鶴は恩を仇で返す

くにすらのに

第1話 手を掴んだ

 浪人生になって一か月以上経つと自分が世界から取り残されているような感覚に襲われていた。

 一人息子が浪人生だとご近所にバレたくないために強制的に一人暮らしをさせられて、代わりに生活費も予備校の授業料も全額負担してくれている。親の愛情を感じるような感じないような、そして期待を感じるような感じないような、努力した先に何が待っているのか全く想像できなくて勉強に身が入らない。


 亀田勇気


 自分の名前を刻んだ英単語帳とにらめっこしながら帰りの電車を待つ。大学生らしきグループが楽しそうにゴールデンウィークの思い出を語り合っている。公共の場には相応しくない内容も含まれていて、聞いているこっちが恥ずかしいくらいだ。


 同時に、羨ましいという感情が湧いてくる。もし入試で自分の実力を発揮できていたら今頃あのグループの中に入っていたかもしれない。


「いや、それはないか」


 大学に入っただけで性格がガラリと変わるわけじゃない。合格を勝ち取ったあと、自分で勇気を出して一歩を踏み出した人間があんな風に笑っていられる。そもそも僕は第一関門である入試すら突破できなかったんだ。


 高校時代に教室の隅で耳にしていた男女の話題よりも深い内容が頭に入ってくるのを防ぐように僕は単語帳に意識を向けた。


 ガタンガタンと大きな音と共に特快電車が駆け抜けていく。ちょっと手を伸ばせば時速100kmで進む鉄の塊に触れられてしまうというのも不思議なものだ。生と死の境界線がそこにあるような気がして身震いした。


「…………さすがにダメだろ」


 ほんの一瞬頭に浮かんでしまった一つの選択。プライドの高い両親は息子が自殺なんてしたらその事実を隠して事故死とでも言い張るだろう。死んだあとのことなんて考えても仕方ないのに、ここまで育ててもらったこと、そして今もお金を出してくれていることに対する感謝が僕を引き止めた。


「来年は絶対に合格しよう」


 浪人生という立場に絶望しかけて、両親の顔がチラついて勉強を頑張ろうと思う。だけどその決意はすぐに揺らいでまた目標のない勉強の日々が始まる。この一か月間で何度も繰り返していた。


 目指すは偏差値全国一位の京東大学。勉強漬けの浪人生ならそれくらい当然だと父親に言われた。京東大に受かれば一浪なんてチャラになるし俺の鼻も高い。他に行きたい大学もないからただ言われた通り京東大を目指している。


 何がなんでもという必死さもなければ、他の大学に行きたいとか働きたいという考えもない。そんな自分の気持ちを伝える勇気もない。完全に名前負けしている。その事実がまた僕を暗い闇に落としていく。


「なあ、あの子可愛くね?」


「すげえ美人。脚長っ! 胸デカっ!」


 心が沈み切っているにも関わらず下世話な言葉はしっかりと耳に入ってきた。美人への興味を持っているだけ僕はまだ生きているのかもしれない。本当に絶望していたらこの世の全てに関心を持たないはずだ。


 僕は大丈夫。それを確認するかのように顔を上げた。脚が長くて胸が大きい美人。下世話な会話が本人の耳に届いたら気まずいだろうから少し遠くにいるんだろう。気分転換に周囲を見回すという風を装って、ようやく慣れてきた駅のホームを観察した。


 一目でこの人だとわかった。


 明らかに他の女性とは違う。ミニスカートから伸びる脚は長さもさることながらその美しさに目を奪われる。数か月前まで女子校生と一緒に過ごして生足は見慣れているはずなのに、人生で見てきたどの脚よりも美しい。踏まれたいという感覚はよくわからなかったけど、今初めてその気持ちを理解できた。


 あの白い脚に踏まれるのなら本望だ。プライドなんて全て捨ててやる。今も彼女に踏みつけられているホームが羨ましい。いや、この世の地面全てが羨ましい。


 電光掲示板をちらりと見ると次も特快電車だった。彼女が立つ中央付近は混むので単語帳を広げられない。予備校の最寄駅から自宅の最寄駅まで十分程度。その十分の間に一個でも多く単語を覚えたかったけれど、すっかり彼女に魅了された僕の足は自然とホームの中央に向かっていた。


 声を掛ける勇気はない。ただ、もう少し近くで見たいだけ。だいたいあんな美人なら絶対に彼氏がいる。片や僕は目的もなく京東大を目指す浪人生だ。誰がどう見ても釣り合いが取れていない。だけど、もし僕が京東大生になったら……。


 一浪くらいチャラになる。父親の言葉が頭をよぎった。本人は親としてのプライドを守れるという意味で言ったんだと思う。もしかしたら励ましの意味も込められていたのかもしれない。

 息子の心に全く響いていなかったこの言葉が、ほんの少し僕の心臓を早くする。


 彼女の隣に立つとそのスタイルの良さがよくわかった。カーディガンを羽織って隠そうとしても隠せていない胸のラインは大人の色気を漂わせている。肌も綺麗で、自分とは生まれも育ちも違うというのは簡単に想像できた。


 全体的にキラキラしていて、そのキラキラは彼女を引き立てるために存在している。高級なアクセサリーに負けない輝きを放つ人間。年はそう変わらないはずなのに圧倒的な差を感じてしまう。


 僕は単語帳に視線を戻した。あまりジロジロ見て通報されても困るし、京東大に入ったくらいで彼女と何かあるわけじゃない。顔が良くてコミュ力もあって女性に慣れている京東大生だってたくさんいる。


 冷静さを取り戻せて良かった。運よく合格したあと、勘違いしてイタイ行動に出たら一瞬で大学生活が終わってしまう。だから、今日ここで名も知らない彼女に出会えたのはある意味で運命的だ。ちゃんと現実と向き合うことができた。他の追随を許さない圧倒的な美人だからこそ気付けた。


 そんな人生の恩人の顔を最後に一目見ようと顔を上げた。きっと人生が充実していて、こうして電車を待つ姿も絵になっているんだろう。


 夕陽に照らされたホームと美人。頭の中に浮かんだ映像を超えるものがすぐそこに存在している。……はずだった。


 白い肌はオレンジ色に染まって輝いているはずなのに、今すぐにでも天に……いや、地獄に堕ちてしまいそうな闇の深い儚さを漂わせている。

 

 ガタンガタン。ガタンガタン。


 電車の音が少しずつ近付いてくる。この駅を通過する特快電車はそのスピードを落とすことはない。

 

 いや、まさか。


 横に並んでいた彼女がほんの少し前に出た気がする。黄色い線は超えていない。せっかちな性格で、少しでも早く乗車するためにギリギリまで前に出るタイプの人なのかも。


 だけど今来るのは特快電車でこの駅からは乗ることはできない。「次は特快ですよ」なんて声を掛けてみるか? そんなの知ってますなんて返されたら気まずくて逃げ出したくなる。

 

 同じクラスの女子にすら話し掛けられなかった僕が、見ず知らずの女性に声を掛けるなんて絶対に無理だ。勇気という自分の名前を呪いたくなる。僕に勇気なんてない。

 ますます自己嫌悪に陥って単語帳に視線を戻す気力も失ってしまった。


 ガタンガタン。ガタンガタン。プオーーーーーーーン!!!


 電車がホームに差し掛かったのを知らせる大きな音が響く。それと同時に、暗い表情を浮かべていた彼女の体が前に傾いた。

 貧血でふらっと倒れたのではない。明らかに自分の意志で線路に身を預けようとしているから勢いがついている。


 僕は何も考えていなかった。反射的に体が動く。その感覚すらもない。本当に無意識に行動に移していた。


 見ず知らずの美人の右手を掴み、彼女の体をホーム側へと引き込もうとした勢いで尻もちをついた。


「いててて」


 両手で握った彼女の手はひんやりと柔らかくて、自分の体温を全て奪われても構わないと思えるくらいに触り心地が良い。

 コンクリートにぶつけた尾てい骨の痛みが完全にチャラになるくらいの報酬と言ってもいい。


 僕にも人の自殺を止めるくらいの勇気があるんだな。

 思いがけず美人の手を握れた高揚感と人命を救えた安堵感からほんのちょっと誇だけらしい気持ちになっていた。

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