標本No.5 キイロショウジョウバエ 3

<さっき湖の上を飛んでいた時、向こうからハエが飛んできたな。よくゴミにたかっている普通のハエだったが、向こうの方から逃げていった。ということは、俺は普通のハエより小さなハエ、つまり、コバエなのか!>

 俗にコバエと呼ばれる小型のハエには何種類かある。大きさを除けば、翔はキイロショウジョウバエにそっくりだ。黄色い体と赤い目を持っている。好物は腐った果物のはずだ。少なくとも、元の世界では。

<腹が減ってたまらん。転生してから何も食べていないからな。元の世界でハエを捕食していた昆虫を探してみるか。ここでは逆に、餌にできるかもしれない>

 翔は、湖畔の木の枝から飛び立った。

<しかし、捕まえたとして、どうやって食うんだ? 確かハエは、カマキリやスズメバチが持っているような咀嚼そしゃく器官は持っていないはずだな。まさか、捕えた昆虫をめるのか?>

 獲物となりそうな動物を探しながら、湖から続く草原の上を飛んだ。

<お! カマキリがいる>

 目敏く見つけると、翔はカマキリめがけて急降下していった。カマキリは、慌てて葉の裏に逃げようとしたが、翔のあごにガッチリと咥えられ、空しく手足をバタつかせるだけだった。

 翔は、前脚まえあしでカマキリを摑みながら、旨そうな腹から先に貪り食った。邪魔な脚や翅は下に落とした。たちまち平らげ、残った頭は捨てた。

<なかなか旨かった。案ずるより産むが易しか。俺の口は、ちゃんと肉食ができるよう、変化しているようだ。一方、カマキリの前脚まえあしの鎌は、ずいぶん小型化していたな。草食性に変化したか、ごく小さな虫を捕食するようになったのかもしれないな>

 だが、カマキリ1匹では、たいして腹の足しにはならなかった。

<カラスでも狙うか。だが、野鳥はあまり食う所がなさそうだ。ヘビでもいればいいんだが>

 翔には、頭に浮かんだヘビが、ウナギの蒲焼きのように旨そうに感じられた。だが、ヘビがいるのは茂みの下などだろうから、簡単には見つけられそうもない。


 翔は獲物を探して、草原や森の上を飛びまわった。シオカラトンボを1匹捕えて食ったが、空腹は一向に収まらなかった。

<野生動物は、活動の大半を餌探しに費やすと聞いたことがあるが、まさにそのとお

りだな。まごまごしてると、飢え死にしちまうぞ>

 そのうち、ある疑問が蚊柱のように湧き出して、頭一杯に広がった。

<芦ノ湖周辺をだいぶ範囲を広げて飛び回っているが、異世界に来てから一度も、人間の姿を見ていないな。これはいったい、どういうことだ? 人間はどこへ行った?>

 元の世界では、人間は食物連鎖の頂点に君臨していた。食物連鎖のピラミッドが逆転したらどうなるのか。理屈の上では、人間は最下位ということになる。

<信じられないことだが、人間は食い尽くされて、絶滅したのか? それとも、絶滅危惧種みたいなものになったか。そうだとすると、俺はコバエに転生して、かえって運が良かったのかもしれん>

 

 考えごとをしながら飛んでいたためか、周囲への警戒心が薄れていた。

 突然、背後から何かが襲いかかってきた。翔はとっさに左に急旋回したが、それは執拗に追いかけてくる。

 追ってくるのは、シジミチョウだった。元の世界では、チョウの中でも小型の種類だ。しかし、この異世界では、翔と同じくらいの大きさになっている。つまり、体長30cmくらいだ。しかも、飛ぶ速さは翔よりやや早いようだ。

 2匹の昆虫の動きは、さながら第二次世界大戦中に戦闘機が繰り広げたドッグファイトだった。しかし、速さに勝るシジミチョウが、翔の背中に取り付いてしまった。

<ちくしょう、チョウの奴め。だが、どうやって俺を食うんだ? チョウの口は、花の蜜を吸う目的に特化して、ゼンマイ状に丸めたストローのはずだが>

 しかし、その謎はすぐに解けた。シジミチョウの口は、硬く尖った針に変化している。

<あれを俺の背中に突き立てて、体液を吸おうというんだな? そうはさせるか!>

 翔は陸自隊員として、どんなに絶望的な状況に置かれても、最後まで諦めず沈着冷静に対処する訓練を積んでいた。

 翔は芦ノ湖の上空に出ると、シジミチョウを背中に乗せたまま急降下した。

 湖面に衝突する直前に、翔は水平飛行に移った。しかも、背を下にした背面飛行だ。水面すれすれに飛んだから、シジミチョウはその翅が水面に接触し、翔の背から振り落とされてしまった。

 翔はただちに急上昇し、シジミチョウが追跡してこないことを確認してから、湖面を見た。翅がベッタリと水面に貼り付いたシジミチョウは、再び水面から飛び立とうとしてもがいている。ところが、突然水中から大きな口が現れ、一瞬でシジミチョウを吞み込んでしまった。おそらく、魚の類だろう。


<いやー、間一髪だったな>

 人間だったら、額の汗を拭う仕草をするところだろう。

<警戒監視を怠れば、即、命取りだ>

 森の上を飛びまわっていても成果がないと思った翔は、海岸の方へ行ってみることにした。

<芦ノ湖からだと、南東の方角に行けば最短で海岸に到達できるはずだ。それにしても、腹が減ってたまらん。海岸まで、体力が持つかどうか分からなくなってきた>

 元の世界では、空腹に悩まされ続けるなどということは皆無だった。自衛隊では、密林のような演習場内で何日も過ごすサバイバル訓練も受けた。しかしそれも、ハエとなった現在の自分には、あまり役立つとは思えない。最後まで諦めない精神力を除いて。


 方角は、本能的に把握することができた。

 しばらく森の上を飛行すると、その先に広々と広がる海が見えてきた。陽光を反射しているのか、キラキラと輝いている部分もあり、海は元の世界と変わらないように見えた。

 海岸が細長く海に突き出している所が見える。先端部には大きな岩がある。

<あれはきっと、真鶴岬まなづるみさきだな>

 ふと、車を飛ばして幸と岬まで来た日を思い出した。

<ダメだ。警戒監視を怠っちゃいけない>

 翔は気を引き締め直した。海岸に出る前に旋回して、捕食者が潜んでいないか探った。

<大丈夫そうだ>

 翔は海岸に接近していった。


 波打ち際と森の間の、幅が狭い帯のような場所を、動物の群が移動していた。

<ん? 何かな?>

 目を凝らすと、それらは二足歩行している。

<あれは、もしかして、人間か⁉>

 翔は、その群に接近していった。

 それは、まぎれもなく人間の集団だった。およそ30人くらい、いるだろうか。しかし、元の世界の人間とは、色々な点で違うようだ。

 翔は、上空を旋回しながら、彼らを観察した。

 ひどく粗末な衣類を着ていて、髪の毛はボサボサだ。足は裸足のように見える。見た感じを一言で言えば、歴史の教科書に出てきた縄文人だった。しかし、縄文人とは決定的に違う点がある。

 彼らは異様に小さい。身長は現代人の半分くらいしかないのだ。それに、単に背が低いというだけではなく、体全体が同じ縮尺で縮んでいる。

<彼らが、この世界の人間か! 食物連鎖の底辺にいるとしたら、弱くて臆病なんだろう>

 

 彼らは上空の翔に気付いたようだ。言葉のようではあるが翔には理解できない声を発する者がいて、彼らはいっせいに海とは反対側の森の中に駆け込んでいった。翔を捕食者と認識して、逃げていったのだろう。

 翔は、彼らがいた場所の上でホバリングしながら、ゆっくりと高度を下げていった。

 ところが、森の中から、彼らが叫び声を上げながら戻ってきた。翔は再び高度を上げた。

<ん? 何かに追われているようだ>

 彼らを追って森から飛び出してきたのは何と、ブタだった。これも、元いた世界のブタではない。大きさは2倍くらい。ブタの持つ大人しくて従順そうな様子はまったくなく、オオカミのような猛々い面構えだ。脚先あしさきひづめではなく、鋭い鈎爪になっている。

 10頭ほどのブタの群はたちまち人間に追いつき、人間を襲い始めた。

 ブタたちは、いとも簡単に人間を押し倒し、前足でガッチリ抑え込んだ。そして腹を食い千切り、はらわたを引き出して食らい始めた。

 あちこちで、悲し気な人間の叫び声とともに、血飛沫しぶきが上がった。たちまち辺りには血溜まりが出来ていった。残りの者たちは海岸線の両側に分かれて逃げ、あるものは海に入っていった。

 海中でも捕食者が待ち構えているのか、海に入った者は片っ端から海中に没して二度と浮き上がって来なかった。

<この世界では、人間は無力で、食われるためだけの存在なのか>

 しかし、その光景を見ても、翔の心に人間への同情は浮かばなかった。

<俺はもう人間じゃない。コバエなんだ!>

 ただ、ブタと一緒になって人間を食おうとまでは思わなかった。それに、いま幸がどこでどうしているのか、少し気にかかった。

 

 



 


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