第23話 楽しい帰り道

 午前中の授業を終えてからはいつも通り一人で昼休みを過ごした。今まで誰の動向も気にしていなかったけど唯一名前を知った大河さんだけは視界に入る。

 彼女も一人でコンビニで買ったパンを食べていた。


 単語帳をペラペラとめくりながらおにぎりを口に運んでもなかなか頭に入ってこない。何もしないよりはマシという意識で続けている習慣は城ケ崎さんの目にはどう映るんだろう。


 昨夜からろくに話していないせいかふと家庭教師の顔が脳裏をよぎる。


 今朝の出会いが夢だったんじゃないかと思うくらい大河さんとの接点はなく、午後の授業も無事に終わった。


「お待たせしました」


大河さんと知り合ったのは僕の妄想ではなかったみたいだ。自習室の前で立っていたら向こうから声を掛けてくれた。

 今日の数学は問題演習が多くて頭を使ったので表情にも披露の色が見える。それでも他の浪人生に比べると


「いや、全然。同じ教室で授業を受けてるのに自習室で待ち合わせっていうのもなんか不思議ですね」


「誰も知り合いがいないので変に勘繰られることはないでしょうけど、なんとなくです」


「わかります。なんとなく」


 女子との会話でしか摂取できない栄養素があると言われたら信じるレベルで心が癒されていくのがわかる。あれだけ頭を使って疲れていたのにすっかり回復していた。浪人生活の中でここまでの充実感を得られたのは久しぶりだ。


「あの……帰る前に一ついいでしょうか?」


「ええ、なんでしょう」


「失礼だったら申し訳ないんですけど、亀田くんって何浪ですか?」


「あぁ、たしかに気になりますよね。学年とかないから。一浪です。この前まで高校生でした」


「同じです。良かった。先輩だったらどうしようかと」


「学年とかないから一、二歳の差なら気にしない方がいいかもですよ。大学生になったら年下の同級生もできるわけだし」


「で、ですね。ごめんなさい。同年代の人とお話しするのが久しぶりでどうにも敬語が抜けなくて」


「僕も女子と話すのが久しぶりでつい敬語になっちゃいます。おいおい自然に話せたらいいなとは思ってますけど」


 なんとも初々しい和やかな空気に包まれる。こんなことをしている場合じゃないのに当時体験できなかった青春を取り戻しているみたいな感覚。たぶん大学生になるまで取っておかないといけないやつだ。


「今日の数学は大変でしたね。全部の範囲は習い終わってるはずなのに初めてみたいな感覚でした」


「わかります。現役の時もそれなりに勉強して共通テストも受けたはずなのに……未知の問題ってまだまだ作られてるんだなって」


「問題を作ってる人はどういう頭の構造をしてるんでしょうか。受験生を苦しめることに喜びを見い出してるとしか思えません」


 萌え袖でファイティングポーズを取りながらぷりぷりと怒る。制服を着たら高校一年生でも通じそうなあどけない表情は怒っているのに可愛らしい。


「亀田くんは家でどれくらい勉強してます? 家庭教師が付いてるんでしたっけ?」


「そんなに長時間はしてないですよ。睡眠をしっかり取れって家庭教師にも言われてるし。その日の復習だけはちゃんとするって感じで」


「ふむふむ。やっぱり時間よりも内容なんですね」


「そうは言っても時間はいくらあっても足りないって感じます。一度は習って自分なりに猛勉強したはずなのに忘れてることも多くて。周りと差が付かないと受からないわけだし」


 八十点で満足していたら周りが九十点を取って自分だけ落ちる。確実に安心するためには百点満点しかない。だけどそれはあくまで理想でしかなくて、城ケ崎さんでさえ完全解答はできなかったと言っていた。


「そうなんですよね。周りのことを気にしたらいけないけど、周りよりも良い点を取らないといけない。受験って難しいです」


 和やかな雰囲気がちょっとずつ重くなっていく。話題を変えようにも共通点が見つからないし女子が喜ぶ話題もわからない。浪人生の僕らにとって話題と言えば勉強のことばかり。


 カラオケにでも行けば歌の上手さとか好きなアーティストの話題も見つかるけどそうも言っていられない。


 気まずいままで別れたらまた同じ教室で授業を受ける浪人生という関係に戻ってしまう。出会いを求めているわけではないけど話し相手が居るというのは心理的な負担が軽くなるというのはこの二週間で実感している。


「あー、そうだ。カラオケなんですけど。模試が終わったらタイミングなんてどうですか? さすがにその日くらいは息抜きしても良いと思うんですよ」


「いいですね! ぜひぜひ。亀田くんはカラオケにはよく行くんですか?」


「全然……ですね。その、僕もあまり友達が……」


「あはは。一緒です。わたしも数えるくらいしか。放課後に友達とカラオケ。ずっと憧れてました」


 さらりと飛び出した友達発言に心の中でガッツポーズをした。大河さんは僕を友達として認識してくれている。まさか予備校で、しかも女子の友達ができるなんて思ってもみなかった。


「あの、ごめんなさい。わたし歩くの遅くて」


「いや、全然。僕の方こそ速くなってない?」


「大丈夫です。えへへ。いつも一人で帰ってたので、こんな風にお話ししながら歩くだけで心が軽くなります」


「僕もですよ。授業が終わっても明日も勉強か~って。大学生になっても同じなんでしょうけど、浪人生は辛いです」


「でも、頑張りましょうね。亀田くんは成績がすごい伸びた天才ですから」


「天才なんかじゃないですよ。天才だったら京東大に現役合格してます」


「もしかして亀田くん、京東大を目指してるんですか?」


「あ……えっと」


 つい口を滑らせてしまった。あまりにも高すぎる目標は無謀な挑戦だと笑われる。いくら成績が伸びたと言っても元々があまり良くなかっただけ。常に上位に居る層に比べたらまだまだだ。


「実はわたしもなんです。その、高校生の頃にいろいろあって。その人達を見返したくて京東大を目指してたんですけど見事にダメで」


「まさか志望大が一緒とは思いませんでした。それでこの予備校に?」


「はい。っていうのは半分で、家が近いので」


「あぁ、そうですよね」


 大学生ならともかく浪人生で一人暮らしをする方が珍しい。普通は実家から通って、その後の合格状況で生活を変える。

 大河さんはそんな普通の浪人生だったことに少しだけほっとしている自分もいた。家庭内でごたごたがあって自殺を考えるタイプだったら僕にはもう受け止めることはできない。


 人の命を救うなんて大それたことは人生の中であの一回が最初で最後。僕にはそんな大きな力はない。きちんと訓練をして、常日頃から命を救う使命感を持っていなければ不可能なことだ。


「すれ違う高校生達は予備校に行くんでしょうか」


「だと思います。こっちの方ってあんまり遊び場所はないですから」


「たまに通ってた高校の制服の子を見かけるんですけど、なんていうか顔を隠したくなるんですよね。面識はないのに」


「ちょっと気まずいかもですね」


「亀田くんは平気なタイプですか?」


「実は僕、地元を離れて一人暮らしして浪人生やってるんですよ。だから知り合いは全然居なくて。周りの目を全然気にしなくていいから親に感謝しています」


 うまく笑顔を取り繕えているか自信がなかった。周りの目を気にしないで済んでいるのは両親の方だ。だけどお金は出してくれている。感謝しなければいけない。理性と感情がせめぎ合って、心がぐちゃっと押し潰されそうだ。


「わっ! 一人暮らしなんですね。勉強と家事を両立してるなんて亀田くんはやっぱりすごいです!」


 尊敬のまなざしがぺちゃんになった心にグサっと刺さり、二度と膨らめないようとどめを刺された気分だ。

 成績が伸びたのは城ケ崎さんのおかげ、きちんとした食事を作ってくれているのも城ケ崎さんだ。


 洗濯や掃除はしているとは言え、ほとんど実家暮らしとは変わらない。むしろ優秀な家庭教師が付いている分、他の浪人生より環境は恵まれている。


「あっ! もう駅です。一人で歩いてるといろいろ考えちゃって長く感じるのに、亀田くんのおかげであっという間でした。ありがとうございます」


「こちらこそ。僕も楽しかったよ。それじゃあまた明日」


「はい!」


「って、実は乗る電車が同じだったり? 僕はこっちなんだけど」


「残念ながら反対です。あの、朝は何時くらいに駅に着いてます? 良ければ朝も一緒に歩きたいなって」


「七時五十分くらいかな。だいたい同じ電車に乗るから」


「それじゃあ何度か知らないうちに一緒に歩いてたかもですね。えへへ」


 ほんのりと頬を桜色に染めて微笑む姿にしぼんでいた心が少しずつ息を吹き返す。もし同じ高校に通って、同じクラスになったとしても僕らはこんな風に言葉を交わすことはなかった。


 最初から学校の成績が良かった僕は大河さんに敬遠されていただろう。難易度の高い予備校のテストに付いていけず、そこから逆転して成績が伸びたからこその出会い。


 浪人して親にも金銭的に迷惑を掛けているのにこんなことを考えるのは不謹慎だとわかっていても、この出会いだけは浪人して良かったと思えた。


 待ち合わせをして、いつもよりゆっくり歩いたことで駅への到着が遅れていることを忘れるくらいには浮かれてしまっていた。


 誰もが目を惹かれる圧倒的な美人。長い黒髪が暖かな風に揺れて大河さんも思わず視線を奪われていた。

 もしかしたら明日の話題は『ものすごい美人を見かけた』かもしれない。


 僕はただできたばかりの友達と一緒に帰っただけなのに、自分の周りだけ空気が冷たくなった気がした。


 こんな風に帰りの駅で城ケ崎さんと会うのは、あの日以来だ。

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