第22話 モテ期到来?

「こんなに予備校の空気が落ち着くなんて……」


 同じ大学を受ける人は少なくても、ほぼ全員が共通テストを受けるという意味ではライバルだ。一点の違いが命運を別けるかもしれない。一緒に〇〇大学に行こうねなんて軽々しく約束をすると冬に地獄を見る。


 数か月前の現役時代は人間関係に亀裂が入る瞬間を何度も目撃してこっちのメンタルまで削られてしまった。


 それに引き換え浪人生コースは友達関係を築く人は少なくて個人で受験に挑んでいる。同じ高校出身だと多少は会話をすることもあるみたいだけど、それでも数か月前と同じとはいかないみたいだ。


 他の友達は大学生活を謳歌している中、自分はまだ勉強漬けの生活をしている。その負い目と置いていかれてる感は勉強することでしか振り払えない。


「昨日の復習をしておくか」


 朝一の授業まで一時間ほどある。昨夜できなかった分の復習をするために化学の問題集を開いた。暗記科目と思われがちだけど理論からしっかり理解すれば応用が利く。優秀な家庭教師のおかげでグンと成績が伸びた科目の一つだ。


「あの……」


「え? あ、はい」


 予備校に通って二か月。初めて同じ予備校生の女子に声を掛けられた。浪人生といえど女子はおしゃれに気を遣っている。街行く女子高生と比べると露出は控えめながらもしっかりと太ももが出る丈のミニスカートにパーカーを羽織り、大学生と言われても納得できるくらい大人びた雰囲気をまといつつ、サイドテールにはまだ幼さが残る。たぶん僕と同じ一浪だ。


 高校生の時はネクタイやリボンの色で学年がわかったけど予備校にはそういった目印はない。本人の雰囲気だで年齢を判断しないといけないのは大学生や社会人と似ている。


「ごめんない。急に声を掛けてしまった。亀田くん……ですよね。覗くつもりはなかったんです。でも、問題集に書いてある名前が目に入って」


「ああ、はい。亀田ですけど……」


 予備校内で問題集や参考書の貸し借りをすることはないけど念のため名前を書いてある。小学校からの風習だ。

 だけど僕はこの女子のことを全く知らない。記憶を遡っても実は幼馴染がいたという思い出はないし、今日に至るまで特定の女子と仲が良かった時期もない。


「この前の週間テストで急に順位が上がってましたよね? あの、ごめんない。ああいうランキングが好きで人の順位までよく見ちゃうんです」


「まあ、僕も見ますけど。いつも上位に居る人くらいしか覚えてないですよ。すごいですね」


「すごいっていうか、そんなことしてる暇があるなら勉強しろって感じですよね。えへへ」


 城ケ崎さんと生活したおかげで女子への免疫は多少付いていた。高校時代と違って、この人が誰かとグループを組んで嘘告白をするみたいなイタズラの可能性は低いというのも自然に会話できる理由だ。


 成人年齢なんて大人が決めた基準でしかないけど、浪人生だけが通う平日昼間の予備校は大人だけ空間とも言える。生活費を親に出してもらってる自分が大人だなんて胸を張って言えるわけではないけど、こんな風に誰かと話すとほんの何段か大人の階段を上った気になれた。


「それで、あの……良かったら一緒に勉強しませんか? あ、わたし、大河おおかわ小虎ことらっていいます。大きいに運河の方の河。小さい虎で大河小虎です」


「亀田勇気です。成績表に乗ってるそのまんまの亀田に、勇気百倍の勇気」


「存じてます。すごいです亀田くん」


 目をキラキラと輝かせて率直な褒め言葉を浴びせてくれる。少なくとも年下の可能性はゼロなのに後輩感が漂う不思議な人だ。大きめのパーカーが萌え袖になっているのも可愛らしくて、城ケ崎さんとは対極の位置にいる女の子というのが短いやり取りの中で生まれた印象だ。


「あ、でも、人に教えるほどのものでは。それこそ僕よりも成績が良い人に……頼むのも気が引けますよね。知り合いでもなかったら」


 それを言ったら僕と大河さんだって初対面だ。僕から大河さんに声を掛ける展開は絶対にないから、今こうしてお互いに名前を知ったのは奇跡に近い。線路に飛び込む人を助けるよりかは確率は高いだろうけど、


「最初から上に居る人より、途中から伸びた人の方が参考になるかなって。もし亀田くんが恐そうな人なら声を掛けませんでしたけど、この人ならって……ダメ、でしょうか?」


 イスに座る僕を大河さんが見下ろすような恰好なのに全く威圧感を感じない。それどころか態度はものすごく下手したてで、上目遣いに近い庇護欲をそそられている。一口に女子と言ってもなぜこうも大きな差が生まれるのか。


 比較対象が城ケ崎さんというのも極端とは言え、あまりのギャップの大きさに僕の中で何かが芽生え始めていた。


「ダメではないです。ただ、自信がないというか、成績が伸びたのは家庭教師のおかげなんですよ。まあ、その家庭教師に教わることはもうないんですけど」


「え? 何か問題のある方なんですか? あ、ごめんなさい。不躾ぶしつけですね」


「いいんです。問題……だらけと言えばそうかもしれません。感謝はしてますけど。でも絶対にこのままじゃダメだと思って、ちょっと強く言い過ぎてしまいました」


「亀田くんもいろいろ大変なんですね。あの、わたしで良ければお話を聞きますよ。わたし現役時代もあまり友達がいなくて、受験のストレスを溜め込んでしまったんです。学校行事の面倒な仕事も引き受けて、クラスメイトに勉強の質問をされたらちゃんと答えて……そんなことをしていたらわたしだけ落ちちゃいました」


 えへへと笑うその目は憂いを帯びていて、頑張ったんですねと軽々しく声を掛けるには僕らの関係はあまりにも浅かった。

 口ぶりからするに学校の成績は良かったんだと思う。だけどそれ以外にもいろいろな雑用を押し付けられて、利用されて、不満を口にすることができずボロボロになっていく……。

 

 もしメンタルが万全ならきっと今頃ここには居なかった。たいした目標もなくある程度わかりきった結果として浪人生になった僕と違ってそのショックは大きいと思う。


 大河さんの力になれたら……そんな考えが一瞬脳裏をよぎった。だけど僕はそれを振り払った。それじゃあ現役時代の大河さんと同じだ。受験には一人で立ち向かわないといけない。他人に構って自分が落ちたら目も当てられない。

 頼るなら予備校の先生や家庭教師であるべきだ。


「ごめん大河さん。一緒には勉強できないです」


「そう……ですか」


「あ、嫌ってるとかじゃなくて。本当に人に教えられるレベルじゃないんですよ。志望大学も違うだろし。たまに話をするくらいなら全然大丈夫ですから。僕もたまには誰かと話さないと声の出し方を忘れそうだし。はははは」


 あからさまにしゅんと縮こまる大河さんの姿に弁明の言葉が矢継ぎ早に飛び出す。相手だって成人した一人の人間なのに小さな子供を泣かしてしまったような気まずさは僕を焦らせた。


「そしたら、授業が終わったらカラオケに行きませんか?」


 萌え袖で目元をぬぐった大河さんの口から浪人生とは思えない言葉が飛び出た。


「現役生よりも勉強時間は長いですし、たまにはストレスを発散させないと冬に爆発しちゃいます。今から発散させる習慣があれば本番近くに罪悪感も薄れると思うんですけど、いかがでしょうか?」


「えーっと……」


 女子と二人でカラオケ。高校時代に夢見たシチュエーションの一つだ。お互いに制服じゃないのはこの際目を瞑ろう。今着たらただのコスプレだ。

 とても魅力的な誘いに頷きたくはなったけど、こうして大河さんと話すきっかけを作ってくれた家庭教師の顔が頭に浮かんだ。


 一緒に生活しているのに合鍵を持っていない家庭教師は僕が帰宅しないと部屋に入れない。なんなら連絡先も交換していないから帰りが遅くなるという旨を伝えられないし、バカ正直に予備校で知り合った女子とカラオケに行くなんて言ったら愛想を尽かされそうだ。


 それがきっかけで僕との結婚を諦めて御曹司との結婚を考え直してくれたらわりといろいろな問題は解決するんだけど後味は悪い。


「ごめん。今日はちょっと……あと何日かしたら平気なんだけど」


「そう、ですよね。急なお誘いは迷惑ですよね」


「あぁ! でも一緒に帰るくらいなら。駅までおしゃべりしながら帰るだけでも十分なストレス発散になると思う。あと発声練習」


「やった。勉強方法とか家庭教師の先生にどんな風に教わったのか聞きたいです」


 さっきまでしょんぼりしていたのが嘘みたいにパァーッと効果音とエフェクトが現れんばかりの眩しい笑顔に変わった。こんなに喜んでもらえるのなら妥協点を探ってよかったと素直に喜べる。


「授業が終わったら自習室の前で待ち合わせです。今日も一日頑張りましょうね」


 胸の前で小さくファイティングポーズをしてちょこちょこと去っていった。あんなに表情がころころ変わっておもしろい子でも友達がいないなんて世知辛い世の中だ。


 最初の授業まであと三十分。城ケ崎さん以外の女子と話したことで心は軽くなった。いや、浮かれていた。

 だけど沈んでいるよりかは全然良い。問題文をがきちんと頭に入ってくる感覚を噛み締めながら復習に勤しんだ。


 授業が終わったら大河さんと駅まで一緒に帰れる。まだ友達とも呼べない不思議な間柄だけど、浪人生活の中ではなかなかに大きなご褒美だ。

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