第30話 影

 勉強を頑張る! 浪人生としては当たり前のことを改めて心に決めて電車に乗り込んだ。脳裏にチラつく國司田の顔を振り払うように単語帳に意識を集中させる。

 語彙力を増やすことは英語だけではなく他の科目にも活きるとは家庭教師の教えだ。知識が多くて困ることはない。


 久しぶりの雨でみんな気が滅入っているのか車内の空気は重い。そんな周りの雰囲気に飲まれることなく単語を頭に叩き込むのもある種のメンタルトレーニングだ。


「っと」


 國司田への怒りで集中を乱されるかと思いきや自分でも驚くくらい夢中で単語帳を読み込んでいた。ふと視界に入った見慣れた駅のホームの看板がここで降りることを気付かせてくれた。


「すみません。降ります」


 乗り込む人の波に逆らないながら強引に降りると周りの視線が突き刺さる。やっぱり日本の梅雨は罪だ。ジメジメと体にまとわりつく湿気は人間をイラつかせる。


「ふぅ……」


 國司田のせいで朝から虫の居所が悪い。一瞬爆発しかけた怒りの矛先をどうにか抑えて僕は今ここに居る。学力でも体力でも財力でも負けている僕が城ケ崎さんにちゃんとお礼を言うには京東大に受かるしかない。


 もし台所に放置されている包丁でも持ち出していたら、あの場だけは一時的な勝利を収めることができても、長い目で見れば大敗北だ。

 ある意味で城ケ崎さんに人生を救われた。もはや最初に自殺から助けたのはかすむくらい、僕は彼女に助けられている。


 ホームを見渡して城ケ崎さんを探してみるもそう簡単に見つかるはずはなく、人の流れをせき止めている迷惑者になりかけていた。


 あれだけ目立つ美人ならこの人混みの中でも簡単に発見できそうなものだけど、そもそもこの中に居なければ話にならない。


「住む場所も変わったんだし電車の時間も変わるよな」


 そもそも大企業の御曹司と結婚するんだ。車で送迎されていてもおかしくない。また変な気を起こさないようにガードが固くなっているのなら命の恩人としても安心だ。


 今日も今日とて大河さんと待ち合わせしている。いつまでも家を去った家庭教師の影を追い求めても仕方がない。この問題は友達に相談してスッキリしたんだ。


 別に付き合っているわけではないし恋愛感情もないけど、女の子前で他の女の子の話をするのはあまり良くないという知識は持っている。わざわざ地雷をまくような愚かなマネはしない。


 模試が終わったあとのカラオケにでも想いを馳せよう。大河さんはどんな曲を歌うんだろう。デスメタルとかだったら普段のイメージと違っておもしろいかも。


「……え?」


 こんなに湿度が高いのにさらりと風になびく黒髪に視線を奪われてしまった。カラオケのことを考えていたのに一瞬で吹き飛ぶくらいの衝撃。


「城ケ崎さん!!」


 間違いないと思った。こんなに綺麗な黒髪は世の中に何人も居ない。國司田には会うなと言われたけど、それを承諾した覚えはないし、待ち合わせしたわけでもない。生活圏が同じでたまたま顔を合わせただけ。


 長話をするつもりはない。ただ一言、絶対に京東大に受かると約束する。


 そんなの当然のことじゃないなんて返されそうだけど、それでいい。僕の決意をより一層固めるためのものだから。


「待ってよじょうが……あ……」


 呼びかけに全く反応しないので肩に手を掛けた。同じベッドで何度も夜を共にしたのに、こんな風に自分から彼女に触れるのは自殺から助けた時以来だ。


 勇気の出し具合で言ったら人生で二番目にカウントされるレベルで緊張したのに、振り向いた彼女の顔を見て心拍数の意味ががらりと変わった。


「なんですか?」


「……すみません。人違いでした」


「ナンパとかキモいんですけど」


「すみません……」


 スマホを取り出して足早に去っていく後ろ姿は、別人だと認識した今なら若干猫背気味に見える。努力の化身みたいな城ケ崎さんなら常に堂々と胸を張って歩いているはずだ。


「結局、気になってるんだな」


 全然ふっ切れていないを自らの行動で証明してしまった。集中! 集中しろ!

 自分に言い聞かせてもふいに城ケ崎さんの顔を思い浮かべてしまう。


「……子供かよ」


 國司田に会うなと言われたせいで余計に会いたくなっている。今度会うのは京東大に受かってからと自分で決めたのに……。


「何か手を打たないと」


 元家庭教師が國司田と結婚するなんて話したら城ケ崎さんとの関係が大河さんにバレてしまう。状況が特殊すぎてもはや友達には相談できない。

 できるだけいつも自然な感じを装って、勉強しながら城ケ崎さんのことを吹っ切る。


「難しい問題だ……」


 本来浪人生ってこんなことで頭を悩ませる時間はないはずなのに、次から次へと人生の問題が降りかかる。

 もしかして受験の神様に嫌われてるのか? いや、そんなはずはない。あんなに優秀な家庭教師に出会えたじゃないか。


「亀田くん、おはこよございます」


「おはよう大河さん」


「いよいよ梅雨って感じでイヤですね。髪がごわついちゃって」


「そう? いつも通り綺麗だと思うけど」


「むぅ~。亀田くん。そういうこと言うと女の子に嫌われますよ?」


「え? なんで?」


「無事に大学に受かったら教えてあげます」


「そんなに引っ張ることなの?」


「えへへへ。だって、気になって京東大に受かるしかなくなるじゃないですか」


 ちょこちょこと歩いていく大河さんの姿は見ているだけで癒される。城ケ崎さんとの出会いと別れ、そして彼女の結婚は僕にとってはあまりにも非日常な出来事だった。

 これからは大河さんと送る浪人生活をもっと大切にしよう。悔しいけど、國司田の言う通り僕は庶民だから。

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