第10話 変わらない教室

 駅までの道のりでひと悶着あったものの、お互いに成人を迎えているので電車内では静かに過ごした。もちろん僕は単語帳を開いて一つでも多くの語彙を習得しようと励んでいる。

 城ケ崎さんはと言うとまるで受験生のように本に目を通していた。


「そんなの持ってるんですね」


 この言葉の前には『自殺しようとしてたのに』が隠されている。いくら小声でもあまりにもセンシティブ過ぎるワードはつい耳に入ってしまうものだ。さすがの僕もそれくらいの配慮をする勘は備わっている。


「英語って使わないとどんどん抜けていくからね。受験英語と英会話は全然違うけど教えるのには十分なはずよ」


 チラリと目に入ったその本には英語しか書かれていない。英会話を学ぶ本には英語とそれを解説する日本語が書かれているものだけど、明らかに日本人向けに作られたものではない。

 日本人が母国語として日本語を勉強するように、英語圏の人が英語を学ぶのに使うような本だ。


「受験勉強なんて人生の役に立たないと思われがちだけど……まあ、たしかに入試以来使わない知識もあるわね。全部が全部じゃないわ。少なくとも英語は絶対に活かせるんだから、こんな風に勉強するのも良いと思うわ」


「さ、参考にさせていただきます」


 日本語で解説されても文法や助詞の使い方にあくせくしているのに英語で英語を解説されたら時間が無限にあっても足りない。まさか今夜からあれで勉強するんじゃないだろうな?


 エッチなご褒美の存在に心が踊ったけど、そのご褒美に辿り着ける気がしない。たぶんその前に城ケ崎家の問題が丸く収まってこの家庭教師もすぐに契約解除だ。


 そんな都合良く成績が伸びてエッチなことができるなんて夢みたいな話があるはずない。ちゃんと現実を見よう。たぶん人生の中で起きる夢みたいな体験は昨日で全部済ませた。ここから先にあるのは現実のみ!


「本当に近いわね。通学時間が短いのは羨ましいわ」


「そうは言っても徒歩で行けるほどじゃないんですけどね。電車が止まったらさすがに足止めです」


「たまには歩いてみるのもいいかもしれないわよ。体力作りも兼ねて」


「皮肉のつもりだったんですけど」


 その電車を止めそうだった張本人は何事もなかったかのようにホームに降りた。あれだけ写真を動画を撮られてた上に美人とくれば印象に残る。誰か声を掛けるんじゃないかとヒヤヒヤしたけど特にそんなこともなく、いつも通りの満員電車と人が溢れるホームを味わった。


「変わらないな」


「別に法を犯した犯罪者じゃないもの。堂々と今まで通り生活していればいいのよ」


「それ、城ケ崎さんが言います?」


「だって実際には飛び込んでいないもの。電車も遅れなかった。なんなら私の写真をみんなに撮らせてあげたのよ? お礼を言われるくらいでちょうどいいわ」


「その精神力を見習いたいです」


「ぜひともそうしなない。受験は日々の鍛錬の積み重ねと最終的にはメンタルよ」


 強がっているだけで心の片隅で昨日のことを気にしているという様子は一切ない。自分がこの駅を利用するのは当然で、何も悪いことをしていないと本気で思っているのが伝わってくるようにスタスタと階段を降りていく。


 昨日の駅員さんに見つかったら気まずいとか考えないんだろうか。こっちは気が気がじゃないというのにお構いなしだ。


「私はこっちだから。しっかり勉強するのよ」


「親みたいですね」


「生徒は子供みたいなものよ。たぶんね」


 本来なら訪れるはずがなかった今日という日を全く悲観することなく城ケ崎さんは通っていた京東大へと向かっていった。大学生活が嫌で自殺しようとしたわけじゃないからなんだろうけど、好きでもない男と結婚させられる件にはついては何も解決していない。


 人生における大きな悩み事が残っているのに、それをもろともしないメンタルは本当に見習いたいと思った。


「僕も行くか」


 時刻は七時五十分。予備校は自習室が空くけど、大学はどうなんだろう。合鍵もないから一緒に出るしかなかったとは言え、城ケ崎さんには少し悪いことをした。


「いや、勝手にうちに来ただけだし、こっちの都合に合わせてもらわないと」


 本来なら命の恩人でさらに寝床まで用意した僕が優位なはずなのに、どうも城ケ崎さんのスペックの高さゆえに振り回されてしまっている。


「まさか予備校で安堵する日が来るとは思ってなかった」


 八時になると同時に開かれた扉を僕と同じ浪人生達がくぐっていく。毎日同じ時間を過ごしているのに名前も知らない人達。いつも同じ電車に乗る人と同レベルの認知度にも関わらず、毎日顔を見るだけで妙な親近感が湧くから不思議だ。


 鎮まり返った自習室でそれぞれが勉強を始める。スマホをイジっている暇はない。それぞれの目標に向かって、もう失敗するまいと必死だ。


 京東大を目指す明確な目的がない僕にとってこの空間は全く落ち着かないはずだったのに、このヒリついた空気が自分の日常だと認識させてくれる。予備校にいる間だけは今までの生活と変わらない。


 家以外に居場所があるって大事なんだと実感した。


 たぶん城ケ崎さんにとっては大学がその居場所で、だから退学手続きをしないで自殺しようとした。あくまで推測だから何の根拠もないけど、そんな風に感じられる大学なら、自分も行ってみたいと思えた。

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