第15話 御曹司はイヤ
自分としては早めに賢者になったつもりだったけど意外と時間は進んでいたらしい。いろいろな意味でさっぱりして浴室から出ると城ケ崎さんは無防備に僕のベッドで眠っていた。
狭いベッドを独占するようなことはなく、もう一人くらいなら入れるスペースをちゃんと残すように壁側に身を寄せている。
「まあ、たまたまだよね」
寝返りを打って端に移動しただけという可能性も捨てきれない。
「床で寝てるのがバレたらそれはそれで怒られそうなんだよな……」
きっと城ケ崎さんは僕よりも早くに起きて日課のジョギングに行く。そんな彼女よりも先に起きるなんて不可能だし、一緒に走りに行く気満々だと誤解されても困る。
別に何かするわけじゃない。同じ部屋の中で昨日よりも体の距離が近いだけでただ寝心地が良い場所を選んでいるだけ。
予備校の授業をちゃんと受けるために脳と体をしっかりと休めるために自分のベッドを使うのであってやましい気持ちは全くない。音声や書面で証拠が残ってるわけじゃないけど城ケ崎さんだって同じベッドで寝ると言っていた。
「おじゃまします」
なんで自分のベッドなのにこんなに気を遣わないといけないんだと若干腹も立つ。男女が同じベッドに入る意味合いとテンションの違いはどうしても生じるんだから仕方がない。
ついさっき賢者になったばかりなのに早くも戦士に戻ってしまいそうだ。相手の許可も出ていてあとは朝まで本当の意味で寝るだけなのに心拍数はどんどん上がっていく。
城ケ崎さんを起こさないようにゆっくりとタオルケットをめくり、ほんのりと温まっているベッドに腰を下ろす。何も悪いことをしていないはずなのに罪悪感にさいなまれるから不思議だ。
枕は城ケ崎さんに占有されてしまっているのでノー枕で寝ることになる。枕が変わっても全然平気なタイプで助かった。たぶん枕がなくても問題はない。
「ちょっと違和感はあるか」
頭と体が水平なままという姿勢に若干違和感はあるもののどうにかなりそうだ。問題はすぐ横に城ケ崎さんがスヤスヤと寝息を立てていること。
体は触れ合っていないのにほんのりと体温が伝わってくるのが人の存在を感じさせる。壁の方を向いているとは彼女とは反対を向いてはみるけど、お互いに寝返りを打って抱き合うような体勢にならないとも限らない。
「よく寝れるよな……」
城ケ崎さんだって本気で僕と結婚したいなんて考えていないはずだ。よっぽど父親の決めた結婚相手が嫌いで、自殺から助けた僕がほんの少し特別に見えているだけ。何日かして冷静さを取り戻したらなんで冴えない浪人生の家庭教師なんてやってるんだろうと現実を見るはずだし、親御さんが迎えに来ると思う。
まだ一度も経験のない僕と違って、経験が豊富みたいなことを言っていた城ケ崎さんにとって万が一にも僕と体を重ねることがあっても一夜の過ちくらいにしか考えないんだろう。
一回の重みが違い過ぎる。一生の思い出になる初めてと、何度目かの作業みたいな夜。結婚だの対等だのと言っているけど城ケ崎さんは僕を男として見ていない。そんな気がしてならなかった。
「…………寝よう」
考えるほど惨めになる。たぶん一週間もすればこの生活も終わる。自殺しそうになった美人を助けたら数日一緒に暮らして、だけど何も起きなかった。
もし無事に京東大に合格したら、新しくできた友達に語ってみよう。その美人はあの人だよって。絶対にほら吹き扱いされるけど、おもしろいやつとしてそこそこの人気を得られればそれでいい。
元の生活に戻ったあとの浪人生活とその先に待っている大学生活に少しでも期待感を持つために楽しい妄想をしながら眠りにつく。
間違えても今この場所で初体験を済ませることや彼女と熱い夜を過ごすことなんて考えてはいけない。羊を数えるのも頭を使うので、妄想から夢へと自然にシフトしていくのが一番だ。
「むにゃむにゃ……勇気、私の寝言を聞きなさい」
「…………」
リアルの寝言でむにゃむにゃなんて言う人いるんだ。なんてノリツッコミを入れる余裕はなかった。城ケ崎さん、絶対に起きてる。独り言を聞かれていたのが恥ずかしいし、起きているのだとしたらこれから何が起きてもおかしくない。
僕から手を出すつもりはないけど、彼女の方から誘ってくるのであればまずコンビニに行って準備を整える。その間に頭が冷えたのなら仕方ないと思う。万が一、いや、億が一でも妊娠なんてことになったら逃げ道が防がれているのにどこか遠くへ逃げたくなる。
「パパが決めた結婚相手はね、京東大を卒業したあとグングン営業成績を伸ばして今や社長なの。親のコネだなんて陰口を叩かれていた時期もあったみたいだけど実力でねじ伏せたわ。ついでにスポーツも得意みたい」
「…………」
寝言を聞きなさいとは言われているけど返事をしろとは言われていない。そもそも僕は城ケ崎さんの言葉に対して何も応答はしていないんだからすでに眠りに落ちている。そういうことにしておいた。
無反応の僕に文句を言うことなく城ケ崎さんは続けた。
「周りからは玉の輿って言われてるわ。お金もあって社会人としての実力もあって、勉強もスポーツも子供に教えられるから将来も安心だって。それくらい私にだってできるわよ」
少しだけ鼻声で、時折鼻をすすっている。隣にいるのが身も心もイケメンならそっと抱きしめているんだろう。残念ながら僕には無理だ。どう考えてもその結婚相手のスペックが高すぎて霞んでしまう。
その男性を差し置いて、城ケ崎さんと同じベッドに入っているのが奇跡だ。
「何でもできて自信家で、結婚したら絶対私にマウントを取ってくるわ。それにいちいち対抗するのも疲れるし、家庭環境も荒むに決まってる」
たしかにマウントを取られるのはイヤだ。城ケ崎さんは命令口調だけどマウントを取ることはない。
これくらいできて当然。あなたじゃ絶対無理。そんなこともできないの?
呪いみたいな言葉を浴びたことはない。代わりに彼女の超絶意識の高い習慣に付き合わせれそうになっているけど、努力すれば僕にもできると信じてくれている。
一つ残念な点があるとすれば、そんな信頼に僕が応えられそうにないことだ。
「なにが御曹司よ。そんなに玉の輿が羨ましいなら私の代わりに結婚してほしいわ。そしたらこの話だってなくなるし、会社は私と勇気が立て直せばいい」
「え? 僕、城ケ崎さんの会社を立て直すの?」
「起きてるなら相槌くらい打ちなさい。女の子は話を聞いてもらいたいだけなんだから」
「あ……」
大学卒業後の進路まで決まっていることに反射的にツッコミを入れてしまったことを後悔する。黙って狸寝入りしておけば不満を吐露するだけ吐露してスッキリしてくれたかもしれないのに。
「まだ出会って二日しか経ってないけど、勇気のそういう素朴なところが気に入っているわ。勉強も運動もあいつに比べたら全然だけど、そんなのは努力次第でどうにでもなる」
「その努力がえげつないんですが……」
「京東大を卒業して一流の社長になるには並大抵の努力では不可能よ。あの男だって、まあそれなりに努力はしてるんじゃないかしら。いつも余裕の笑みで澄ましてるのが気に食わないけど」
「努力してるならいいじゃないですか」
「それを自分の才能だと勘違いして偉そうなのが腹立たしいの。自分を神様か何かだと勘違いしてる人間は絶対に過ちを犯すわ」
「さすがに妄想が過ぎません? 裏でヤバいことでもやってるわけじゃないんですから」
「どうかしらね。いっそスキャンダルが発覚してくれたら縁談もなしになるからありがたいくらいよ」
「本当に嫌いなんですね」
「大っ嫌い! 初対面で人を不快にできる才能だけは認めてあげるわ。あんなやつの子供に生まれたら可哀想」
声のボリュームこそ小さいけど、そこにはとんでもない怨念が込められていた。自殺から助けた時の罵声もなかなかなのものだったけど、それに比べれば全然マシ。
一時のテンションで叫んだのと違って、長年積み重なった不快感を呪詛にしてつぶやいたような大っ嫌いの一言に背筋が冷たくなった。
「とにかく寝ましょう。明日も走るんですよね?」
「もちろん、勇気も一緒にね」
「…………」
「無言は了承と捉えるわ。受験に向けた体力作り頑張るわよ」
「……はい」
黙っていても了承、拒否権もないのなら、渋々でも返事をしておいた方が心証が良いだろう。もしかしたら走る距離が短くなるかもしれない。そんな淡い期待を胸に目を閉じた。
少しでも体力を回復させるために。
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