第37話 失くしもの
「ごちそうさまでした」
食欲はなかったけど城ケ崎さんが作ってくれた目玉焼きを胃袋に押し込んだ。何も食べずに予備校の授業を耐えられる気がしなかったし、勉強を頑張ると決めた以上はコンディションにも気を配らないといけない。
朝から城ケ崎さんが強制連行されたのに無理矢理にでも食事を摂れる自分のメンタルには驚いた。何か大事なものを失くしたしまった気がする。
「残りは夜にしよう」
二人分あったので一つは冷蔵庫に入れて夕食にすることにした。これを食べ終われば城ケ崎さんが過ごしたこの三日間のことを思い出にできる。キャリーケースは処分方法が決まるまでは大目に見よう。不法投棄はよくない。
「っと、そろそろ行かないと」
食べるペースは普段より遅かったせいであっという間に出発時刻になっていた。気持ちを切り替えている時間はない。まるで入試本番だ。受けたばかりのテストに後悔があっても次のテストに集中しないといけない。
捉えようによっては城ケ崎さんは体を張って、人生を賭けてそれを教えてくれた。
「勝手な解釈だよな。助けてって言ってたのに」
駅で手を伸ばしたみたいに咄嗟に動けなかった。何も考えずに体が勝手に動くわけもなく、むしろいろいろなことを考えて固まってしまった。
あの日みたいにがむしゃらに助ける勇気なんて僕にはない。城ケ崎さんは僕の勇気を買ってくれていたけど、残念ながら買い被り過ぎだ。僕は名前負けしている。
「あ……やば」
次の生活に向けた準備をするために大学を休むけど買い出しには行きたいというので鍵を貸していた。初日は夜に一旦返してもらっていたけど、一昨日と昨日はそのまま預けていたのを思い出す。
そろそろこの生活を終わらせようとしていたはずなのに、心のどこかでずっと続いてほしと願っていたのかもしれない。
「さすがに戸締りしないのは……」
もう城ケ崎さんはいないから國司田がガサ入れに来ることもない。最悪通帳や印鑑を持ち歩けばこの部屋に金目の物はなくなるけど、だからと言って空き巣が入って良い理由にはならない。
「大家さんにスペアキーを借りるか。なんか、気まずいな」
良いおばあさんだと思っていた大家さんも國司田や鶴蔵さんに買収されている。二週間も契約者以外が暮らすことを許してくれた味方だと思っていたのに、今では敵のように感じてしまう。
ただ、お金を払わず契約に反する行為をした僕と、お金を払って事前に迷惑を掛ける承諾を得ていた國司田達とでは後者に軍配が上がるのは当然のことだ。
「時間がない。行くぞ!」
気合いを入れて大家さんの部屋のインターホンを鳴らした。はいはいと声が聞こえた。そんなに大きな声ではないのに部屋の外に漏れるということは、今朝の声はきっとアパート中に聞こえている。
住人のうち誰か一人でも買収されずに警察を呼んでくれる立場にいてくれたら城ケ崎さんの未来は少し変わっていたかもしれない。
「……人任せじゃん」
僕自身が彼女の助けに応えなかった。大家さん達は何も悪くない。何も事情を知らず、外面の良い人に好青年に説得されたら首を縦に振るのは仕方のないことだ。
「あら? 亀田くん。おはようございます」
「おはこよございます。あの、すみません。鍵を失くしてしまって……スペアを貸してもらっていいですか?」
「そうなの? 付け替えは亀田くん持ちになるけど、どうする? 新しいのにする?」
「大丈夫です。空き巣だってわざわざうちを狙わないですから。えと、このスペアを元に合鍵を作って返せばいいですか?」
「そうね。急がないから都合の良い時でいいわよ」
「ありがとうございます」
「これを失くすと本当に入れなくなっちゃうから気を付けて」
「はい。気を付けます」
鍵の紛失を怒ることなく快くスペアキーを貸してくれた。優しい大家さんで本当に助かる。だけど國司田達の味方をしたという事実が小骨のようにチクチクと心を差し続けた。
スマホを開いて時刻を確認するともう八時を過ぎていて、いつかと同じように大河さんからメッセージが届いていた。
授業には間に合うけど待ち合わせにはすでに遅れている旨を返信して、キーホルダーのGPSが今どこに居るのか確認してみる。
「うわ。こりゃ捨てられたな」
ものすごい速さで北に移動していた。適当なトラックの荷台に捨てられて、そのうち処分されるんだろう。
近所に落ちていると悪用されるかもしれないけど、ここまで遠方ならどこの鍵が特定できずにそのうち処分されるはず。
「一安心だ。うん」
失くしたものはもう帰ってこない。だけど、それで良いこともある。
「アプリも消しておくか」
失くした鍵の所在をいつまでも気にしていたら勉強に集中できない。遥か遠くで行方不明になった。これでおしまい。
一つアプリが消えたことでアイコンが一つずつ移動した。綺麗に並んでいたのにぽっかりと一か所空白ができて違和感がある。
「そのうち慣れるだろ」
適当なアプリを入れてまで空白を埋める気にもなれなくて、どこか寂しさを残したまま予備校へと向かった。
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