第7話 寝言

 熱で固まるとわかっていても一度賢者にならなければ今夜を乗り越えることはできない。普段よりもシャワーの勢いを上げて煩悩と共に全てを洗い流した。


「本当に床でいいんですか? 僕がネカフェで」


「この部屋の主は勇気。私は押し掛けてるだけでお客様じゃない。浪人生は自分の体を第一に考えなさい。さもないと」


「わかりました。通報だけはやめてください」


「よろしい」


 なんで命の恩人が助けた相手に脅迫されてるんだ。ジャージに着替えた城ケ崎さんはスマホをいじりながらまるで自分の部屋のようにリラックスしている。周りから羨望の眼差しを向けられ続けて自己肯定感が高いとこういう性格に育つのだろうか。自分とは全く違う生き物として認識するしかなさそうだ。


「予備校って学校と同じような時間割なの?」


「そうですね。八時から自習室が解放されて授業は九時から。僕は現役生コースが始まる夕方までびっしりって感じです」


「なるほど。それであの時間に帰りの電車を待ってたわけだ」


「高校生と同じ感覚で……って言ったらダメなのかもしれないですけど、生活リズムが変に崩れてないのは良いかなって思ってます」


「そうね。入試は昼間に行われるから日中に力を発揮できないとね。そうは言っても夜の勉強も大事。厳しく家庭教師するから覚悟しなさい」


 色気の欠片もないジャージをまとっているにも関わらず、城ケ崎さん自身から漂うお姉さん的なオーラが『夜の勉強』というキーワードに深い意味をもたせた。さっき賢者になったばかりなのに早くも戦士に転職しそうだ。


「ちょっと暑いかもですけど、よかったらこれ使ってください」


 押し入れにしまっておいた冬用のふとんを下ろして城ケ崎さんに渡す。だいぶもこもこしているから、これにくるまれば温かいし床の硬さも誤魔化せるはずだ。


「ありがと。気が利くのね」


「お客様じゃないにしても、女の子を床に寝かせるのは罪悪感がある」


「私は一緒のベッドでも構わないんだけど?」


「この狭いベッドで二人は厳しいでしょう。もしかして布団も買ってたりします?」


「寝袋を買ったわ。もう一個ベッドを置くスペースはないし、ダブルベッドも入らないでしょう?」


「……本気でここに住むつもりなんですね」


「もちろん本気よ。他に行くあてもないし」


「実家は遠いんですか? 学生の間に結婚するわけじゃないでしょうから、卒業までの間はおとなしく実家暮らしとか」


「無理よ。年齢的には全然結婚できるから。実家に帰るくらいなら死んでやる」


「わかりましたよ。ひとまずこの部屋を使ってください。明日も早いのでもう寝ます。おやすみなさい」


 簡単に死ぬと口にして周囲の気を引くのではなく、本当に自殺を実行に移した城ケ崎さんだからこそその言葉の重みが違う。実家に帰りにくいのは僕も同じなので、立場は全然違うけどその気持ちには共感できた。


「おやすみ。勇気。もしムラムラしたら襲ってもいいわよ?」


「襲いません! 授業中に寝るわけにはいかないので本当に寝ますから」


 部屋の照明を消してタオルケットを被る。音も光もシャットアウトして自分だけの空間を作りたい気分だった。

 この部屋に人生で出会った中で一番の美人がいる。しかも襲っていいと本人の許可も出ている。もちろんこの許可は冗談だろうし、本当に襲ったら人生終了だ。

 

 賢者から戦士に戻りつつある脳を強制的にスリープ状態にすべく羊を数えてみる。この睡眠術がなぜ古来から伝わっているのか。答えは簡単。効果があるからだ。

 羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹と延々と数え続ける。十匹程度ではまだ眠くならない。勝負は百を超えてからだろう。


 どこまで数えたかうっかり飛ばさないように数字に意識を集中させているおかげか煩悩を羊が吹き飛ばしていく。


 目は冴えているけどとりあえず変な気を起こして逮捕されるルートは回避できそうだ。予備校の授業は気合で乗り切ろう。寝不足のまま試験に挑む訓練だと思えば悪くない。


「……パパのバカ」


 静寂に包まれた部屋の中に響く小さな声。右隣はおばあさん、左隣はサラリーマンが暮らしているので住人の声ではない。そして一か月以上暮らして心霊現象にも遭遇していないことを踏まえると、その声の主は間違いなく城ケ崎さんだ。


「あんな男……私が、どうにかする」


 男というのは好きでもない男のことだろう。どうにかするってまさか……自ら命の断つのもダメだけど、他人を殺すのもダメだ。

 自殺を実行に移してから数時間で立ち直っているのはちょっと違和感があった。まさか相手を殺すと決めて興奮状態になっていたのか?


 だから自分の体で支払うとか、家庭教師になってここに住むとかめちゃくちゃなことを提案したのかも。


 もしそんな兆候があったら、全力で止めよう。もう勝手に自殺されても、殺人で逮捕されても無関心でいられるような間柄ではなくなってしまった。

 正直振り回されているのは迷惑極まりないけど、こんな風に感情が大きく動いたのは久しぶりで、本人には絶対言えないけど楽しかった。


 こんなにも女の子と触れ合ったのは人生で初めてだ。城ケ崎さんに罵声を浴びせられて、裸に近い恰好まで見て、最悪なのか最高なのか自分でもわからない。そんな簡単に評価できないような浪人生活で体験するとは思ってもみなかった。


 目標もなく勉強をする灰色の日々に落ちた一滴の絵具。その一滴がめちゃくちゃ濃厚で、忘れたくても忘れられないとても綺麗なものだとしたら、浪人生活も捨てたものじゃなかったと後から振り返ることができる。


 だから、僕が京東大に合格したらお礼を言おう。あの日があったから合格できたと。今は素直に感謝できない。さすがにあまりにも理不尽だから。

 そのためには自殺も殺人もさせない。僕みたいな不出来な息子と違って、城ケ崎さんは素敵な娘だ。親御さんだってきっと話を聞いてくれる。


「ぐす……私は会社の道具じゃない」


 会社というキーワードが突然出てきた話が見えなくなった。株で儲けていることと関係がありそうで、こうして家出状態でも稼げていることを考えると無関係なようにも思える。


 夕食を共にして、同じ部屋で寝ているので感覚がおかしくなっているけどまだ出会って一日も経っていない。お互いのことをよく知らないのは当たり前だし、どんな家庭で育って普段どんな生活をしているのかを知らないのも当然だ。


 美人で頭が良くて自分でちゃんとお金を稼いで、それでも自殺するくらい思い詰めてしまう。

 浪人して勉強が辛くて死にたいのなんてすごくちっぽけな悩みに感じる。だけど僕にとっては本当に悩んでいることだ。


「明日からどうするんだろ」


 僕が予備校に通う。浪人生は勉強だけしていればいい。だけど城ケ崎さんは……。部屋の解約をしたら保証人である実家にも連絡がいくだろうし、ちょいちょいスマホをいじっていたのは通販だけじゃなくて親と連絡していたのかも。


「城ケ崎さんの親も気が強そうだ」


 たぶん僕が何を言っても全て論破される。こっちからしたら親子喧嘩に巻き込まれてるわけだし、あくまでも中立な立場で穏便に済ませよう。下手に刺激して殺人を起こされても困る。富も名声も力も何もない浪人生にできるのは中立の立場で間に入ってお互いの頭を冷やさせることくらい。


 料理はおいしかったとお礼の言葉を添えて、断じて誘拐ではなく、彼女の方が半ば強引にうちに来たと説明もして、これで一件落着だ。


「城ケ崎さんの親御さん、早く娘を迎えに来てください」


 きっと一週間もしないうちに迎えが来てくれる。そうすればこの悶々とした同居生活も終わって、僕は晴れて勉強に集中できる。

 人間というのは心配事があると眠れないものだ。もちろん入試は最も大きな心配事であるけど、まだ一年近く先の話。目の前に突如現れた理不尽な心配事が解消されたことで、眠気が一気に押し寄せた。


 城ケ崎さんの親子喧嘩は僕の入試に比べればずっと簡単で、お互いの行き違いを正せばすぐに解決できる。そう思った。だから明日からはちゃんと自分の勉強を頑張ろう。その決意を固める前に僕の脳はスリープモードに入ってしまった。

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