第17話 節約術
「あら、もうこんな時間」
窓の外に目を向けると夕方になりかけていた。街を照らすオレンジ色の光は日曜日の終わりを告げる合図みたいで寂しくなる。
「ずいぶんと集中してたわね。偉いわ」
「ゴマをするわけじゃないですけど、城ケ崎さんって教えるのが上手だから勉強に集中できるんですよ。それこそ本当に塾の講師や家庭教師になれますよ」
「感覚で問題を解かずにきちんと内容を理解して学んできたからね。勇気も京東大に合格したら家庭教師のバイトでもしてみれば? 引く手あまたよ」
「僕が誰かに教える姿……あんまり想像できないです」
京東大に合格していれば学力的には何も問題はない。問題はコミュニケーション能力と教える能力だ。自分の培ってきたものを他人に伝える。得意、不得意も違うし、同じ科目の中でも理解度の差がある。
生徒のレベルに合わせて勉強を教えるというのはすごく難しいと知っているのは、高校生時代にクラスメイトに勉強の質問をされた時に痛感した。
範囲が決まっている定期テストの成績だけは良かったからクラスでも勉強ができるポジションになっていて、時には女子からも質問されてちょっと浮かれていた。自分なりに丁寧に教えてつもりだったけどうまく伝わっていなかったみたいで、僕に教師は向いていないと悟った。
「勉強を教えるのは簡単ではないわね。でも大丈夫。私に教わったように教えればいいんだから」
「あはは、それは一理あるかも」
簡単ではないと認めた上で自分のやり方を迷うことなく勧める。城ケ崎さんは本当に強いと感心すると同時に、僕はこんな風にはなれないと諦めてしまう。
これからどんなに努力を重ねても根っこの性格まではそう簡単に変わらない。ましてや僕は浪人生で基本的に勉強漬けの生活だ。
どこか山奥にこもって精神から鍛え直すわけではない。城ケ崎さんと対等になっている自分を全く想像できなくて、集中して勉強できた自分を褒める前に自己嫌悪に陥りそうになった。
「時間的には良い頃合いね。勇気、買い出しに行くわよ」
「買い出し? まだ冷蔵庫にはいろいろ残ってるみたいですけど」
「甘いわね。ここのスーパーは日曜日の夕方にタイムセールがあるの。広告はチェック済みよ」
「マジですか。何度か行ったことはありますけど知らなかった」
「身の回りにある小さな情報を把握してこその一流。覚えておきなさい」
「いや、一流の人はタイムセールとか行くイメージありませんよ」
まずスーパーになんて行かず食事は全て外食。出向くお店はブランド店で、あとはネットでポチッみたいなイメージだ。城ケ崎さんだって通販で買い物をしまくっていつの間にか部屋を占領している。
「あの男みたいなバカは行かないでしょうね。行かなくていいわ。うっかり出くわしたら最悪だもの。お金で何でも買えると思ったら大間違い。節約術を学んでこその人生なんだから」
「通販で買い物しまくる人の発言とは思えないんですが」
「これは仕方ないのよ。急だったし、平日は大学に行かないとだし。だからこそ食費はきちんと管理する。服や家具や一度買えばしばらく使えるけど食費は毎日のことでしょう? 旬や流行を学べるしスーパーは人生の予備校ね」
拳とぐっと握り力強く演説する姿も相まって言葉に説得力があった。現在予備校に通っている身としてはスーパーまでもが予備校化すると気が滅入るけど、少しでも節約できる方法があるのならご教授願いたい。
最近は城ケ崎さんが手料理を振る舞ってくれているおかげでコンビニ飯から遠ざかっていて逆戻りするのは難しい。彼女が居なくなったあとに自炊はしなくとも多少は食生活を改善できればそれに越したことはない。学べるうちに学んでおこう。
「ここのタイムセールは初めてだけどきっと戦争よ。その覚悟を持って付いてきなさい。いいわね?」
「戦争ってそんな」
「甘いわ! 主婦の力を舐めすぎよ。私みたいな若造では遠く及ばないパワーを彼女達は持っている。ましてや勇気みたいな気弱な浪人生は泡を吹いて倒れるかもしれないわね」
「いやいや、さすがにそんなことはないですよ。なんなら城ケ崎さんの代わりに欲しい商品を取ってきますよ。指示をお願いします」
「…………言ったわね?」
「は、はい」
「その覚悟、行動で示してもらうわよ。って、急がないとタイムセールが始まっちゃう。支払いは私がするから勇気は余計なことを考えずに戦地に赴くこと。いいわね?」
出会って一週間。その中で二番目に鬼気迫る表情だ。一番目は自殺から助けて時に罵声を浴びせられた時なんだけど、まさか二位がスーパーのタイムセールになるとは思ってもみなかった。
お金はものすごく持っていそうなのに節約するというのも意外な一面だ。美容と健康のために味付けが濃い外食やデリバリーを避けているのかと思ってたけど、まさか節約目的だったなんて。
こういう人になら安心して家庭を任せられる……僕が結婚するとかではなく、城ケ崎さんが嫌っている御曹司の立場になって考えるとそういう結論になった。
御曹司はスーパーに行かなくても、城ケ崎さんが家庭の財布を握ってスーパーに行けばいい。安く買った素材を高級感溢れる料理に仕上げられる腕前を彼女は持っている。タイムセールで買ってきたなんて言わなければ絶対にわからない。
ほんの少しの我慢で全てがうまくいきそうな結婚なのに、どうしてそこまでイヤがるんだろう。顔が好みじゃないのかな?
会うことはないと思うけど、もし一度会えるのならその顔を拝んでみたい。
「早く早く。戦いはもう始まっているわ」
「すぐ行きます。僕は鍵も閉めるんですから」
ばたばたと慌ただしく城ケ崎さんはスニーカーを履いた。朝走るのに使っているものだ。大学に行く時はヒールを履いているので、このことからも本気度が伝わってくる。
下駄箱の上に置いてある鍵を手に取りながらズリズリと足を動かしてスニーカーを履く。行儀が悪いと注意されたが長年の癖は簡単には直らない。それに今は急いでいる。二つのことを同時にするのは悪くないはずだ。
「そんな腑抜けた顔ができるのは今のうちよ。気合いを入れなさい。気合いを」
「気合いって言われても。闘魂注入でもしてくれるんですか?」
「え……勇気ってそういう趣味?」
「違います! 気合いを入れると言えばビンタを連想するのは普通でしょ」
おそらく、きっと。高校時代に一部の陽キャが体育祭の前にお互いにビンタをして気合いを入れていた。結構大きな破裂音がしていて見てるこっちまで頬が痛くなりそうだったのを覚えている。当の本人達はすごく楽しそうで、ちょっとだけ羨ましかった。もちろんビンタがではなく、あの空気がだ。
「してほしいならしてあげるわよ? 私、ビンタは得意なの」
「知ってます。命の恩人にする仕打ちじゃないですよ」
「だって私の覚悟を邪魔したんだもの」
「…………あの…………いや、なんでもないです」
今でも自殺を止められたことを恨んでますか?
ハッキリと否定してくれたら助けた方としては気が楽になる。でも、もしまだ恨まれていたら。僕の家庭教師になるよりも、死にたいという気持ちの方が強かったら……そんなネガティブな考えが脳裏をよぎって、言葉を飲み込んでしまう。
「あの日のことならもう恨んでないわよ。当たり前じゃない。恨んでたら家庭教師になんてやらないし、結婚相手に選ばないわ」
「それを聞いて安心しました。でも結婚はどうかと思いますよ」
「命の恩人とは結婚する流れでしょ? 違う?」
「漫画だとよくある話ですね。でも、命を救われた恩返しに人生そのものを捧げるっていうのは重すぎる気がします」
「だったら大成功ね。さすが私」
「え? 何がですか?」
「秘密」
軽やかな足取りで古びた階段を降りていく。一週間前に自殺しようとした人間とは思えないくらい前向きだ。その背中に哀愁は漂っていない。戦地と表現したタイムセールから絶対に戻ってこられる。死亡フラグゼロの出発。
「今夜は勇気のリクエストに応えてあげるわ。何が食べたい?」
「えーっと……」
「決断が遅いわ。ビジネスでは命取りよ」
「ビジネスじゃなくて今夜のおかずの話なんですが」
「今食べたいもので迷う人間がビジネスの重要な決断をできるはずないわ。今夜はとんかつ! 豚肉が安くなるって予告があったわ」
「それ、城ケ崎さんの中で答えが決まってたやつじゃ」
とんかつか。そう言われると口の中は完全にとんかつモードに入った。これは絶対に豚肉をゲットしないと!
戦場だなんて大袈裟に表現していたけど二人分の豚肉を手に入れるくらい余裕だろう。浪人生にだってそれくらいはできる。
そんな油断が仇となるのは十分後のことだった……。主婦のパワー、エグいって。
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