第35話 パパ

 城ケ崎さんが再びこの部屋で暮らすようになってから三日が経過していた。数日だけ世話になると最初に言っていたのでそろそろホテルにでも移り住む頃合いのはずなのにキャリーケースの荷物は少しずつ部屋を浸食している。


「あの、城ケ崎さん」


「なに? いつもより長い距離を走ってお腹が空いたの? 空腹に耐えるのも受験に向けた大切な訓練よ。どんなに準備を重ねても当日に万全のコンディションとは限らないんだから」


「違いますよ。えと、朝食の準備をしてる時に申し訳ないです。でも、今しかちゃんと時間を取れないなって思って」


「そうね。お互い、朝食を摂ったらすぐに出発だものね」


「食べてる最中でもいいんですけど、話をはぐらかされても困るなって」


「私はいつだって真正面から勇気の言葉を受け止めているつもりだけど?」


 そう言いながらも今はフライパンに集中しているので僕は城ケ崎さんの横顔と喋っている。これに関しては声を掛けるタイミングを今にした僕が悪い。


「この部屋にはいつま」


 コンコンコン


 話を切り出したのと同時にドアをノックする音が聞こえた。どうもこのアパートにインターホンが付いていることは住人以外にはわからないらしい。

 それとも僕が知らないだけで故障してるのかな? 今度試しに押してみよう。


「こんな時間にお客さんなんて珍しいわね」


「僕にとってはそこまで珍しくなくなってますよ。あと、ノックの仕方も丁寧だ。誰かさんと違って」


「もし寝てたらあんな音だと気が付かないでしょ? 状況を鑑みての判断よ」


「お隣からクレームが入らなかったのは奇跡ですよ……」


 朝早くに訪ねてくるとしたら國司田だ。城ケ崎さんを連れ戻しに来たに違いない。もちろん、それは正当な主張だ。城ケ崎さんは國司田と婚約していて、この部屋の住人ではない。


 婚約者の居る女性が一人暮らしの浪人生の部屋で寝泊まりしていることの方が問題なわけで、僕は大人しく城ケ崎さんを差し出すほかない。


「城ケ崎さん。誤解しないでほしいんですけど僕は味方です。でも、やり方はあると思うんです。だから……」


 覚悟を決めて玄関をゆっくりと開ける。城ケ崎さんと國司田の結婚は避けられない。ならせめて、人生の中にほんの少しでも楽しみを見つけてもらいたい。僕の京東大合格なんて些細なことかもしれないけど、今できるのはそれくらいだ。


「おはよう。キミが亀田くんだね。私は城ケ崎鶴蔵つるぞう。娘が世話になってる」


「……は? え? 娘?」


 國司田の嫌味な笑顔を想像していたところに現れたのはややメタボ体型のスキンヘッドだった。一見するとヤクザの幹部に見えるけど、表情は優し気で威圧感はない。


「パパ!?」


「パパ!? え、この人が城ケ崎さんのお父さんなんですか?」


 あまりにも似てるところがなくてパパが別の意味に聞こえるレベルだ。この美しさは母親譲りの可能性が濃厚になってきた。父親も娘と同様に体型に気を遣っていると勝手に想像していたのでメタボ腹が余計に目立つ。


「報告は受けているよ。娘が世話になっているようだね。浪人生なのに見ず知らずの女性を住まわすというのは大変だっただろう。これは謝礼だ。受け取ってくれ」


「いや、お金を払わなきゃいけないのはこっちなくらいで。こんな風に食事の支度をしてくれたり、家庭教師をしてくれたり」


 差し出された茶封筒は見るからに大金が入っていそうな厚みで、とても倒産しかけている会社の社長とは思えない羽振りの良さだ。こんな風に大金を用意できるのも娘が結婚する影響だとしたら、それを邪魔する責任は重い。


「そうよパパ。生活費は私が稼いでるから安心して。会社の方だってパパが自分で何とかしてほしいけど、あと数年持ち堪えてくれれば勇気と二人で何とかするから。ね? そうでしょ?」


「え? いや、そこまでは約束できな……」


「政略結婚なんて時代錯誤も甚だしいわ。あの男と結婚なんて絶対イヤ。それが私の答えよ。変えるつもりはない」


 城ケ崎さんは父親に頭が上がらないものだと思っていた。こんな風にハッキリと自分の意見を言えるのなら最初からそうすればよかったのに。いくら会社のためとはいえここまで嫌がる娘を強引に結婚させる父親なんているはずない。


 まさかこの部屋が親子の話し合いの場になるなんて思ってもみなかったけど、今日をきっかけに城ケ崎家がうまく回り出してくれたら喜ばしいことだ。


「…………ふぅ。美鶴、こんな浪人生のどこがいいんだ? お前と全く釣り合わん。何か一つでも礼恩くんに勝る点があるのかね?」


「線路に飛び込んだ私を助けてくれたわ。その決断力と勇気は教育やトレーニングでどうにかなるものじゃない。あの男には絶対にないものよ」


「そんなもの、婚約者の礼恩くんだって同じことをしたさ」


「どうかしら。反抗的な婚約者が死ねば悲劇の王子様になれる。すぐに他の女に手出すに決まってるわ」


「偶然だろう。その幸運を掴むのも経営者として必要な能力ではあるが、礼恩くんだって備えている」


「あの男は根回しがうまいだけよ。それも経営に必要な能力ではあるけど、その辺は私が鍛えるから問題ない。なんなら私が受け持ってもいいわ。勇気と私なら絶対に会社を立て直せる」


 親子会談は結婚の話から会社経営へと変わっていく。城ケ崎さんは僕をすごく買っているけど、残念ながらその期待に応えられる自信はない。鶴蔵さんの言う通り自殺から助けられたのも偶然だ。下手したら引き上げることができず二人で電車にひかれていたかもしれない。


「さすがは私の娘だ。簡単には論破できないね。しかし亀田くんはどうだろう? ここに来るまで時間を要したのはキミのことを調べたからだ」


「僕のこと……ですか?」


 調べたってろくな情報は出てこないと思う。部活で活躍したこともなければすごい人脈があるわけでもない。そして現在は浪人中だ。ネットタトゥーもないし平々凡々な人生を歩んできたのがバレるくらいで何も恐れることはない。


「経営が傾いていると言っても私は大企業の社長でね。グループには様々な企業が傘下に入っている。それこそ全社員を把握するのは不可能なほどに大きなグループだ」


 これから気温はどんどん上がっていくはずなのに部屋の空気は不思議と冷たくなっていく。何か決定的な一言を鶴蔵さんが放つ前触れみたいで自然と冷や汗が溢れ出す。


「うちの子会社の一つに務めているみたいだよ。亀田くんのご両親は。この意味がわかるね?」


「そんなの脅迫じゃない! 最低よ!」


「グループを背負って立つ者の使命だ。娘一人に嫌われるだけで会社を、そして社員を救えるのなら私は満足だ」


「勇気! こんな最低な人間の言うことなんて聞かなくていいわ。生活費も学費も私なら稼げる。贅沢をしなければ余裕だから一緒に受験を乗り越えましょう」


「…………無理ですよ。たださえ浪人してるのに、これ以上両親に迷惑を掛けられない」


「だからお金のことは心配しなくて良いって言ってるじゃない。そうよ。勇気のご両親に挨拶する良い機会だわ。これで問題は全部解決ね。バイバイ、パパ。今までありがとう」


 城ケ崎さんは鶴蔵さんの手を引いて玄関の外に追いやろうとする。鶴蔵さんの表情は勝利を確信したように口元が緩んでいた。

 その通りだよ。最初から勝てるなんて思っていなかった。そもそも戦いにもならない。


「私と一緒に帰るんだね。最近はちょっとわがままだけど、本当は聞き訳の良い娘だってわかっているよ」


「わがままってなによ。パパが勝手に決めただけで人権を無視し……」


 ボロアパートに似つかわしくない黒服を纏った大柄の男性が五人。感情を悟られないようにするためかサングラスまで掛けていかにも金持ちが雇った兵隊という様相だ。


「あまり手荒なマネはしたくないんだ」


 鶴蔵さんの目は娘ではなく故障した機械を見るように冷たく、一切の愛情を感じ取ることができなかった。この人も取り繕うのがうまい人間なんだ。さっきまで見せていた柔和な表情は印象を良くするための武器で、これが本性。


 だらしないメタボ腹も今なら貫禄の表れに感じる。城ケ崎さんはこんな人と戦おうとしていたんだ。やっぱり僕では彼女と対等にはなれない。

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