しの挨拶をして以来一度も顔を合わせてないから。生活リズムが全然違うんだと思う」
「ご近所付き合いは大切よ。特にこういう集合住宅ではね。ちょっとしたトラブルから大きな事件に繋がることもあるんだから」
「そのちょっとしたトラブルそのものだっていう自覚はある?」
京東大に入るくらい頭が良くて株で生活費を稼げるくらい経済にも詳しいにも関わらず城ケ崎さんは何を言われているのかわからないといった感じで首を傾げた。何でも知ってるような態度を取るのでこんな表情もできるのはちょっと意外だ。
「…………たしかにこの段ボールの量は邪魔ね。奥の部屋に行く時に迷惑だわ」
「あー、うん。そうですね。とりあえず中に入れましょうか」
天然で論点をズラされてしまってはどうにもできない。城ケ崎さんは自分の存在がトラブルだと自覚してないし、それをわからせる言葉を僕は持ち合わせていない。
彼女の気持ちを汲んで体での支払いを断り、家庭教師の教育を受けて結果を出せばもしかしたらエッチなご褒美をもらえるかもしれない。
そんな理想を夢見て、現実では親御さんと早く和解して何事もなかったかのようにこの部屋から去ってほしいと願っている。僕と城ケ崎さんの結婚なんて誰が見ても釣り合いが取れていないし、荷が重すぎる。
お金持ちの美人はイケメン俳優とでも結婚するのが自然なんだ。僕が背伸びして届くのは京東大に入るところまで。それより先は本当に想像できない。
「あら、持ってくれるのね。私の荷物なのに」
「そりゃ持ちますよ。早く片付けたいですから」
いつまでも段ボールが廊下に山積みだと他の住人から怪しまれるかもしれない。特殊詐欺グループのアジトになってるんじゃないかとか、怪しい植物を育ててるんじゃないかとか、僕だったら絶対に勘繰る。
日常の中に訪れた他人の非日常というのは心を躍らせるものだから。その非日常の当事者になるとさっさとこの異常事態を終わらせたいと思うのは結構なわがままだと思う。
「大変なことに気付いたわ」
「え? どうかしました?」
「この部屋、狭いわね。ベッドをもう一つ置けないわ」
「まさかベッドも買ったんですか? 最初から入らないってわかるでしょう」
「必要なものを揃えることに夢中だったわ。私としたことが大失敗ね」
「今からキャンセルできないんですか? ベッドくらいの大きな物だと配送まで時間掛かりません?」
僕がこのアパートに引っ越す時はシーズンということもあり家具の入荷が遅くて本当に四月から生活できるのか不安だった。ギリギリにはなってしまったけど無事に浪人生活をスタートできたのはきっと夜遅くまで働いてくれる大人達のおかげだ。
順調に行けば数年後には自分もその大人の仲間入りを果たす。年齢的な成人とは違う、社会の歯車として回り続ける生活を想像したら気が滅入りそうになったのでひとまず目の前の受験に意識を集中することにした。……どっちにしろ気が滅入った。
そして半年後の受験よりも先にこの段ボールをどうにかしないといけない。
「ベッドはキャンセルできたわ。でもテーブルとイスは買うから。食事をするにしても勉強を教えるにしても二人で使えるものじゃないと不便だから」
「入ります? そんな大きいの」
「そこまで大きくないわよ。夏は少し暑いかもしれないけど我慢しなさい」
「暑いってどういう」
「肩と肩が触れるくらいの距離になるってこと。将来結婚するんだから別に構わないでしょう? 夜は一緒のベッドで寝るんだし」
「は? 今なんて」
「ベッドをキャンセルしたんだから同じベッドで寝るしかないでしょう。昨日は床で我慢したけど、これから先も床で寝るのはさすがに厳しいわ。充実した人生を送るには良質な睡眠が欠かせないもの」
昨日自殺しようとした人間の口から充実した人生なんて言葉が飛び出ることにも驚いたし、それ以上に同じベッドで寝ることが一方的に決められていることに絶句してしまった。
一日くらいなら僕だって我慢できる。いろいろなものを天秤にかけて理性に勝ってもらった。正直、早くも我慢は限界を迎えている。賢者になるにしてもシャワーを浴びてる間にサクッと済ませないといけない上に、お湯で固まるから処理が面倒だ。
それに賢者になっても刺激的な夜が連日続けばいつまでも理性が勝てるとは思えない。一週間以内に城ケ崎さんの親御さんが強制連行してくれると決まっていれば耐えることはできるけど、実際のところ目途は立っていない。
無期限に続く欲望との戦いは地獄以外の何者でもない。ただでさえ勉強漬けの浪人生活にさらなる重荷が降りかかるのは本当に勘弁してほしい。
「ま、これも勇気だからできるんだけどね。寝ている女の子を襲う度胸がないから安心して同じベッドで眠れる。一日で見抜いてしまったわ」
「そうですか……」
「だからと言ってそういう欲求がないわけじゃない。ちゃんと自分の欲求と社会的な立場を天秤に掛けて理性的な判断ができるのは素晴らしいことよ。それができなきゃ猿と同じ。京東大にも猿が多くて困ってるの」
「あー、京東大もそういう感じなんですね」
「それか変な自信家ね。大学に入るまで恋愛したことないのに京東大に入って恋愛までマスターしたと勘違いしてる男。思い出すだけで腹が立つわ」
城ケ崎さんの表情が険しくなっていくと同時に背後にメラメラと炎が見えた気がした。これ以上深掘りすると僕にまで延焼しそうな気がしたので黙って段ボールに搬入に戻る。
城ケ崎さんの恋愛遍歴なんで僕には何も関係がないのに、ほんの少しだけモヤっとした。きっと部屋が散らかっているからだ。綺麗に片付けが終わる頃にはきっと靄が晴れている。
そんな風に考えないと作業が進みそうになかった。
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