第8話 新生活

 トントントントン


「ん…………」


 カーテンの隙間から差し込む日差しと聞きなれない音に若干脳が混乱している。意識がなくなったのは普段より遅い時間だったような気がしたけど不思議と体は軽い。久し振りによく寝たという感覚を味わっていた。


「夢じゃなかったか」


 城ケ崎さんが台所で包丁を使っていた。実家暮らしの時ですら朝にまな板と包丁の音を聞いて目覚めるということはなかったから、テンプレート的な朝の光景は夢のようであり、美人を自殺から救いなぜかうちに転がり込んでいるという夢みたいな話は現実だったことを認識させられた。


「おはよう。私もここで暮らすんだから使っても構わないわよね?」


「本気なんですね。朝起きたら出てってると思ってました」


「出ていかないわよ。日課のジョギングはしてきたけど」


「は?」


「ジョギングよ。足腰が弱いとどんなにトレーニングをしても身に付かないもの。勇気も明日から一緒に走るからそのつもりで」


「待ってくださいよ。なんで僕まで」


「受験は体力勝負。体力と学力と財力はどんなにあっても困らないから」


「正論っぽいけど意味がわかりませんよ。疲れて予備校で寝たら意味ないじゃないですか」


「最初は睡魔との戦いになるかもね。だんだん体力が付いてくれば居眠りの心配もなくなるわ。入試当日がベストコンディションとは限らないんだから、日頃から劣悪な環境に慣れておくのも大事よ」


 話しながらも包丁を動かす手は止まらない。昨日のハンバーグ作りもだけど、家庭料理を作り慣れている。恋愛経験どころか同棲経験もありそうな腕前だ。コンビニで買ってきたと思われる野菜をどんどん切り刻んで鍋に放り込み、味噌を加えると安心感のある良い匂いが漂った。


「コンビニで買ってくるならインスタントで良くないですか?」


「時間がない時はね。私に釣り合う男を目指すなら時間を有効活用して食事にも気を遣いなさい」


「別に目指してないんですけど……」


 僕の小さな反撃は耳に届かなかったようで城ケ崎さんは調理を続ける。普段はコンビニで買っておいたおにぎりかパンで済ませているので朝からちゃんと食べられるかちょっと不安ではある。


「って、まだ六時半。何時に起きたんですか?」


「今の季節なら五時には日が出ててるからその少し前ね。さすがに冬は周りも暗いから朝食を摂ってから走りに行くけど」


「食べてすぐに走る……うへぇ」


 城ケ崎さんがいつまでうちに居るかはわからないけど、もしこのままの状況が続くなら冬の寒空の下を走ることになる。好きでもない男と結婚しろとは言わない。せめて実家に戻るなり改めて部屋を借りるなりして僕とは別々の人生を歩んでほしい。城ケ崎さんの意識の高さにはとてもじゃないけどついていけない。


 だけど焦ってはいけない。迂闊に家族との仲直りを勧めれば余計に頑固になってうちに居座り続ける。今は久し振りに食べる温かい味噌汁で心を落ち着けよう。インスタントの尖った濃い味付けも嫌いではない。でも、いろいろな野菜と塩分に気を遣ったと思われる優しい香りは寝起きの胃袋をゆっくりと確実に刺激する。


「早く着替えて。自習室は八時には開くんでしょう? せっかくお金を払ってるのなら施設を存分に活用するのよ」


「城ケ崎さんってお金を持ってそうなのに倹約家なんですか?」


「限りあるリソースを有効活用するのは当然よ。失ってからでは遅いもの。なんでもかんでも節約して心が貧しくなるのは良くないけど、お金を使った分のサービスは受ける権利はある。浪費とは違うの」


「そういうものなんですか」


 今使っている調理器具にしろコンビニで買った野菜にしろ、最安値ということはない。迷わずスパッと買い物をできるくらい稼いでいるっぽいから無駄遣いにも抵抗がないのかと思いきや、意外と現実的な一面も持ち合わせている。


 これだけちゃんとしているのなら親が結婚相手を選ばなくても変な男に引っ掛かることはなさそうなのに……本当にちゃんと話し合いさえすれば丸く収まる気がする。


「あ、うちに来ちゃってるか」


 変な男ではないと自分では思っているけど将来性は皆無の浪人生。そんな男と結婚するとか言い出してるんだから親御さんに心配されても仕方がない。


「なんか言った? ジャージで食事なんて行儀が悪いわ」


「言うほど悪い? 学生の時はよくジャージでご飯食べてたけど」


「それはジャージが制服みたいなものだからよ。今日一日を過ごす服をしっかり着て、汚さないように食べる。汚れてもいい服だと気が緩んでしまうわ」


「誰も浪人生の服なんて気にしないって。城ケ崎さんは違うけどさ」


「昨日までの勇気ならね。京東大に入ってゆくゆくは私と結婚するんだから、私と同じように身だしなみにも気を配りなさい」


「わかったよ。じゃあ、こっち見ないでね」


「見るわよ。勇気の体がどれだけたるんでいるかチェックしないと」


「昨日だってシャワー上がりに見たじゃないですか」


「勇気が私の体をね。見られた分はしっかり見返さないと対等な関係とは言えないでしょ?」


「ほら、手元に集中しないと危ないですよ。刃物や火を使ってるわけだし」


「その心配ならいらないわ。勇気の着替えが終わったあとに目玉焼きを作るだけだから。まったく、炊飯器もないなんてどうやって生活してたのかしら。パックご飯も玄米とか五穀米があるから捨てたものではないけど、私は自分好みの硬さで炊くのが好きだわ」


「えーっと、なんの話でしょうか?」


「勇気のボディチェックが終わらないと朝食が完成しないって話よ。今はまだだらしない体でも構わないから、じっくり観察させなさい」


「わかったよ……」


 狭いアパートの一室に逃げ場はない。ここの主は僕のはずなのに主導権は完全に城ケ崎さんに握られていた。


「全部脱ぐ必要はないでしょ?」


「当たり前じゃない!」


「しーっ! 壁が薄いから大きい声出さないで」


「……悪かったわよ。でも元はと言えば勇気が」


「あー、わかったわかった。脱ぐから。腹筋は割れてないし腕も細い。ヒョロガリで申し訳ありません!」


 インナーをたくしあげて腹を晒す。これが女の子ならへそや下乳が見えたりしてとてもエロいんだろうけど男がやっても何も嬉しいことがない。ダンスのために体を鍛えたアイドルなら違うんだろうけど、しがない浪人生にセクシーな体を求められても困る。


「ふむふむ。あまり余分な脂肪は付いてないわね。これなら食事と運動に気を付ければそれなりに」


「僕、そんなにジロジロ見てました?」


「いいじゃない。減るものじゃないんだから。なるほどなるほど」


「あひゃあっ!」


「ビックリした。大きな声出すなって言ったのは勇気よ?」


「城ケ崎さんのせいでしょ。急に触るから」


 小学生の頃は脇腹をくすぐられるのにめちゃくちゃ弱くてからかわれていた。中学に上がってからは同級生とそんなスキンシップを取ることもなくなり、数年ぶりに他人が脇腹を触った。


 それも男のそれとは同じとは思えないくらい柔らかで繊細で指先で、優しく触られたら愛撫と変わらない。人生で体験したことのないくすぐったいとも少し違う刺激が脳天を突き抜けた。


「だいたいわかったわ。私が生活面でも家庭教師になれば完璧ということが」


「なにもわかってなくないですか? 京東大に合格するための勉強と筋トレを両立するなんて無理ですよ」


「やる前から諦めるのはよくないわ。こういうのは日々の積み重ねなの。入試までは半年以上あるし、体を鍛えるのは一生モノよ。最期の瞬間まで目標があるって好きなことじゃない」


「昨日死ぬ気だった人に言われても説得力がないんですけど」


「私は昨日も朝のジョギングをしてきたわ。最期だからって暴飲暴食をせず、日々磨き上げた美しい自分で死ぬつもりだった」


「そこまでストイックになれるなら親と話し合うこともできるんじゃないですか? それこそ、やる前から諦めてるっていうか」


「さ、そろそろ朝食にしましょう。机、借りるわね?」


「え……あの、露骨に話題を変えましたよね。やる前から諦めて……」


「今日は夕方にいろいろ荷物が届くから、新生活の本格スタートよ」


 言いながら城ケ崎さんは台所へと逃げていく。距離的にはほとんど変わらないのに、料理モードに移行されると僕には手出しができない見えない壁みたいものが現れる。


「私をお金で支配できると思ったら大間違い! 私は自分で稼いで、自分で欲しいものを手に入れる。家事だってできるんだから」


 城ケ崎さんの言葉に呼応するようにコンロの火が強くなった。その言葉が親に対してなのか、それとも結婚させられる好きでもない男に対してなのか、はたまた生活を共にする僕に対してなのかわからない。もしかしたら全員に対してなのかもしれない。


 僕と一つしか年齢が変わらないのにしっかりと自立している城ケ崎さんは、一体どれだけの努力をしてきたんだろう。そんな彼女と結婚する未来はまるで想像できない。


今日から始まった城ケ崎さんとの新生活は不安でいっぱいだ。だけど、脇腹に残った彼女の手の感触がほんの少しだけそれを和らげてくれた。

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