標本No.5 キイロショウジョウバエ 1

「ところで、標本はいったい、全部でいくつあるの?」

 歩きながら、紀彦が尋ねた。

「全部で10点ですが、No.10は現在準備中なんです。なので、今夜ご覧いただくのは9点です」

「えー? まだ半分も見ていなかったの? ちょっと疲れちゃったな。それに、グロテスクなものばかりなんで、気分があまり良くないよ。吐き気もする。さっきあったホルマリン漬けの標本。ありゃぁ、ひどい臭いだったね。見学、途中で止めるわけにはいかない?」

「もちろん、ご自由ですよ。でも、姉と私が長年苦心して手に入れた標本ばかりですので、是非ともご覧いただきたいです。それに、大変申し上げにくいのですが、途中でお帰りになると、バーにはお立ち寄りいただけません」

「え? 何だよ。そんなこと聞いてないよ」

「誠に申し訳ありません。つきましては、ここに『百獣王ひゃくじゅうのおうせい・スペシャルブレンド』がありますから、これを飲んで何とか最後の展示まで頑張って下さい」

 若葉は緑色の保冷トートバッグからドリンク剤のような小瓶を出して、紀彦に渡した。茶色の瓶に、キラキラ輝く金色のラベルが貼ってある。

「瓶はドリンク剤みたいだな。けど、百獣王精……なんて、聞いたことない。これ、精力剤?」

「はい、そうです。当秘宝館のオリジナル商品です。定価は1本、本体価格5,000円、税込み5,500円ですが、今回は試供品ということで、特別に無料でご提供させていただきます。このチャンスをお見逃しなく」

「5,000円とは恐れ入ったね。成分は何?」

「マカ、バイアグラ、スッポン、マムシ、オットセイのペニス、高麗人参、ニンニク、亜鉛、アルギニン、カサノバの耳垢、挙げたらきりがありませんが、男性が元気になると言われている約100種類の素材を世界中から集めました。それらを絶妙にブレンドし、これ1本にギュッと凝縮してあります」

「へー。100種類だから、百獣王というのかね。そりゃぁ凄い。でも、精力が付き過ぎちゃったら、どうにかしてくれるの?」

「どうにか、と申しますと?」

「どうにかは、どうにかだよ」

 酔いも手伝って、紀彦は若葉の胸の隆起に、あからさまな視線を送った。

かどうかは存じませんが、最後まで見学されたお客様には、当館のバーで、心いくまでおもてなしさせていただきます」

「おぅ、期待してるからね。じゃあ、どんどん観ていこう」


 標本No.5は、体長30cmくらいの巨大な昆虫だ。よく見かける昆虫標本のように、あしはねを広げた状態で、背中から特大のピンで留めてある。

 表示板の記載は、《キイロショウジョウバエ》だ。

「キイロショウジョウバエ? ハエが、なんでこんなにデカいんだ? さっきのスズメバチと比べても、ずっとデカいね。やはり昆虫ってのは、こんな風にデカいと、えらく不気味だし、怖いよ」

「なぜ大きいのかは、説明をお聴きになれば分かります。前にある椅子にお座り下さい。すぐに、説明が始まりますから」

 紀彦は座って、ドリンク剤を一気に飲み干した。

「うーん、不味まずい。ひどい味だね。ますます気持ち悪くなった」

「良薬、口にナントカと申します」

「ホントかよ」

 半信半疑だったが、紀彦はスピーカーから流れる若葉の声に耳を傾けた。


  *


 縄田なわたしょうは、カーブを抜ける手前で、車のアクセルをグッと踏み込んだ。コーナーワークが自分の思い描いたとおりだと、そのたびに、ささやかな満足感を覚えた。

 しかも、助手席には婚約者のさちがいる。

 こんな至福の時は、人生の中でもそうざらにあるものではない。

「昼には芦ノ湖あしのこに着けるかしら?」

「大丈夫だと思う。芦ノ湖畔のレストランでランチした後、少し見物してからホテルに行こうか。どこに行きたい?」

「アールヌーボーの作品を集めた美術館に行きたい」

「お、いいね。シャミだっけ? いや、シャムかな?」

「ミュシャでしょ」

「あ、そうか。そこに行こう」

 二人で一泊旅行に行くことは昨日急に決めた。だから、宿泊するホテルだけ予約してある。


 二人は、婚活サイトで知り合った。意気投合して毎週末会い、交際2か月で婚約した。

 すでに男女の仲だが、泊りがけのドライブは初めてだ。

 5月の連休あとの週末のためか、車の往来はそれほど多くない。

「今日泊まるロイヤルファミリーホテルは、ステーキが旨くて評判らしいね」

「ずいぶん高級なホテルなんでしょ? 費用、私も負担するよ」

「心配しなくて大丈夫だよ。結婚したら、毎日贅沢するってわけにはいかないだろうからね。今のうちさ」

 走行している有料道路は、両側に萌える新緑が美しい。

「来週末は、いよいよ前撮りだね」

 挙式は2週間後なのだが、その前の週に式場で、記念の写真を2人で撮影する段取りになっている。

「そうだね。わたし、緊張しちゃうかも。せっかくだから、翔の制服姿も撮ろうね」

「そう? あんまり気が進まないんだけど」

「ダメ。制服姿の翔、とってもカッコいいんだから。駐屯地のお祭りで翔の制服姿を見て、翔に決めたくらいなんだからね」

「えー? そうなの? 初めて聞いたな。中身より、制服かぁ」

「何言ってんの。決まってるでしょ。中身が一番だよ」

 翔は、幸の明るく素直な人柄が気に入っている。人と人との出会いは常に偶然に支配されているが、よくぞ幸と出会えたものだと、ふと思うことがある。


 道路は緩い下り坂だ。先が、左カーブになっている。

 カーブにさしかかろうとした瞬間、左の斜面から何かが飛び出してきた。茶色っぽいけもののようだ。

 翔は、とっさにブレーキを強く踏みながら、ハンドルを右に切った。そのとたん、車は横転し、ガードレールを突き破って道から外れた。

 道の外は崖になっていて、車は弧を描くように落下していった。数秒後、崖下にあった岩に激突し、大破した。たちまち車は火達磨ひだるまとなった。燃料タンクから流れ出たガソリンに引火したのだろう……。


<ううう。いてぇな>

 翔には何も見えなかったが、意識はあった。

<俺、どうしたんだっけな。ここはどこだ?>

 翔は、必死に記憶を呼び戻そうとした。

<幸と一緒に、車で芦ノ湖に向かってたんだっけ。いてて……>

 体のどこかに痛みを感じるが、我慢できないほどの痛みではない。

<カーブに差し掛かったところで、獣が飛び出してきたから、急ハンドルを切った……>

 徐々に、記憶が蘇ってきた。

<崖を落ちてから、車が燃えたんだ。俺も幸も、脱出する暇なんてなかった。ということは、俺も幸も死んだのか?>

 とにかく、一瞬の出来事だった。

<死んだはずなのに、なぜ意識があるんだろう? 俺は魂になって、どこかへ飛んでいく途中か? 地獄行きだったら嫌だな>

 だが、徐々に体の感覚らしきものが復活してきて、ボンヤリとだが、周りの風景も見え始めた。

<奇跡的に生き延びたのか? いや、そんなことはあり得ない。脱出する間もなく、車は火に包まれたからな。ということは……。いや、それもあり得ない。あれは、あくまでフィクションだ>

 翔の脳裏に、以前テレビで観たアニメが浮かんだ。通り魔に刺殺された男が、異世界に転生し、スライムになる話だ。

<アニメじゃ、痛覚耐性獲得とか何とかアナウンスがあって、次々と能力を獲得していたな。当たり前だが、そんなアナウンス、聞こえやしない>

 翔の視覚がだいぶ戻ってきたようだ。周囲の風景が鮮明に見えるようになってきた。落葉広葉樹林の中らしい。低い下草も生えている。

 翔は、不思議なことに気が付いた。何と、視界がずっと後ろの方まで広がっているのだ。

<やはり、異世界に転生し、新たな能力を身に付けたらしいな。信じられんが。広角視覚能とでもいうのか? 体は動くかな?>

 翔は立ち上がろうとした。だが、どうも勝手が違う。

<スライムだから、手も足もないか>

 ふと、右手を顔の前に持ってきた。

<ゲッ! 何だこりゃぁ!>

 それは明らかに人間の手ではない。剛毛が生え、先端には二つの鉤爪かぎづめがある。

<俺は人間じゃない! スライムでもない! なら、何なんだー?>

 翔は大声で叫んだが、声にはならなかった。発声器官はないらしい。


 

 



 

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