第16話 体作り
城ケ崎さんが我が家に転がり込んで自称家庭教師になってから早くも一週間が経過した。朝起きたら走って、予備校で授業を受けて、復習を見てもらって……。
食事は基本的に城ケ崎さんが準備してくれる上に味も逸品、初めは気になっていたシャワーの音や同じベッドで寝ることにも慣れた。正確には、変な気が起こる以前に疲れていた。
朝から走らされているのは性的な意味でのヤル気を削ぐためなんじゃないかと疑いつつも、おかげで男女間のトラブルが発生していたので助かっている一面もある。
ただ、疲れていても体は正直だ。性欲が全く湧かないわけじゃない。シャワータイムに賢者になることで事なきを得ていた。平日は……。
「日曜日は予備校の授業はないのね」
「今日は現役生がメインかな。自習室は使えるんだけどキラキラした高校生のオーラが恐くて……」
「自習はどこでするかじゃなくて何をするかが重要よ。幸いなことに勇気には私という家庭教師が付いてるんだから自宅学習にしなさい」
土曜日も予備校の授業があったので日中は家を留守にしていた。その間に城ケ崎さんはテーブルやイスをセッティングして、台所周りも随分と設備が充実していた。本当に同棲しているみたいになってき、いよいよ家賃問題について本気で考えないとマズい。
「自宅学習の前に確認したいことがあるんですが」
「奇遇ね。勉強の前にやらなければならないことがあるわ」
一週間近く寝食を共にすると思考が通じ合うのかもしれない。スペックに格差があっても同じ人間。いつかきっと分かり合える。そんな希望の光が差し込んだところに城ケ崎さんの一言が暗雲のように立ち込めた。
「まずは体作りよ。ジョギングだけじゃ不十分。人間の体を支える筋肉が弱いと受験にも立ち向かえないわ」
「は……?」
「勇気はそっち側を持って。ちゃんと畳めるテーブルにしたから。ヨガマットも買ってあるから騒音はたぶん心配いらないわ。音を吸収してくれるから」
「あの……テーブルを片付けるんですか?」
「そうよ。狭い空間を活用できる家具にしたんだから」
言われるがままにテーブルの端を持ち上げると簡単に折りたたむことができた。なるほどこれは便利だ。見た目よりも軽いから引っ越しの時も助かる。
「イスはその辺に置きましょう。ヨガマットは二枚買ったから向かい合うように敷いて。私がインストラクターをするから」
「えっと……何が始まるんですか?」
「何って体作りよ。決まってるじゃない。あっ! ちゃんと着替えも用意したわ。サイズは適当に選んだけどいいわよね」
タンス代わりになっている段ボールから取り出されたのは一着のトレーニングウェアだった。パッケージには伸縮自在で汗を吸うと書かれている。ぱっと見ただけでも良い素材なのが伝わる高級感も漂っている。
「これに着替えて。本当はこれで走ってほしかったんだけど、この瞬間のために取っておいたの。サプライズよ」
「まあ、驚きはしました。僕が思ってる話の展開と全然違ってて」
テーブルを片付けてそのまま引っ越して行くのかと思ったらこの部屋に居付くような物が次から次へと登場した。この狭い部屋に置かれた段ボールの中によくまあいろいろ詰め込まれていたものだ。
平日はお互いに外出していて、僕が帰宅してから城ケ崎さんも帰ってくる。だから荷物の受け取る時は必然的に一緒に居ることが多くて、僕が知る限りはヨガマットなんて届いていなかった。
土曜日に一日留守にしただけでこんなにも設備を充実させていたなんて……。城ケ崎さんに留守を任せている僕も僕だけど。
「さ、早く着替えて。筋トレの後はみっちり勉強するんだから」
言いながら城ケ崎さんはスカートを脱いだ。下着が露わになってしまうなんてことはなくすでにスパッツを履いて運動する準備が整えられている。今朝もその格好で走ってましたもんね。
一瞬ドキッとしたのを悟られないようにワイシャツのボタンを外してあくまでも着替えに集中している風を装った。
これからする運動はあくまでも健全なもの。変な意味の運動ではない。頭ではわかっていてもスパッツによって肉感が強調された太ももには自然と視線が向いてしまう。
「狭い部屋で二人だと熱くなるから先に脱いでおこうかしら」
ジャージのファスナーを下ろすとサイズの大きいTシャツでも隠しきれない山が現れた。上がジャージならスパッツのままで過ごせばいいのにと思わなくもない。たぶん彼女なりのこだわりがさっきまで履いていたスカートに込められているんだろう。
その辺を下手にツッコむと論破されてメンタルがすり減るので口にしない。普段スカートだからスパッツでむちむちの太ももが新鮮だからもっと見ていたかったとか、そんな邪な気持ちも一切ない! 単純な疑問としてなんでスカートを履いていたのか不思議だっただけだ。
「私の前で着替えるのも抵抗がなくなってきたみたいね。感心感心」
「抵抗はありますよ。露出狂じゃないんで」
「そういう意味じゃないわよ。私に対する信頼度が上がっているのを実感してるの」
「信頼度……ですか」
城ケ崎さんの前で着替えるだけで信頼を感じるなんてどういう基準なんだ。家の留守を任せているので不信感を抱いているわけでもないけど、むしろ留守を任せたことに信頼を感じてほしい。
「ジョギングの前にしたけどもう一度ストレッチから始めるわよ。ここでケガをしたら元も子もないわ」
「そもそも運動しなければケガをしないんじゃないでしょうか」
「受験はいつもと違う場所に赴くのよ。雨や雪で道路が滑るかもしれない。ゲン担ぎで滑らないように、なんて言ってる以前に骨折でもしたら目も当てられないわ。同レベルの受験生が集まる入試において明暗を分けるのは勉強以外の部分。間違いないわね」
力強く語りながら長い髪をまとめると印象がガラリと変わる。アスリートのように締まった体でありながらも出るとこは出る理想的なボディに見惚れてしまう。
「私のこと、好きになった?」
「なりませんよ。城ケ崎さんはただの家庭教師です」
その家庭教師といやらしい関係になるのがフィクションの定石だ。好きというか欲望の捌け口みたいな感じではあるけど現象としては変わりない。
映像の中で数回体を重ねれば関係が終わるのと違って、僕らにはその先の人生が待っている。京東大に合格しているかは置いておいても、欲望に身を任せると大変なことになるのは明白だ。
だから目の前に扇情的な女性が居ても僕は賢者として振る舞わなければならない。いろいろな意味で賢い選択をする必要がある。
「いでででで」
賢い僕は体を思いきり後ろに反る。たぶん限界を超えている。日曜の午前中から大きな声を出してしまったのは申し訳ないと思いつつ、背骨が折れる勢いで反らすことによる煩悩を退散させる作戦だ。
賢者にしては体を張っているけど、受験に体力も必要と言うのならこれだって十分賢い選択のはず。痛みで気を紛らわせる効果に加えて、城ケ崎さんから視線を逸らせることもできる。
「なかなか気合が入ってるじゃない。柔軟性があれば変な風に転んでもケガをしにくくなるわ」
「それはどうも」
褒められても油断はしない。目をつむりなら体側を伸ばし、ストレッチに集中しているかのような雰囲気を醸し出す。
「ちゃんと私を見なさい。お手本通りにやらないと変なクセが付いちゃうから」
「…………」
インストラクターにそう言われてしまっては仕方がない。眼福であり目に毒という矛盾を抱えた光景をその目に捉える。
ヨガマットの上に露出度の高い美人が立っている。健全なまま終わる方が難しいレベルだ。
だけど既成事実を作る訳にはいかない。今日さえ乗り切ればそろそろ城ケ崎さんの関係者が迎えに来るはず。一週間も経っていれば捜索願いの一つでも出るはずだし、別にかくまっているわけじゃない。日本の警察は優秀なんだ。僕はそう信じている。
「まずは腕立て伏せよ。手は肩幅に開いて」
「はい」
予想していた通りの姿がそこにはあった。うつ伏せになることで重力に従った大きな山がその存在感をより強固なものにしている。それを支えるブラジャーもさぞかし大変だろう。Tシャツの向こう側で悲鳴を上げているのが聞こえてきそうだ。
目を逸らしてはいけない。私を見ろと言ったのは城ケ崎さん本人なんだから。変なクセが付いたまま腕立て伏せをして効果が落ちたらもったいない。インストラクターの教えは素直に受け入れよう。
「どうしたの? もう顔が真っ赤よ」
「え? ああ、腕立て伏せなんて久しぶりなので。ははは」
「高三の三学期なんて高校生というより入試を受けるマシーンだものね。無理もないわ。でもそれは伸びしろよ。トレーニングの成果がわかりやすく体に現れて羨ましいわ」
「そんな考え方もあるんですね」
一回、二回と体を上下するのに合わせて揺れ動く胸に視線が釘付けになる。辛うじて城ケ崎さんの言葉が耳に入ってきて、なんか良いことを言ってるっぽいのでなんとなく頷く。
腕立て伏せが久しぶりなのは本当のことで十回に到達する前にすでに腕がぷるぷるしている。だけどおっぱいがその疲れを中和してくれる。Tシャツの首元から時々チラリと見える谷間が何よりのご褒美だ。
ムラムラを運動で発散する。実に健全だ。きっと隣で密着しながら勉強しても変な気を起こさずに夜を迎えられることだろう。
腕立て伏せが終わればおっぱいに惑わされることはない。その考えが甘かった。腹筋でも体を起こす度に揺れているし、さすがの城ケ崎さんも息が荒くなる。ほんのりと汗をかいて火照った体が妙にいやらしくて、運動で発散できる以上のムラムラが沸き上がった。
早く賢者になりたい。体育の授業以来の筋トレで疲労感が溜まる中、この一心だけでトレーニングを終えることができた。体よりもメンタルを鍛えられた気がする。もし城ケ崎さんがここまで考えていたのだとしたら天才だ。
入試当日に裸の女子高生が居ても気にせず問題を解ける気がする。裸よりもエロい恰好は存在して、僕はその誘惑に打ち勝ったからだ。
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