第32話 家出

 結婚祝いを出してから一週間が経過した。あの日から続く雨は止む気配がなく、日課になっていたジョギングは全然できていない。

 あの結婚報道から少し復習が遅れがちだったので朝の時間でなんとか取り返していた。


 手紙がちゃんと届いたとして返事が来るとは限らない。そもそも送り先が城ケ崎グループの本社だから検閲にでも引っ掛かって処分されているかも。会社に個人宛の手紙ってよく考えなくてもおかしい。


 そもそも僕は城ケ崎さんと何も関係がないはずの浪人生なんだから不審物として処理する方が自然だし、もし何の疑問も持たず本人の元に届けられたとしたら警備体制に問題がると思う。


「國司田に対する怒りも収まってきたけど……」


 結婚を祝う手紙を出したことでこの問題についてモヤモヤするこはなくなった。そういう風に自分を納得させる意味で出したんだからちゃんと結果が出たのは喜ばしいことだ。


「成績が伸びてない」


 城ケ崎さんに勉強を教えてもらっていたことで伸びた成績が頭打ちになっていた。現状維持できているだけでもマシな方で、倍率の低い私立大なら合格できるくらいにはなっている。


 だけど目指すのは京東大で、そこじゃないとお世話になった家庭教師に会えない。これから現役生まで参戦する受験戦争においてすでに成績が頭打ちというのは精神的にキツい。

 一度伸びる喜びを知っただけに、これが自分の限界だと突き付けられたみたいだ。


「出発まで勉強しよう」


 今の僕が自宅でできることは知識を定着させること。予備校で学んだことを脳に染み込ませて模試や受験で全て出しきる。家庭教師が居なくなった以上、やり方を変える……いや、元に戻すという表現が正しいか。


 本来はこれが僕の浪人スタイルだ。二週間だけ居た家庭教師のおかげで勉強のやり方や体力作りの大切さを知れたのは大きい。


 ドンドンドンドン!!!


「ひっ!」


 古めかしいインターホンが付いているにも関わらず玄関を激しく叩く音に思わず小さな悲鳴を上げてしまった。


 時刻はまだ七時前。國司田が訪ねてきた時よりかはいくらか遅いとは言え、玄関を激しく叩くには非常識な時間帯だ。

 城ケ崎さんと一緒に住んでいた期間に騒音で苦情が入るなら理解できるけど、特に問題を起こした自覚はない。


 ドンドンドンドン!!!


 もはやドアを叩く音が一番の騒音だ。


「……まさか城ケ崎さんに手紙を送ったのがバレて國司田が? いや、あいつは外面は良い。いくらお金を配ってもこんなにうるさくはしないはず」


 平日の朝に両親が訪ねてくるとも考えにくい、そうなれば同じアパートの住人か國司田くらいしか候補が思い浮かばない。


「酔っ払いか何かか? セキュリティなんてないし」


 関係者以外立ち入り禁止と書かれた看板に部外者をガードする能力はない。誰でも敷地内に入れるボロアパートのセキュリティはガバガバだから見知らぬ酔っ払いが自分の部屋と勘違いしてドアを叩く事態になっても不思議ではない。


「放置するのも、なぁ……」


 大家さんが出てきて見ず知らずの他人を僕の関係者と誤解しても話がこじれる。城ケ崎さんの結婚問題に一区切りが付いたと思ったら次の問題が飛び込んでくるなんて、つくづく僕は受験の神様に嫌われている。


「神様には今のうちに鬱憤を晴らしてもらって、本番当日には味方に付いてもらうしかないな」


 いつでも警察を呼べるように緊急呼び出しの画面を開いて玄関に向かう。まずはドアスコープで外の様子を伺おう。


「…………え?」


 この小さな穴から廊下を覗いたのは今日が初めてだ。今までこれを使う機会はなかったし、そもそも訪ねてくる人も居なかった。

 だからこのスコープがちゃんと廊下の様子を映し出しているのかわからない。

 あり得ない光景が、人物がそこに立っていた。


 まさか僕が見たい景色を見せてくれる魔法のドアスコープだったのか!?

 そんなおとぎ話みたいな説を推したくなるくらい自分の目を信じられなくなっていた。


 玄関の前に立つ人にぶつからないようにそっとドアを開ける。もはや警察を呼ぶ必要はない。同じ金持ちでも國司田と比べたらずっと良心的な人物だから。


「久しぶりね。起きてるなら早く開けなさいよ」


「あ……えと……本物ですか?」


「私の偽物なんて居るはずないでしょう。ここまで到達するには相当な努力が必要なんだから」


「はは……間違いなく城ケ崎さんだ」


 私の偽物になれる人間なんて居ないではなく、相当な努力が必要と言う。努力を重ねれば同じ位置に来れると信じてくれる。朝早くても凛と美しい、どんな皮肉屋でも美人と評するしかない美貌の持ち主。


 人違いなんかじゃない。結構感動的な別れをしたわりにはすぐに再会できたのは僕の家庭教師である城ケ崎さんだった。


「勇気に助けられた手前、自殺なんてできないから家出してやったわ」


「家出……?」


 力強く宣言した彼女の傍らには大きなキャリーケースがあった。海外旅行にでも行けそうなサイズで、きっと中には僕の一か月の生活費では賄えないような高級な洋風や化粧品が詰まっているに違いない。


 さっきまで降っていた雨は止んで、雲の隙間から日差しが漏れている。どんどん湿度が上がり熱がまとわりつく。この火照りはきっと気候のせいだ。

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