第29話 お礼
見送られていた梅雨入りここぞとばかりに迫ってきたのか朝からシトシトと雨が降っていた。昨日の天気予報では晴れ予想だったので今朝もジョギングに出ようと思っていたので出鼻をくじかれてしまった。
「この雨じゃなあ」
濡れたジャージを洗濯して乾かすのにも不向きな天気だ。こういう日は二度寝……するのではなく自習の時間に当てる。昨日の復習ができなかった分を取り返すと考えればむしろ好都合な雨だ。
コンコンコン
まだ五時を回ったばかりだというのに玄関を叩く音が聞こえた。風に流されたゴミが当たった感じではない。明らかに人の手によって出された音だ。
「え? こわっ。うるさくしてたか?」
城ケ崎さんと一緒に暮らしていた頃ならまだしも今は完全に一人でこの部屋を使っている。多少の物音は出るにしても大声で話したり激しく動き回ったりはしていない。
あの頃に一度も苦情を入れられたことがないんだから今の生活状況で騒音トラブルは絶対にありえない。次に考えられるのは水漏れだけどこの部屋で暮らす限りその線も薄い。
それに水漏れならまず大家さんに相談だ。こんな朝早くから浪人生に文句を言っても何も変わらない。
「出た方がいいよな」
何かトラブルがあって僕に非があるのなら早めに謝っておいた方がいい。このまま放置してずっと気になったままで授業に集中できなかったら昨日の二の舞だ。京東大に入って家庭教師にお礼を言うと決めた僕にボーっとしている暇はない。
恰好はジャージのままだけど着替えている間に先方が帰ってしまわないとも限らない。そもそも早朝に訪ねてくる方が非常識なんだから服装で文句を言われても困る。
浪人生が住んでいるボロアパートに強盗が入ることはないだろうけど、わずかな可能性にも備えて城ケ崎さんが置いていったフライパンを右手に持ってドアノブをひねった。
「おはよう。俺の妻が世話になったようだね」
「……は?」
ギラギラした胡散臭い笑顔がどんよりとした空模様にミスマッチで鬱陶しい。身なりはきちんとしているので清潔感はあるのに、その裏に黒いモノを感じさせる威圧感を放っていた。
「俺の妻、城ケ
「ちょっ、藪から棒になんですか。こんな朝早くに初対面で」
「はっはっは。キミが許さなくても世間は許すさ。なぜならキミは浪人生、片や俺は
「え……あっ! でも、なんのご用ですか?」
昨日何度も写真を見たはずなのにその印象とあまりに違ったのと、大企業の御曹司がこんなボロアパートに来るなんて思ってもみなかったのが相まって目の前に居るのが
ネットで写真を見た時は爽やかな印象受けたのに実際に会うと高圧的でこうして対面しているだけですごく不快な気分になる。城ケ崎さんが結婚をイヤがるのも無理はない。
「二週間ほど世話になったんだろう? このボロアパートで、妻が」
ボロアパートと妻を強調するのがなんともいやらしい。世間で思われているような爽やかイケメンではないことはハッキリした。
「あの、隣の人に迷惑なんでもう少し声のボリュームを落としてもらっていいですか?」
「はっはっは。その必要はないよ。キミが予備校に行っている間に根回し済みだ。明日の朝、少し騒がしくなるのでご理解くださいと金一封を添えてね」
「本当ですか? こっちの部屋の人、平日の昼間は仕事だと思いますけど」
「会社に直接伺ったんだ。帰宅まで待っても良かったのだが、仕事で疲れているところにお願いするのは失礼だろう?」
「職場まで行くのも大概じゃないですか?」
「そんなのは些細な問題さ。誠意を込めた謝礼を払えば、ね」
隣のサラリーマンはともかく、大家さんもこの男に買収されたのがちょっとだけ悲しかった。まあ、抵抗する理由もないよな。僕に対しては高圧的だけど、大家さんに対してはインタビューみたいに爽やかな接し方をすればいいんだから。
外面は良くて内面はドス黒い。絵に描いたようなイヤな金持ちだ。性格のマイナス点を他でカバーしている。残念ながら僕が勝っている要素は何もない。優しさなんて曖昧なもので対決したところで世間はこいつに軍配を上げる。
そもそも僕はそんなに優しくはない。道に迷っていそうな人に声を掛けないし、ゴミが落ちていても無視する。受験で手一杯になっていて、周りに気を配る余裕なんて微塵もない。
城ケ崎さんを自殺から助けたのは奇跡の賜物で、あまりの緊急事態で火事場の馬鹿力を発揮したようなものだ。
「なあに、この部屋で暮らしていたことを咎めるわけじゃない。むしろ保護してくれていたお礼だ。突然部屋を解約してどうしたものかと頭を抱えていたんだが、キミみたいな冴えない男の元で安全に暮らしていたみたいでホッとしたんだよ」
「……そうですか」
「そう睨まないでくれ。お礼を渡しに来たんだ。キミみたいな庶民が
「お金は結構です。ここでの生活費は城ケ崎さんが自分で出してましたから」
「だろうな。
だけど、大人しくお金を受け取るほど僕だって落ちぶれちゃいない。
「生活費は城ケ崎さんが自分で払ってたことを知らないみたいな口ぶりでしたけど、本人からはここでの生活のことを何も聞いてないんですか?」
「聞いてない。
「は? 監視? 所有物? 城ケ崎さんはずっと見張られていた? 僕らの知らないところで? だったらすぐに保護してくれればいいのに、なんで放置してたんだ。仮にも婚約者が他の男と一緒に生活してたんだぞ」
「俺が俺の所有物をどう扱おうが勝手だろう。それにキミも短い間とはいえ幸せだったんじゃないか? 性格は難ありだが体は極上だからな」
「てめーっ!」
「おっと。暴力はやめてくれよ。最近の社長はメディア露出が多くてね。顔に傷が付くと困るんだ。それはキミもじゃないかな。亀田」
「ぐっ」
拳を簡単に受け止められた上に諭されてしまった。さっきリアルファイトでも裁判でも勝てないと悟ったばかりなのに頭に血が上って迂闊な行動に出てしった自分が情けない。
「いらないと言われても困るんだ。とりあえずこれだけでも置いておくよ。手切れ金だ」
「はぁ?」
厚みのある茶封筒を床に投げ捨てて
「キミみたいな庶民と過ごしてなんで笑顔でいられるんだ……信じられない。二度と
掴まれていた拳が乱暴に放り出される。思いきり握りられていたせいで関節がミシミシと痛む。
「だからいらないって」
拾い上げた封筒を
この雨の中でずっと待っていたのか、秘書みたいな人が
これだけ騒いだのにアパートの住人は誰も顔を出さない。本当にお金を渡して騒ぎになっても気にしないようにお願いしていたらしい。
言いたいことを言えて、自分がしたいことをお金で実現して、全国の女性が結婚したいと願う気持ちもわかる。
ただし、その人間性を知らなければ、だ。
「それでも城ケ崎さんは決めたんだよな」
僕は彼氏ではない。仮にそうだったとしても婚約者がいる相手と付き合った不貞者だ。世間から叩かれるのは僕の方。どんなに抗っても
「会おうと思っても会えないんだよ」
連絡先は知らない。今は京東大生じゃないからキャンパスに入ることもできない。可能性があるとすれば駅で偶然というパターンだけ。城ケ崎さんに会うために一日中駅で張り込んだりなんかしたら、勉強しろとどやされてしまう。
結局、正攻法しかない。京東大に合格する。だから、結婚はしても中退だけはしないでほしい。勉強を頑張る他にできることは、そう願うことだけだった。
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