第25話 楽しかった
大学の授業に出席しながら引っ越すのは大変ということで日曜日まで同居生活が続いた。今日はついに城ケ崎さんがこの部屋から出ていく日だ。どこに行くかは僕からは特に尋ねていないし、向こうから言うこともなかった。
ホテル暮らしを始めるのかもしれないし意を決して実家に戻るのかもしれない。
最近は梅雨入り間近ということもあり雨続きで朝のジョギングは中止になっていた。体に染みついた習慣というのは簡単には抜けないもので五時前には目が覚めて、せっかく早起きしたのだから勉強でもするかと有意義な時間を過ごせていたように思う。
栄養のバランスが考えられた朝食に舌鼓を打ち勉強への気合いを入れる。
浪人生の中ではかなり充実した生活をしていた。家庭教師の強引さに振り回された感も否めないけど、これが今日で終わるのかと思うと感慨深いものがある。
「荷物をまとめてる様子はなかったですけど、本当に今日出て行くんですよね?」
「ええ、段ボールに詰めてそれをまた出すのは面倒だから置いていくわ。下着とかはちゃんと持っていくけどね。勇気はガッカリしちゃうかしら?」
「しませんよ。処分方法に困るので持っていってもらって助かります」
「勇気が下着に発情する変態じゃなくて安心したわ。私と一緒に寝ても手を出さない強靭なメンタルの持ち主なだけあるわね」
「既成事実を作ったら面倒だからですよ。それに朝から走って勉強漬けの生活で疲れてましたし」
「あら? 体力が有り余ってたら襲われてたのね。秋くらいには襲われてたかしら」
まんざらでもなさそうな顔で城ケ崎さんは笑っている。彼女なしの浪人生活に避妊具は不要なので当然用意していない。ちゃんとした恋人関係になって、満を持してそういう関係になる時はきちんとコンビニに行って準備するだろうけど、日々の勉強疲れのストレスを発散するために後先考えずに僕が行動を起こしたらどうするつもりだったんだろう。
そんなもしもの話はもう起きないから考えても仕方がない。だけど、時々妄想することはありそうだ。
いくら賢者になってもすぐ隣に美人が寝ているという状況は本当に我慢するのが大変だった。全裸よりも生活の中で時々チラリと見える谷間だったり無防備な太ももの方が記憶に焼き付く。なによりエロい。
ネットが発達して簡単にアダルトコンテンツに簡単にアクセスできるようになったとしても身近なエロには敵わない。本人の前では絶対に口に出せないけど一番の学びはこれだ。
「タクシー遅いわね」
「この雨ですからね。混んでるのかも」
梅雨のシトシトとした降り方ではなくバケツをひっくり返したような豪雨が大きな音を鳴らす。今日が日曜日で良かった。こんな雨の中で予備校に行くのは勘弁願いたい。
「タオルを一枚貰っていいかしら? あんまりビショビショのままでタクシーに乗るのは悪いから」
「もちろんです。っていうか、この辺のタオルだって城ケ崎さんが買ったやつじゃないですか。一枚どころか全部持っていってください」
「私からのせん別よ。二週間もここに泊めてもらった」
「お礼してくれるんですね。自殺を止めた責任を取らされてるのかと」
「最初はそうだったわ。あそこで人生が終わるはずだったから行く当てもなくて、だから京東大生にして私と対等なパートナーにしようとした。重荷になっていたのならごめんなさい」
こんなにジメジメしているのにその長い髪はそれをものともせず出会った頃以上に艶やかでさらりと重力に従った。
城ケ崎さんからこんな風に素直に謝罪されると普段の態度とのギャップが大きすぎて意味合いが強くなる。
日頃から堂々としているって大事なんだと改めて実感した。腰が低いのと自信がないのは違う。体力がついて成績も上位をキープできたらもっと堂々としていよう。自慢するのではなく、自信を持つために。
「家賃のことはいろいろありましたけど、前にも言った通りそれ以外は本当に感謝してます。成績は伸びたし、トレーニングも自分なりに続けようと思ってます」
「私のおかげで予備校で出会いがあったものね」
「で、出会いとかじゃないですよ。大河さんはただの友達で」
「おしどり夫婦だって最初は友達だったのよ?」
雨音に負けないくらいのエンジン音が外から聞こえた。窓から下を見るとタクシーが停まっている。
「来たみたいです。タクシー」
「そう。もう少し待てば雨が弱くなったかもしれないのに。残念」
ふっと自嘲気味に笑って大きなエコバックを肩に掛けた。城ケ崎さんにしては大荷物だけど、引っ越しにしてはかなり少ない。通販で買った物の大半をこの部屋に残して彼女は去っていく。
「私ね、勉強は有名な家庭教師に教わって、いろいろな習い事やマナーも一流の講師に教わって身に付けたの。その費用を出してくれたことはパパに感謝してる」
こんなに雨が降っている中でハイヒールは危ないんじゃないかと思ったけど、履き慣れている城ケ崎さんなら大丈夫だろう。僕が口出しすることじゃない。それに、ここで何か言葉を挟むのは違うと思った。
「誰かに教わって成長を実感するのは楽しいわ。できることが増えていく。嫉妬する人間は放っておけばいい。京東大くらいになると周りのレベルも上がって助かるわ。変にプライドだけが高いおバカさんもいるけど」
ドアノブに手が伸びる。ほんの少し力を入れるだけでこの部屋から出てしまう。
「誰かに教えるって初めての経験だったから楽しかったわ。今までは教えてと言うだけ言って、結局誰も付いてこれなかった。私だって最初から全部できたわけじゃない。何度も失敗して、挫折して、それを乗り越えただけのに」
ガチャリと鈍い金属音がした。こんなにもドアの音が重かったのは初めてかもしれない。もし部屋に意志があるのだとしたら、部屋が城ケ崎さんの引っ越しを拒んでいるのかもしれない。
綺麗に掃除してくれるし、浴室だって冴えない浪人生よりも美人に使ってもらえる方が嬉しいに違いない。どんなに努力しても僕は城ケ崎さんと対等にはなれないよ。
「そうだ。これを渡すのを忘れてた。もし家具が邪魔なら業者に頼んで処分して。たぶんこれで足りるはずだから。お釣りはいらないわ」
「あ、え? これって……」
厚みのある茶封筒を強引に押し付けられて反射的に手に取ってしまった。中身が別のものということはないだろう。一か月の生活費よりも多い額がこの中には入っている。それくらいの厚みと、重みがあった。
「荷物はまとめてないけどいくらか処分はしたのよ。最近は出張買取もあって助かったわ。現金でもらえるし」
「いや、あの、話が見えないんですけど」
「立つ鳥跡を濁さずってことよ。処分の依頼だったりは勇気にお願いしちゃうけど、日曜日なら家にいるでしょ?」
「だからってさすがにこんな金額……」
「結局家賃も払ってないしね。諸々含めと言うことで。そろそろ行くわね。タクシー、待たせてるから」
雨がさらに激しくなる。台風でも来てるんじゃないかと思うレベルだ。不要不急の外出は控えてくださいってテレビでも言ってるんじゃないだろうか。
「この雨だから出発を伸ばしたら? あと何時間か」
「来てもらったのに申し訳ないわ。それに……」
何か言い掛けて城ケ崎さんはカツカツと音を立てながら廊下を歩いていく。雨音に負けないくらい力強い足音から意志の強さを感じた。
すぐに靴を履いて走れば追い付けるのに、体が全く動かない。
線路に飛び込む城ケ崎さんの手を掴んだ時は無意識に動けたのに……やっぱり僕は名前負けしている。
開いたままの玄関から雨が吹き込む。
生温い風と冷たい雨が体にまとわりついて気持ち悪い。
「勇気!!」
もう二度と聞くことはないと思った彼女の声が届いた。絶対に近所迷惑だ。だけど、今はそんなこと全然気にならない。
「楽しかった! ありがとう!!」
命を助けた時にはお礼なんて言わなかったくせに。ビンタをくらわせて罵倒を浴びせたくせに。
面と向かって感謝を伝えないなんてマナー違反じゃないのか。京東大生は変にプライドが高いやつがいるから困る。
僕だって、本当はちゃんと……。
今生の別れではない。彼女に会える場所はわかっている。むしろ、偶然駅で会わないように気を付けないといけないくらいだ。
来年、京東大で。
押しつけがましい家庭教師のせいで受かっちゃいました。
ちょっとした皮肉を込めてお礼を言ってやる。本当にしょうもない理由で、合格そのものが目的になってしまっているけど、明確な目標ができた。
あの家庭教師はやっぱりすごい。
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