第6話 支払い
城ケ崎さんのキメ顔と共に訪れた静寂は防音性の悪いアパートすらも無音にした。空気が凍るとはこのことだろう。今夜は冷え込むから早くジャージを着た方がいい。
そうアドバイスしたいのはやまやまだけど、強調された胸が気になって城ケ崎さんの顔を見ることができない。
僕が無敵の人だったら何も考えずに襲っているところだ。親に迷惑を掛けたくない一心でどうにか欲望を抑え込んでいる。
「それとも家庭教師より、私が体で支払う方が良かった?」
「ふぇっ!?」
あまり女の子の口から発せられないであろう体で支払う発言につい顔を上げてしまった。目の前にはバスタオル一枚だけでその美しいボディを隠す美人。しかもその美人の方から体で支払うことを提案してくれている。
まるでエロ漫画みたいな展開に欲望が理性を置いてけぼりにせんばかりに全力疾走していく。
「その代わり家庭教師の話はなし。今夜限りで私たちの関係はおしまい。こっちがお好みなら、それでもいいわ。あ、明日届く荷物は処分しておいて。彼女を部屋に呼ぶ時、知らない女物があるとイヤでしょ?」
「ちょっ! いきなり体で支払うとかそんな」
「相場はわからないけど、私なら一晩十万円くらいの価値はあると思うんだけど、どう? 長い目で見たら家庭教師の方が絶対お得だけど、モテない浪人生は熱い夜の方が好みかしら?」
「話が飛びすぎですって。結婚するとか今夜で終わりとか、極端過ぎるんですよ」
ヤリたいかヤリたくないかで言えばヤリたいに決まってる。目の前にこんな美人が裸同然でいて、何も感じないはずがない。高校生も大学生も、浪人生だって猿みたいなものだ。
今我慢できているだけでも自分を褒めたいくらいに僕はムラムラしている。
「私も経験がないから勇気を満足させられるかはわからないわ。勇気もどうせ初めてだろうからお互い様ってことでいいわよね?」
「え? はじ……めて? いやいや、そんなアピールされても」
「モテるのと恋愛経験は別なのよ。だって私と対等の男なんていないんだもの。京東大生で私と同じくらい稼いでないと奢りっぱなしになるじゃない」
「それはいくらなんでも高望みしすぎなんじゃ……」
「だから私は勇気を育てるの。変にプライドが高い京東大生を調教するより、他人を助けられる勇気を調教する方が見どころあるでしょ?」
「育てるから調教に変わってるんですがそれは……」
「言葉の綾よ。勉強だけじゃなくて運動も教養も私と同レベルになってもらう。これを習い事で学ぼうと思ったらすごいお金が掛かるわよ?」
城ケ崎さんの調教……ドMには堪らない響きなんだろうけど僕の心は全く揺れなかった。だからと言って一晩の快楽に溺れるのもなんか違う。ウソか本当か経験がないと言っていたのも気になる。
勝手に童貞扱いされたのは心外だけど事実なのでこの際不問としよう。好きでもない男と結婚させられるのが嫌で自殺しようとした人が、好きでもない男と寝るのは間違ってる。
事情を知らずに助けたけど、事情を知ってしまった以上は彼女の気持ちを尊重したい。突然のチャンスに及び腰になっているわけじゃなく、僕は紳士なんだ。
「わかりました。家庭教師コースでお願いします。好きでもない男と初体験なんて死ぬほど嫌でしょう? っていうか、朝起きたら隣で自殺されてたなんて最悪ですから。天国から地獄ですよ」
「そんなこと言って、私が寝てる間にあんなことやこんなことを」
「しませんって! 親は子供のためを想ってくれてるのかもしれないけど、無理矢理にっていうのは嫌なことだって僕も知ってますから」
京東大に入れば周囲からの評価が変わる。僕個人だけじゃなくて両親もだ。京東大生の子を持つ親。近所でも会社でもさぞ鼻が高いだろう。いざ入学してら大学の勉強に付いていくのは大変かもしれない。でも、一応京東大卒の経歴は残り、どこにも就職できないという悲しい事態は避けられる。
僕のことを想って浪人生活を送らせてくれているのはわかっていても、僕自身が頼んだわけではないという事実が小さなトゲになってちくちくと胸を刺し続ける。
「それじゃあ明日から住み込みの家庭教師になるからよろしくね。入試の傾向も大きく変わってないはずだからきっと役に立つわ」
「…………あっ」
「気付いたみたいね。勇気は私が家庭教師をやることを選んだ。そうよね?」
「まさか、最初からそれが狙いでめちゃくちゃな提案を」
「すでに一年間大学生として生きているのよ? それに言ったでしょ? 私はモテるって。一度や二度、そういう経験もあるわ」
「ハ、ハメられた……」
城ケ崎さんの身と心を案じたのが間違いだった。こんなことなら欲望に従ってハメておけばよかったと後悔してももう遅い。千載一遇のチャンスを逃した後悔が雪崩のように押し寄せる。
「ジャージ、借りるわね。着替えくらいなら覗いてもいいわよ。下着は付けてるし」
「覗きませんよ」
童貞卒業の大チャンスを逃したのにも関わらず中途半端にエロに触れれば感情がぐちゃぐちゃになってしまう。家庭教師コースを選択した以上は城ケ崎さんとのエッチは期待できない。
受験に失敗した時ですらこんなに悔しい気持ちにはならなかった。膝をついて頭を抱えて、嗚咽を漏らしたいのをグッと堪えているとしょっぱいものが口に入った。
「ははは……泣くほど悔しいんだ」
初体験じゃないなら好きでもない男と一回くらいならヤラせてくれる。これがモテる女子大生の生態。チャンスは逃したけど学びは得た。京東大にもエッチな先輩は存在する。勉強だけじゃない生活がそこにはある。
「どうしたの? うなだれて?」
顔を上げると僕のジャージをまとった城ケ崎さんが立っていた。だぼだぼのジャージにも関わらずその膨らみの存在感は健在で、見上げることでボリュームを堪能することができた。
「人生について考えてたんです」
「そう。私と対等の人間になる覚悟を決めてたのね」
「そうではないです。でも、京東大を目指すモチベーションは少し上がりました」
「ふーん。どういう心境の変化か聞いてもいい?」
「…………いや、それはちょっと」
「どうせ、エッチな先輩がいるから京東大に入りたいとかでしょ? 残念だったわね。私との初体験ができなくて」
「ち、違うわ! 僕は城ケ崎さんみたいな高圧的な人より、優しくてふわふわした子と仲良くなりたい」
「あー、そういうのはいざ付き合うと横暴だから。猫を被ってるってわかりなさいよ。これだからモテない男は」
「モテないのは関係ないでしょう! それにほら、京東大に入るくらい勉強した人ならキャラ作りする余裕もないだろうから、きっと本当にふわふわしてると思うんです」
「…………勇気がそう思うのならそうしない。それで勉強に身が入るならそれでいいわ。それに、結局最後は私と結婚するのよ?」
城ケ崎さんと結婚なんてごめんだね。なんて言葉を簡単に口にすることはできなかった。現段階では結婚なんて未来の話過ぎて実感がわかないし、この先の人生でお互いにいろいろな出会いだってある。
例の好きでもない男と比べて僕の方がマシということにしたって、結婚を決めるのはあまりにも早計だ。
だからと言って、絶対に合格するから将来は結婚しようと約束することもできない。どうせならふわふわした女の子と付き合いたいし、男を調教しようとする危険な思想の持ち主と一つ屋根の下で暮らすなんてごめんだ。
「ところで、もし来年も不合格だったら僕はどうなるんですか?」
「私と一緒に死ぬのよ」
全人類を魅了できそうな満面の笑みで彼女は言った。その瞳の奥に光はなく、よほど親が決めた結婚相手が嫌いなんだなというのが伝わってきた。
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