第20話 亀裂
「おかえりなさい」
雲行きが怪しかったので駅から早歩きをした甲斐あって買い物帰りの城ケ崎さんより一歩早く玄関に辿り着くことができた。
たいてい廊下で待っているので大家さんに遭遇していないか肝を冷やすことが多い。
何日かに一回会うくらいならたまたま泊まりに来たと思ってくれるだろうけど、毎日となれば一緒に住んでいると疑われても反論できない。実際一人分の家賃で二人が暮らしている状態なんだから悪いのはこっちだ。
だからこそ今日こそハッキリと言わなければいけない。
「ただいま。今日は早いのね」
エコバッグから飛び出た長ネギがすごく庶民的なのに放たれているオーラはセレブそのもの。ボロアパートに咲く一輪の花と言うべきか、とても目立つ存在だ。通りがかる人が訝しげにこちらを見ていた。
「雨が降りそうだったので走ってきました。荷物持ってるとさすがにキツいですね」
「せっかくなら雨が降らなくても走って帰ればいいのに。いいトレーニングよ」
「さすがにこれからの季節は蒸し暑いから勘弁してほしいかな」
「無理は禁物だけどね。さ、早く鍵を開けてちょうだい」
日曜日にタイムセールで買ったものとは別に城ケ崎さんはスーパーで買い物をしてくることが多い。量は少ないけれどその日のお買い得品をゲットしているらしい。
大学で講義を受けて夕飯を作って、その後に僕の勉強を見る。
家庭教師のバイトと考えれば一般的な大学生と変わりはしないけど、その間に家事が挟まっているのでやっぱりスペックが高い。
「そうそう。毎週月曜日にやってるテストの順位が良かったんですよ。上から探した方が早いのは初めてです。ありがとうございます」
「当然よ。私が勉強だけでなく体も鍛えてるんだから。学力を伸ばし、さらにそのパフォーマンスを余すところなく発揮する体作りもする。完璧な家庭教師だわ」
「普通の家庭教師は体作りなんてしないですけどね」
「普通じゃないから私に務まるのよ」
成績が伸びたのは当然と言わんばかりに過度に感動することも称賛することもなく食材を冷蔵庫に詰め始める。服装はボロアパートと釣り合わないキラキラと清楚なのに、なぜかこの部屋にすっかり馴染んでいる。
もし彼女がここから居なくなったら寂しくなるだろうな。だけどそれが本来の姿だ。普通の家庭教師じゃない。体作りの面倒を見る点だけではなく、こんな風に住み込みで家事までこなしているところもだ。
「あの、城ケ崎さん。少し時間いいですか?」
「手短にね。今日は肉豆腐を作るんだから」
「えっと、たぶん料理をしながらだとダメです。ちゃんと話に集中してほしいです」
「…………わかったわ」
可愛さよりも機能性を重視したシンプルな柄のエプロンを外してイスに腰を下ろした。狭い部屋に置かれた小さなテーブルを使う時は二人が肩を並べるように座る。
二週間一緒に寝食を共にしても美人は美人。真正面で目と目を合わせるのは実はまだ緊張するからこのスタイルは助かっていたりする。
同じベッドで眠っていても、やっぱりこの人と結婚する未来は想像できない。
「話というのはですね、二週間もここいるじゃないですか。大家さんも言った通りさすがに契約を変えないとマズいと思うんですよ」
「そうね。一人分の家賃で二人が使うなんて契約違反よ。お金のことは心配しなくていいわ。私が支払うから」
「じゃなくてですね。最初にも言いましたけど契約内容の変更は困るんですよ。うちの親に連絡が行くから。城ケ崎さんのことをなんて紹介すればいいんですか」
「家庭教師で婚約者とでも紹介してもらっていいわ。京東大生でしっかり生活費も稼いで、文句はないと思うわ」
「でもそれって、城ケ崎さんの立場と同じですよね?」
好きでもない男と結婚させられる。それがイヤで自殺しようとした。もちろん僕は城ケ崎さんを嫌いではない。食事や勉強の面倒を見てくれてものすごい美人。世間から見ればとんでもない豪運に恵まれてる。
だけど、彼女の境遇を考えると素直に喜べない。どこか無理をして、勢いで結婚なんて言ってるんじゃないかと考えてしまう。
「勇気は私のことが嫌いなの?」
力強い瞳の奥はじんわりと潤っている。強いオオカミとか弱い子犬が混ざった不思議な瞳は彼女の人間性を表しているように見えた。
「そうは言っていません。好きか嫌いかでは言えば好きです。あ……なんか恥ずかしいですね。でも、その好きは恋愛的な好きっていうか、人間として素敵だと思ってるやつで」
「ふふ、嬉しいわ。そんな風に言ってくれるなんて。人間として素敵。私の外見だけで好きになってるわけじゃないってことでしょ?」
「城ケ崎さんは勉強も運動も料理もできて、大学生なのにちゃんと自分でお金を稼いで、僕なんかとは比べものにならないくらいすごい人です。尊敬もします」
涙目になりかけた彼女を持ち上げるための方便じゃない。本心から出た称賛の言葉だ。謙遜せずに素直に受け取った城ケ崎さんは機嫌を取り戻したのか口角が上がっている。
「体目当てじゃないのならより一層私は勇気のことが気に入ったわ。対等な関係になれると思う」
「だからって卒業してすぐに結婚もできませんし、もしここの契約内容を変えてうちの親に城ケ崎さんを紹介したら、城ケ崎さんのお父さんにも会うみたいな話になりますよ」
「それは……諦めるわ。お互いの親が認めればあの男との結婚もなくなるし」
「僕の気持ちはどうなるんですか! いろいろ面倒を見てくれているのは感謝しています。実際成績も上がって、生活レベルも改善して……でも結婚なんて考えられないんですよ! 日本で一番大学を受験して合格するかもわからないから!」
隣に大家さんが居るのに大きな声を出してしまった。感情が高ぶって声量をコントロールできなくなっている。こんな大声が出るなんて自分でも驚いてるくらいだ。
「お金があるのならホテルに泊まればいいじゃないですか! このまま居座るならそれこそ警察に……」
「警察を呼んだら勇気に軟禁されたって証言するわよ?」
「んなっ!」
その目は本気だった。線路に飛び込む時と同じ世の中に絶望した冷たい目。あの時はどうにかしなきゃとがむしゃらに手を伸ばしたけど、今の僕にはこんな目をした彼女に何をすればいいのかわからなない。
「学歴社会とは違うけど、京東大の言葉と浪人生の言葉なら世間は前者の言葉を信じるの。肩書にばっかり踊らされて本当にバカみたい。でもね、利用できるものは利用する。それが社会だから」
「助けた恩を仇で返すようなまねをして許されると思ってるんですか?」
「元はと言えば勇気が勝手に私を助けたんじゃない! その責任を放棄するつもり!?」
「浪人生にそんな責任を押し付けないでくださいよ!」
「…………そうね。ごめんなさい。わがままだってわかってるけど、もう少しだけここに居させて。朝のジョギングも夜の家庭教師も、勇気の気が向いたら指導はするから」
「すみません。僕は大きな声で言い過ぎました」
「食材がもったいないから夕食は作るわ。それまで今日の復習でもしてて」
「はい」
大きな声で感情を発散したあとに訪れた数秒の静寂。そこでお互いに冷静さを取り持出したのか言い争いはあっさりと集結した。
トントントンとネギを切る音がどこか重苦しい。問題集を開いてもその内容が頭に入ってこなくて全く進まない。
こんな日はさすがに同じベッドに入る気にはなれず、復習を諦めて寝床の準備に取り掛かった。幸いなことに朝晩の冷え込みは和らいで、日によっては暑いくらいだ。
タオルケットに包まれば安眠とはいかないまでもそれなりに休息はできるだろう。
本当ならこのベッドは僕が使って、城ケ崎さんがホテルにでも行けばいいのに。
口に出してはいけない言葉だと判断できるくらいには落ち着きを取り戻していた。
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