第13話 家賃問題
「ところで城ケ崎さん」
食器を洗いながら水の音にかき消されないように気持ち大きめな声で話し掛けた。壁の薄さは気になるけど、あえて隣人の耳に入るようにすることで退路を防ぐ目的もあった。
「実際のところ家賃はどうしましょう」
「問題ないわ。私が払うから」
「そうじゃなくて、この部屋は僕が一人暮らしするために借りてるんですよ。何日か城ケ崎さんが泊まるくらいなら問題ないですけど、受験が終わるまで住み込むのはちょっと……」
「なら契約内容を変えましょう。大家さんの連絡先を教えて」
「そんなことしたらうちの両親にバレるじゃないですか!」
別にすぐ追い出すわけではない。浪人生が女を連れ込んで泊まらせるのは如何なものかという社会一般の通念は置いておいて、数日契約者以外が泊まるのはあり得ることだ。
すでに服は届いているけど、ベッドと同様にテーブルとイスは今日ならまだキャンセルできるはず。なんならキャンセル料は僕が払ってもいい。空腹を我慢すればいいだけだ。むしろ空腹が睡魔を追い払ってくれるから受験勉強には良いかもしれない。
「勇気のご両親は私が説得するわ。生活費を負担して無料で現役京東大の家庭教師まで付いてくる。泣いて喜ぶんじゃないかしら?」
「出会った経緯を説明したらまず城ケ崎さんの親御さんに連絡しそうですけどね」
「……それは一理あるわね」
その可能性を完全に失念していように、右手で口を覆って深く考え込む。頭が良いのか悪いのかよくわからない。基本スペックが高すぎるゆえにちょっと常識からズレていて、普段見せている姿がどれも輝いているから一つの小さなポンコツが際立ってしまう。
不良が捨て犬を助けると評価が爆上がりするのと原理は同じだけど現象は真逆というのはちょっと不憫だ。僕とは縁のない類の悩みだけど同情してしまう。
「今は考えても仕方ないわ。大家さんだってこんな夜中に連絡されても迷惑だろうから」
「あ、それはたぶんへ」
「先にシャワーを浴びてもいいかしら? 今まで使ってたお気に入りのボディスポンジを買えたからそれを使いたいの」
家賃問題について話し合いたくないのか逃げるように浴室に入ってしまった。昨日はいろいろあって洗濯しなかったけどさすがに二人分の二日分となるとそろそろ洗濯しないとマズい。
単純計算で四日分の洗濯物が溜まってしまうわけだけど、この小さい洗濯機は一回で全て済ませられるだろうか。一応毎日コツコツ洗濯していたので洗濯機の限界を知らない。
「そもそも城ケ崎さんのものと僕のを一緒に洗濯していいのか? めちゃくちゃデリケートな素材な気がする」
特に下着なんてどう処理すればいいのかわからないし、外に干すのは気が引ける。あからさまに女性がここで生活しているとアピールしているようなものだし、二階くらいなら下着泥棒は簡単に獲物をゲットしていくはずだ。
「でも中に干すのもなぁ」
日中は家を留守にしているとは言え、城ケ崎さんの下着がぶら下がっている空間で朝食をいただくというのは精神衛生上良くない。下着そのものに欲情する自分は全く想像できないけど、その下着の持ち主が一緒に生活しているという状況は良くない。
いくら美味しい料理を食べることが最優先の欲求だとしても、食べ終えてしまえば次の欲求を満たしたくなるのが人間というものだ。
「マジで早く実家に戻るか一人暮らししてもらわないと困るな」
契約していたマンションを解約したのならおそらく保証人だったであろう親御さんにも連絡がいくはず。解約したのに実家に戻ってこない。不思議に感じてものすごい勢いで連絡してきたり、それこそGPS機能を使ってここに辿り着いてもおかしくない。
その辺の機能をオフにしても警察ならあの手この手で調べられるはずだ。
家族や警察がこの部屋に城ケ崎さんを探しに来る気配が一切ない。仲が悪いにしても、城ケ崎さんの結婚と会社の経営は何か関係がありそうだから娘を放置するのも考えにくい。
水音に混じって鼻歌が聞こえる。段ボールと違って未解決の問題は山積みなのにのんきなものだ。家賃問題については城ケ崎さんだって逃げたくせに。
受験以外の難問が次々に振りかかって胃がギュッと締め付けられる。とても鼻歌なんて歌える気分じゃない。
「あのメンタルと対等なんて絶対無理」
幼い頃から自己肯定が高くないとあの領域には辿り着けないと思う。ろくに青春もせず浪人してくすぶっている男があのお嬢様と対等になるなんておとぎ話レベルだ。
「よしっ! 説得しよう。相手の男がどんな人か知らないけど、僕よりは将来性がある。絶対そうだ」
決意と共にシャワーの音が止まった。勉強している風を装おうために今日学んだ範囲の問題集を開く。
知識や解き方を教えてもらえば簡単に解答できる。だけど、解き方を教わっていない問題に当たってしまったら?
入試と人生は似てる。違うのは、入試には明確な解答が用意されていて、人生は最良の回答だったかすぐにはわからないところだ。
僕が城ケ崎さんを説得するのは本当にみんなが幸せになれるルートなんだろうか。少なくとも自分の生活は元に戻るのに、どこか心の奥がモヤモヤする。親の言いなりになる辛さや大変さを知っているからこそ、自分が選んだ道が正しいのか自信を持てなかった。
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