第2話 罵声

「あの、大丈夫ですか?」


 尻もちをついているのはお互い様とは言ってもこんなにも柔らかな肌を持つ女性と僕みたいな浪人生ではコンクリートから受けるダメージの意味が違う。周りの人達だって僕よりも彼女の方が心配なはずだし、実際注目は彼女に集まっているように感じた。


「…………」


 あと一歩のところで死んでしまう恐怖を感じたからか彼女は一言も発さない。立場が逆なら僕だってきっとそうだ。自ら命を絶とうと考えても、死の恐怖はそう簡単に超えられるものじゃない。


「えっと……とりあえず場所変えます? 必要なら救急車を」


「なんてことしてくれたのよ!」


 音が聞こえるよりも痛みを感じるよりも先に「なんで?」という感情が真っ先に湧いてきた。パーーーンという乾いた音が耳に届き、頬がじりじりと焼けるように痛くなってきたようやく自分が何をされたのか気付いた。


「…………え?」


 電車にひかれそうだった女性を助けたら、その張本人にビンタされてしまった。ラノベのタイトルになりそうな体験を今まさに経験している。これが二次元なら恋の始まりなんだろうけど、残念ながらその可能性を微塵も感じない。


 頭が混乱してお礼と非礼を間違えたとかではなさそうだ。彼女の綺麗な瞳は明確な敵意を宿している。


「意を決して死のうとしたのに邪魔をしておいて恩着せがましい! この偽善者!」


「いや、あの……」


「私ほどの美貌の持ち主がふらっと線路に飛び込むなんてよっぽど辛いことがあったに決まってる。想像力の欠片もないのね!」


 尻もちをついたまま名前も知らない美人は僕に罵声を浴びせ続ける。その勢いはとどまるところを知らず反論の余地を一切与えない。


「だいたいチラチラチラチラこっちを見て気持ち悪い。人生の最期が気持ち悪い視線を浴びてるのは少し残念だったわ。でもどうせ死ぬならなんでもいいかって思ってたのに、よりにもよってその気持ち悪い視線の主に邪魔されるなんて最悪中の最悪よ。死にたい気分だわ」


 あまりに理不尽な主張をされて一度真っ白になっていた頭に思考力が戻ってくる。死にたい気分だったから線路に飛び込もうとしたんじゃないんですかと脳内でツッコミを入れられるくらいには人助けをした高揚感が冷めていた。


「駅員さん呼んだ方がよくない?」


「でもなんか面倒臭そうだし」


「動画動画。絶対バズる」


 人身事故は回避され非常停止ボタンも押されていないものの、周囲から見れば痴話喧嘩のようなおもしろトラブルが発生している。次の電車が来るまでもう少し時間があるとなれば、動画をSNSにアップして承認欲求を満たしたいという考えもわからなくはない。


 僕だって無関係な第三者ならこっそり動画を撮ってアップしていたかもしれない。『自殺を止めた勇気ある青年がなぜか美女に罵られてるwww』

 みたいな感じで。一応顔にはモザイクを掛けても彼女のスタイルの良さは隠せな

い。最初は次々に浴びせられる罵詈雑言に注目が集まっても、最終的には体に視線

が向いて二度バズるはずだ。


「ちょっと聞いてるの! あなたは正義感に酔いしれているかもしれないけど私は

本当に迷惑しているの。次は各駅停車で速度が落ちるから死にきれないかもしれな

い。あぁ、せっかく覚悟を決めたのに」


「あの、とりあえず一旦場所を変えませんか? 動画も撮られてますし」


「私の美貌を最期に残してくれてるんでしょう? 死ぬその瞬間まで撮ることがで

きたのなら天国で褒めてあげるわ。絶世の美女の死なんてそうそう撮れるものじゃ

ないからね」


 僕に対する暴言からだんだんと己の美しさの自慢に変わると同時に彼女はスッと

立ち上がった。さっき並んだ印象だと背は僕より少し低いくらいなのに自信に満ち

た表情とオーラがその存在感を大きく見せている。


 世の中には美女に見下されることに快感を覚える人がいるみたいだけど、残念な

がら僕にはそんな趣味はないようだ。顔が少し隠れる程よい大きさの胸も垂涎モノ

なのに今はそれどころじゃない。


「すげー美人。今なら写真撮ってもバレなそう」


「さっきから死ぬとか言ってるけど大丈夫?」


「どうせ死ぬなら最期に一発ヤラせてほしい」


 自殺をほのめかす発言をしているのに聞こえてくるのはゲスな言葉ばかり。見ず

知らずの女性を心配するような声は少ない。実際、あの罵声の勢いからは自殺する

ようには思えない。だけど僕は知っている。彼女の悲し気な表情を。


 もし僕が無意識に手を伸ばしていなかったら彼女は間違いなく死んでいた。目の

前で人間がぐちゃぐちゃになったらトラウマになって何も手が付かないかもしれな

い。受験勉強に身が入らない言い訳にはなるかもしれないけど、他人の死を利用し

ているみたいで自己嫌悪に陥りそうだ。


 彼女にどんな暴言を浴びせられたとしても自分の行動は間違っていない。それに

本人も認める美貌を彼女は持っている。残念ながらこの社会は男女平等ではない。

容姿が整っている女性は優遇される。その容姿ゆえの苦労もあるのかもしれないけど、僕からすれば苦労を補って余りある特典を得ている。


「さあ、私の最期を存分に撮影しなさい! この美貌が世界に存在した証を残させてあげる」


 腰に手を当てて胸を強調するとカシャカシャとシャッター音があちこちから鳴る。


「これ撮影会なん? 美人だけど誰?」


「さあ? でも胸がデカいし脚綺麗だからグラビアの人?」


「雑誌でも見たことない。スカウト断ってそう」


 憶測が飛び交うのを構うことなく撮影会は進んでいく。シャッター音に釣られて集まってきた人がさらに写真を撮り、それがまた人を呼んで、半径数メートルの騒ぎがホーム全体を巻き込む大騒動へと変わっていった。


「何かトラブルですかー?」


 そうなれば当然駅員さんもやってくるわけで、野次馬と違ってトラブルに首を突っ込んで対処するのが仕事なので僕らを無視するわけにはいかない。


「線路に飛び込む前に私の撮影をさせてあげてるんです。よければどうですか? ここまでの美人、そう居ないですよ?」


 明らかに年配の駅員さんに対してきちんと敬語を使い事情を説明するあたりに常識を感じつつも、線路に飛び込むなんて正直に話したらどうなるかを考えてないあたりが非常識だと思った。


「飛び込む? いやいや、やめてくださいよ。それにこんなに人が集まって。警察呼びますよ?」


「なんでですか! 本当ならさっき死ねたはずなのにこの男に邪魔をされたんですよ。私はもう死んだも同然なんですからちゃんと死なせてください」


「訳のわからないことを言わないでください。あなたが死んだら、今ここに居る大勢の人達が電車に乗れなくなるんですよ」


「だから撮影させてあげてるんじゃないですか。私の美貌に酔いしれていれば二時間くらいあっという間でしょう? それに死ぬ瞬間をSNSに上げれば承認欲求だって満たせます」


「キミ、この人の知り合い? どこかに連れていってもらえるかな? こっちとしても警察沙汰は面倒なんだ」


「え……いや、別に知り合いとかでは」


 騒ぎが大きくなって腰が抜けてしまった。この場から走って逃げ出したくてもそれができず、当事者と言えば当事者だけど彼女の名前も知らないのに知り合い扱いされてただただ困惑する。


「ホームの一か所に人が集まると転落の危険があるですよ。すぐに立ち去れば通報もしないから。ネットで騒ぎになるのは……まあ自分達でどうにかしてください。ほら、立った立った」


 駅員さんに手を掴まれて半ば強制的に立ち上がらされてしまった。今までの何を見てそう感じたのかわからないけどなぜか拍手を送ってくれてる人もいる。


「はい。騒ぎが落ち着いたらまた戻ってきて電車に乗っていいから。ここはひとまず、ね?」


「あ、あの……はい」


 背中をパンパンと押されて駅から立ち去るように促される。名前も知らない美人も一緒に連れて行けと視線で言われているのも感じた。明日からも予備校に通うためにこの駅を使うからこれ以上目立ちたくはない。


「とりあえず行きましょうか」


「なんで見ず知らずのあなたの命令を聞かなきゃいけないの!」


「ほら、こんなに人が集まったらさすがに飛び込めないでしょ」


「たしかに。一理あるわね」


「すみません。お騒がせしました」


 むしろ僕は人身事故を食い止めて鉄道会社から感謝されてもおかしくない立場なのに駅員さんに平謝りして階段を降りていく。この雰囲気では線路に飛び込むのは難しいことに気付いた彼女も大人しく付いてきてくれていた。


「三十分くらいしたらもう誰も居なくなってるかな」


 明日も朝から予備校の授業はぎっしりと詰まっている。さっさと帰宅して夕食を済ませて今日の復習をしたいのにとんだ災難だ。人身事故で電車が遅延するよりかはマシだと自分に言い聞かせて納得させる。


 夜の予備校は部活を終えた現役生が来るので居心地が悪い。実家から離れた場所だから同じ高校の生徒は居ないけど、それでも制服を着ているというだけで身分が違うことをわからされてしまう。


 去年の今頃、彼らと同じように頑張っていたら……そんな風に考えてしまって勉強に身が入らなくなる。


「あの、僕はこっちに用があるので」


 他に行く当てもないので自習室に向かう。これで疫病神の美人とはお別れだ。さすがに今日は人身事故を起こさないだろう。明日以降はもう知らない。二度も三度も自殺するわけじゃない。一回遅延を我慢すれば、もう彼女が電車を遅らせることはない。


 毎日の目の保養になればと思ったけど、住む世界が違う人間とのチャンスを妄想するより勉強でもした方が有意義だ。美人とは下手に関わるな。今日のことを教訓に浪人生として勉強の日々を送ろう。


「バッカじゃないの」


 僕の決意を否定するように彼女は罵声を浴びせた。やっぱり罵られたいという気持ちは理解できない。彼女の冷たい手が僕の体温を奪う。嫌な予感しかしない。もしこの場から逃げる唯一の方法が受験勉強だとしたら、こんなにも勉強したいと思ったのは浪人生活で初めてだった。

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