標本No.5 キイロショウジョウバエ 2
翔は、自分の後ろの方を見た。首は少ししか動かせなかったが、なぜか後ろが見える。背中には透明な
<俺は人間でも、スライムでもない。手足が6本あるようだから、昆虫らしい>
人間だった自分が昆虫に変身したとしたら、心理的なショックはとてつもなく大きいはずだ。しかし、意外なことに、翔の心が受けた衝撃は今のところ、それほど大きくはない。
<俺が死んだのは間違いない。だから、異世界でも虫でも、何だって構わない。とにかく、生きているだけで儲けものだ>
それに、異世界ものや転生ものが隆盛を極めている最近のアニメや漫画に親しんできたことも、ショックを和らげるのに役立っているのかもしれない。
<しかし、自分はいったい何に生まれ変わったんだ?>
翅を持つ昆虫は多い。というか、ほとんどの昆虫には翅がある。だから、自分の姿全体を見てみないと、自分がどの昆虫なのか知ることは難しそうだ。
<俺が何に転生したのか突き止めるのは、後回しだ。最初にすべきは、ここの世界がどういうものなのか知ることだ>
翔は、元の世界では陸上自衛隊の隊員で、通信大隊所属の3等陸曹だった。過酷な環境下でのサバイバル術の訓練も受けたことがある。
とはいえ、今は何の装備も食料もない。上官の指示を仰ぐこともできない。細心の注意を払って慎重に行動する必要がある。
<せっかく翅があるんだから、上空を飛んで辺りを目視したいところだ。だが、どんな捕食者が潜んでいるか分からない>
近くに杉の大木がある。
<まず、あの杉の
翔は、翅を羽ばたかせた。すると、体が宙に浮かんだ。
<お、やった! これが本能というやつか>
ところが、飛行を制御するのは簡単ではなく、何回も低木に突っ込んでしまった。
<クソッ! これが空自のパイロットだったら、もう少しうまく飛べるのかもな>
しかし、試行錯誤するうちに、飛行をコントロールする技術を身に付けた。翔は、杉の上の方に飛んでいった。
杉の梢に留まろうとして、何回か失敗した。
<ぼやぼやしていて、鳥にでも見つかったら食われちまう>
やっとの思いで、梢の枝に留まることができた。葉の間に身を隠しながら、翔は辺りを見回した。
遠くに、ひときわ高い山が見える。均整のとれたコニーデ(円錐状の火山)だ。富士山に違いない。
<これは驚いた。富士山の頂上から煙が出ている! やっぱり、ここは異世界なんだ。いや、それとも過去に飛ばされたのか? 富士山は活火山で、昔は煙を吐いていたらしい。江戸時代だったかな? 大噴火したこともあると聞いたことがある>
上空を、タカのような猛禽が旋回している。
<危ねぇ、危ねぇ。あんなのに見つかったら、食われるかもしれない。隠れてじっとしていよう>
すると、さらに上空から、1羽の鳥がタカめがけて猛スピードで飛んできた。たちまちタカに近付くと、タカを追いかけ回し始めた。2羽は
<ウォッ! いったい、どうなってるんだ? もう1羽の鳥は、見たところ、スズメじゃないか。しかし、タカに比べて、ずっと
タカは普通のものよりかなり小さく、スズメは逆に普通のものより相当大きい。しかも、スズメはタカに襲いかかっているようだ。
<やはり、ここは異世界なんだ。タイムマシンみたいに時を遡ったんじゃない!>
ついに、スズメはタカを鷲摑みにして、飛び去っていった。
今度は下の方で、何やら茂みをガサゴソいわせて争うような音がしてきた。翔が下の方を見ると、そこでも驚くべき光景が繰り広げられていた。
ツキノワグマが、何か肉色をした太いものに巻きつかれて、叫び声をあげている。翔が目を凝らすと、巻きついているものは巨大なミミズだ!
<ますます分からなくなってきやがった。ツキノワグマがやけに小さくて、ミミズの方は、ニシキヘビの数倍はある>
見ている間に、ツキノワグマはミミズに丸呑みされてしまった。ミミズは何事もなかったかのように、茂みの中へと消えていった。
翔は、杉の梢に一昼夜留まって、辺りで起こる出来事を観察し続けた。見たのは、驚くべきことばかりだった。
カエルがヘビを丸呑みし、トンボが鳥を食い、蚊がトンボを食った。それぞれの大きさは、元いた世界と比べると、どれも逆転している。
クモ、トンボ、アリ、スズメバチ、シジュウカラ、モズ、カラス、タカ、キツネ、クマなど、つまり、捕食者の多くは小型化している。一方、ミミズ、蚊、ハエ、コガネムシなどの甲虫、チョウ、ガ、バッタ、ミツバチ、ネズミ、シカなど、普通捕食者に食われる草食動物は、大型化しているのだ。
そして、捕食者が被捕食者に襲われ、食われる場面が何回も見られた。
<これはいったい、どういうことなんだ?>
翔は考え続けた。そして、ひとつの推論にたどり着いた。
<この世界では、食物連鎖が逆転している⁈>
その推論が成り立つとすれば、昆虫であるらしい自分は、昆虫を捕食する昆虫、たとえばトンボや、昆虫を捕食する鳥、例えばツバメだとかの脅威は、あまり考える必要がないはずだ。
<よーし、ここでじっと身を潜めていても、
翔は、留まっていた木の枝を脚で後に蹴ると同時に、羽ばたきを始めた。
翔が留まっていた杉の木はたちまち小さくなり、遠景となっていった。
<こりゃぁ、凄いぜ。イカロスの昔から、人間は空を飛ぶことに憧れてきたが、今、俺は自力で空を飛んでいるんだ。キャッホー!>
翔は叫びたかったが、やはり声は出せなかった。その代わり翔は、右に左に旋回したり、宙返りしたり、中空でホバリングしたりと、自分の飛翔能力を存分に試し、味わった。
<おやっ。向こうからカラスのような鳥の群れが飛んでくるぞ。やばいな>
しかし、カラスの群れは方向を急転換して、離れていった。
<そうか、カラスより俺の方が強いんだな。そうすると、俺が恐れるべき相手は何なんだ? 元の世界で、ハエよりも弱く、捕食されていたものは?>
答えはすぐには思い浮かばなかった。
森に覆われた小山を越すと、眼下に細長い形をした湖が見えてきた。
<形から見て、芦ノ湖に違いない。よし、近付いてみよう>
翔は、湖畔に向けて高度を下げていった。
<湖畔には、ホテルや温泉旅館、神社や商店街があるはずだ。どうなっているんだろう>
湖畔に
<箱根公園や関所跡があるはずだが……>
しかし、辺りは森に覆われており、人工物らしきものは、ひとつも見えない。
翔は、水面の上を飛んで湖の奥の方まで行ってみたが、芦ノ湖名物の海賊船も駒ヶ岳のロープウェイもなかった。
途中、向こうから飛んできたハエが、翔を避けていった。見ると、よくゴミなどにたかっている普通のハエだ。ただし、大きさは元の世界のものより格段に大きい。
<あいつが俺を避けるということは……、俺は、元の世界では普通のハエより小さい昆虫らしいな>
翔は、湖面に長く突き出した木の枝に留まった。水面に映る自分の姿を見ようというのだ。
多少風があるためか、湖面には常に
翔には、湖面に映る自分の姿が、はっきりと見えた。
<俺は、ハエだ!>
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